一日目 二人の訪問者
…………ピンポーン。
「ん……。」
ピンポーン。ピンポーン。
「……うるせぇなあ……」
俺は布団から起き上がり、あくびを噛みしめながら玄関に向かった。のぞき窓を確かめるが、いたずらでもされたのか、黒く塗りつぶされたように何も見えない。
ピンポーン!
俺は舌打ちを一つして、鍵を開けると扉を開いた。
「また部屋に籠っとるのか」
扉を開けるなり、見知らぬ老婆がそう言った。白髪頭にしわくちゃの顔、着物にモンペを履いている。
「は?誰だよお前。気味わりぃ恰好してんなぁ......」
「なぜこんなところへ来た。あと半刻で神無月が来る。さばえなすものどもがお前たちを襲う」
「なんでって……ここは俺の家だっつーの。なんなんだよお前はよ。わけわかんねえこと言ってんじゃねえぞ、ババア」
「お前にとって一番大切なものはなんだ?」
「……あ?」
「一番大切なものはなんだ」
「んだよ、宗教の勧誘かぁ?…………自分だよ、じ・ぶ・ん!俺が一番大事なのは、自分自身だ!」
「では、自分以外全て忘れろ」
何の前触れもなく、老婆は俺の腕を掴み、ぶつぶつと念仏を唱え始めた。
「……ッ!おい、なにすんだよ!」
すると、頭に鋭い痛みが走り、酷い耳鳴りがし始める。俺は慌てて彼女の手を振り払った。
「うぐ、頭がいてえ……クソっ、俺に何しやがった、ババア……!」
「ひゃひゃひゃ。これでよい」
老婆は黄色い歯を剥きだしにして笑うと、ふところから竹の皮の小包みと、瓢箪を取り出してこちらに差し出してきた。
「隣の娘はお前と答えた。だから、これをやる」
「っざけんな、いらねえよそんなもん!隣の娘って誰だよ!?」
「これを食って四日耐えろ。今日から四日だ。それ以外のものは何も食うな。何も飲むな。何も聞かず、何も話すな。そして何より……」
老婆は言葉を区切り、しわの奥に埋もれた血走った瞳でじっと俺を見ると、ゆっくり、言い聞かせるように続けた。
「……扉を、開けるな。けして、そこから、出るな」
「あー……わかったぞ。あんた、ボケてんだな」
「四日で帰る。それまで待っていろ」
「はぁ……。わかったわかった。俺も暇じゃねえからさ、もう寝ていいか?」
老婆は手にした小包みと瓢箪を俺に投げてよこすと、地下足袋の静かな足音を残して去っていった。
「なんなんだよ……」
あっけにとられて見送ったあと、ふと思い出して、のぞき窓を確かめる。
「ハエ......?」
のぞき窓のレンズを覆うように、丸々と太った一匹のハエが止まっていた。
「あっち行け、虫けらが!」
俺が手を振って追い払うと、ハエは低い羽音を立てて飛び去っていった。中へ戻り、老婆が押し付けてきたものをゴミ箱へ投げ捨てると、布団に戻った。
「偉そうなボケババアだったな……ケッ、死んじまった山形のばーちゃんを思い出すぜ。一緒に暮らしてた頃はケンカしてばっかだったけど……会えなくなると、懐かしいな......。ああ、こんな狭いアパートと違って、ばーちゃんちは広々してたなぁ......」
布団の中でそんなことを考えながら、俺は再び眠りに就いた。
・・・・・・
…………………ピンポーン。
「………っ!」
ちょうどうとうとしかけた頃にまた鳴りやがった。どうせあのババアだ。俺は怒りで飛び起きると、奴を怒鳴りつけてやるために玄関へと向かった。
『ただいまー、開けてくれるー?ちょっと買い物しすぎちゃって、両手塞がってるの!』
扉の向こうから若い女の声が聞こえた。不思議なほど心が落ち着く、澄んだ、魅力的な声だった。
俺は一人暮らしだ。のぞき窓を覗くが、またハエが戻ってきたのか何も見えない。さっきの老婆の話を信じたわけではないが、少し気味が悪くなった俺は扉越しに言った。
「番号よく見ろ!ここは俺の部屋だ!」
一瞬の間があったあと、女はくすくすと笑う。
『なぁに、からかってるの?もちろん、ここがキミの部屋だって分かってるよ。……でも、そこは私の部屋でもあるよね?』
「……はぁ?」
『だから、私達同棲してるじゃない』
当然のことのように言う彼女に、一瞬自分が間違えているのではないかと不安になる。
「いや……間違いねえ。俺は一人暮らしだ。当たり前じゃねえか……。
……おいあんた!部屋間違えてるから、さっさと彼氏の所へ行けって!」
『だーかーら、ここがその、彼氏の所なんだって。間違えてなんかないよ。あなたは黒川光男、○○大学の三年生でしょ?そして、私の恋人♪』
「な……なんで俺のこと知ってんだよ……!?」
『ちょっと......ホントにどうしちゃったの……?』
「お、俺はお前のことなんか知らない!!俺に彼女なんかいない!!お、お前……誰だ……!?」
咄嗟にこんないたずらをしてきそうな女友達がいないか考える。......いくつか顔は浮かんだが、その誰とも声が全く違った。扉の向こうから聞こえるのは、一度聞いたら忘れることはないような美しさを持った声だ。……まるで、この世のものではないような……。
『私だよ、私……!九条茜!23歳!趣味は読書!好きな食べ物はドーナツ!声優四年目!全然仕事が来なくなって、そろそろ引退を考えてます!』
「そんな風にまくし立てられても、知らねえもんは知らねえんだよ……!」
『ねえ、お願い、早く開けて?いじわるしないでよ。もう腕が痛くなってきたよ……』
「だ、誰が開けるか!俺の名前知ってるなんて、おかしいじゃねえかよ……」
彼女はしばらく黙り、振るえる声で言った。
『……私、なにかキミを怒らせるようなことしたかな?昨日のハンバーグにこっそりニンジン混ぜちゃったから?一昨日エッチを断っちゃったから?それとも……最近それとなく結婚のこと聞いてたのがウザかった……?』
「知らねえよ……人違いだっつってんだろうがよ!」
どさり、と重たい袋が落ちる音がして、彼女の泣き声が聞こえてきた。
『ぐすっ、酷いよ、光男……。私に悪いところあったんなら治すから……お願い、中に入れてよ……。寒いよう……』
彼女の悲痛な声を聞いていると、絶対に扉を開けまいと決めていた心が揺らぐ。……もしかして、自分は何か大切なことを忘れているのではないか?おかしいのは彼女ではなく、自分なのでは......。
「あのババアに何かされた、のか……?」
泣き声は続いている。……俺は彼女を部屋に入れて、詳しい話を聞いてみるか悩んだ。
そして……散々ためらった後、扉を開けてみることを決める。ちょっと見てみてヤバそうな女なら、すぐまた閉めればいいだけの話だ。
「なあ、部屋に」『ああ。これでは駄目みたいですね』
なげやりな口調で、彼女が呟く。彼女の声色は豹変し、低く冷たい、得体のしれない悪意を感じさせるものになっていた。背筋にぞわりと寒気が走り、思わず数歩後ずさる。
『妙ですね、いつもはこれでうまくいくのですが。……もしかしてあなた、誰かの助けを受けましたか?』
「おま、お前……やっぱり俺を騙そうとしてたんだな!?何が目的だ!!」
『まあ、いいでしょう。時間が、まだ十分に残っています。……ねえ、私、あなたのこと、絶対に諦めませんからね』
「ふざけんな不審者!け、警察呼ぶぞコラ!」
『あなたの穢れのにおい......ここまで漂ってきています。こんなおいしそうな獲物、逃がすわけにはいきません......』
「け、穢れ?獲物?何の話だよ……!?」
『うふふふ……あはははは……はははははははっ!!』
壊れたように続く笑い声が、足音と共に少しずつ遠くなっていく。
あたりに静寂が戻った後も、俺は長い間扉から目を離せずにいた。
……視線をそらした途端、すぐにでもまたドアのチャイムが鳴りだしそうな気がして……。
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