第10話 契約書を書き直したいのです
辺境の朝は、いつも花の匂いで始まる。
窓の下の菜園の薬草、食堂の花瓶の切り花、廊下の先の温室から流れてくるかすかな香り。何の花か、と名前を全部言えるようになるまで、私は、この土地で、もうだいぶ長い時間を過ごしていた。
季節は、巡って、初夏。
あの王前奉上の儀から、ひと冬を越え、春を過ごし、もう一度、風のぬくみが菜園の縁に戻ってきた。
◇
「奥様、旦那様に、これをお見せしろと」
執務室に、ルカーシュが書類の束を抱えて飛び込んできた。相変わらず、廊下で駆けるのは礼法違反です、と執事のヨハンに叱られているはずなのに、この男は叱られ慣れている。
「騎士団の勤務表、新しいのができました」
「まあ、早いですね。では拝見します」
私は羽根ペンを置いて、書類を受け取った。縦に、当番の名。横に、月ごとの日付。そして、ところどころに、小さな印がついている。休みの印だ。
私が辺境に来てから、少しずつ整えていた、新しい勤務制度だった。働く者が、週ごとに身体を休める日を、決められた形で持てるようにする。最初は騎士団の古参たちが「そのような軟弱な」と抵抗したが、ルカーシュが先に率先して休みを取って、「おい、むしろ体が動く」と大声で触れ回り、一年がかりで定着させた。
「おかげで、隊の怪我人が、春はかなり減りました」
「それは何より」
「それで、奥様。お願いがひとつ」
「はい」
「奥様ご自身は、休みを取っていらっしゃいますか」
ぐ、と言葉に詰まった。
そう言われると。
「……執務の整理が、まだ、少しありますので」
「奥様」
ルカーシュが、眉を寄せた。
「『週にひと日、必ず休む』と、この勤務表の冒頭に書かれているのは、どなたのご意向でしたっけ」
(……私ですよね)
前世の社畜の癖は、なかなか抜けない。死んで異世界に転生してまで、私は、休むのが下手だった。
「わかりました。次の休みの日には、庭に出ます」
「ぜひ、旦那様とご一緒に」
ルカーシュはそう言って、にやにやと下がっていった。
◇
午後、王都からの早馬が、書簡を届けてきた。
金の封蝋。王家便。差出人は、第二王子レオナルト殿下──正式には、現在の王太子殿下。
(……本当に、レオナルト殿下は、こまめに書簡をくださるのよね)
扉を開ければ、ヨハンが目を細めて茶を運んでくれる。温度は、すこし熱い目。
書簡の内容は、短かった。
要約すると、こうだ。
『先般、王都にて新設される「国内産業改革調整局」の初代顧問に、ぜひラインハルト辺境伯夫人のご就任を検討されたし』
(……ああ、また)
これで幾度目か、もう、わからない。
私は羽根ペンを取って、短い返書を書いた。
『ご光栄に存じます。けれども、私は辺境で、定時に帰りたい身でございますので、今回も、お断り申し上げます。ご健勝をお祈り申し上げます。──エリーゼ・フォン・ラインハルト』
『定時に帰りたい身』の部分は、誤字ではなく、本気で書いた。
王太子殿下なら、このひねくれた断り文を、笑って許してくださるだろう。実際、以前の返書には、「貴家の勤務制度の評判は王都にも広まっております、私も参考にしております」と、茶目っ気のある一文が添えられていた。
第二王子殿下だった頃から、レオナルト殿下はよい方だ。兄君の後釜というのはお立場として難しかったはずなのに、表に出ず、内側で、王国を丁寧に整えていらっしゃる。
(このまま、辺境と王都は、穏やかな同盟でありますように)
書簡を封じながら、私はそう、短く、願った。
◇
夕方、書斎の窓を開けて、私は机の上に広げていた書類を片付け始めた。
今日は、週に一度の、休みの前日だ。
「エリーゼ嬢」
扉のノックと同時に、ギルベルト様の声が届いた。
「──入っても?」
「どうぞ」
彼は、いつもの黒い襟付きのシャツで、片手に、羊皮紙を抱えていた。
「少しだけ、時間を貰えるだろうか」
「はい」
机のそばに歩み寄って、彼は羊皮紙を、ゆっくりと私の前に置いた。
一瞬、目を疑った。
王宮舞踏会の夜、辺境伯家の控え室で、私が署名した、契約書の写し。
「──これを、書き直したい」
私はぎこちなく、顔を上げた。
「……書き直すと、申しますと」
ギルベルト様は、少し躊躇した。
それから、羽根ペンを手に取って、契約書の末尾、余白のところに、一行、書き足した。
字は、あの夜と同じ、几帳面な筆跡だった。
『生涯、君の時間を、奪わない。』
私は、息を止めた。
「……奪わない」
「うん」
「……時間」
「そう」
彼はそれだけ言って、羽根ペンを、そっと机の上に置いた。
「最初の条項に、『生涯、尊重する』と、書いた」
「……覚えて、おります」
「あのときも、書き足したくて、書き足せなかった言葉が、ひとつ、あった。それを、今、加えたい」
私の喉の奥で、何かが、こう、くすぐったく、まわった。
この人は、社畜根性の抜けない私に、「自分の時間を、自分で取り戻していい」と、今、言ってくれているのだ。
会議室の灯りを落としたあと、家に帰る電車がなくて、結局、オフィスで仮眠して、朝を迎えていた、あの頃の私に、言ってもらいたかった言葉だった。
(……やっと、休めるよ、私)
前世の、倒れた朝の私の背中を、私は、やっと、さすってあげられる気がした。
「……承りました」
私は、頭を下げた。
社畜の敬語が、今、初めて、愛の言葉に、かわった瞬間だった。
◇
顔を上げた私の手の指先を、ギルベルト様が、もう迷わずに取った。
そして、ゆっくりと呼んだ。
「──エリーゼ」
「様」が、ついていなかった。
私は、その「様」のない呼び方を、胸の中で、一度、ちゃんと、受け止めた。
それから、自分の声を、ほんのわずかだけ震えさせて、返した。
「……ギルベルト」
私の方も、「様」を、外した。
彼の灰色の瞳が、ほんの少しだけまるくなった。そして、肩の力を、ふっと、抜いた。
その肩に、私は、自分の額を、軽く、寄りかけた。
執務室の窓から、辺境の夕日が、真横から差し込んできていた。
机の端の花瓶には、今日は、淡い紫の矢車菊が、束になって生けられていた。何の記念日でもない、ただの、初夏の、野の花。明日、何の花が飾られるのか、私には、まだ、わからない。
わからないまま、それが、楽しみだった。
◇
契約結婚だったはずなのに。
私は今、世界で一番贅沢な定時退勤を手にしていた。
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