8.
十六年前の八月十三日、父は璃久の誕生を、それはそれは喜んだそうだった。何しろ璃久の上ふたりはどちらも女で、男児を熱望していた父の英二にとって、璃久は念願の男の子だったためだ。
何でも英二の父──つまり璃久の祖父は昔堅気の仕事人間で、ほとんど家にいることがない人だったらしい。ゆえに英二はずっと憧れていたそうだ。父と息子で釣りに行ったりだとか、キャッチボールをしたりだとか、酒を酌み交わしたりだとか、そういう親子関係に。
おかげで英二は周囲からも親バカとからかわれるほど熱心に璃久の世話を焼き、甘やかし、欲しがるものは何でも買い与え、ちょっとしたやんちゃをしたあとも決して叱らなかった。ふたりの姉が自分たちとの扱いの差に不平不満を言ったり、母の陽子が「ちゃんとしつけもしないと」と何度忠告しても聞かず、むしろ勃然と怒り狂って、
「璃久は男の子なんだから、これくらいしょうがないだろ!」
と家族を怒鳴りつけた。たぶん、あのあたりから璃久の家庭はぎくしゃくし始めたのだろうと思う。歳の離れた姉ふたりは弟の璃久を白い目で見ながらいつもふたりで行動し、同じ家の中で暮らしているのにほとんど言葉も交わさなかった。璃久の方から声をかけても返ってくるのは「知らない」とか「お父さんに言えば?」などという素っ気ない答えばかりで、次第に璃久も姉たちと距離を置くようになった。
一方陽子は英二が叱らない分、代わりに璃久を厳しく教育しようとしたが、それが原因で夫婦喧嘩が絶えなくなった。
幼い璃久は当然、どんな些細な悪事も叱り飛ばし、わがままも聞いてくれない陽子にはなつかず、叱られれば英二に泣いて告げ口したので、英二も璃久を守ろうとしばしば妻を怒鳴りつけるようになった。
そして最後には手を出した。
陽子が口答えをするたびに殴る蹴るの暴行を加え、
「女は黙って男の言いなりになってりゃいいんだよ!」
と力で捩じ伏せようとした。そんな父の背中を見て育った璃久は、気に入らないことがあればああやって暴れればいいのだと学習し、以後、家でも学校でも不満があれば暴れ、物を壊し、自分の言いなりにならない人間に対しては口汚い言葉で「死ね」と罵るようになった。
結果、璃久が小学五年生に上がる間際に両親が離婚することとなったのは言うまでもない。このときには既に香山家は男と女とで完全に分断されており、互いに憎しみ以外の感情を持ち合わせてはいなかった。ゆえに陽子は璃久を指差して「この子はいらない」と言い放ち、ふたりの姉を連れて家を出ていった。
けれども、対する英二は上機嫌で、
「これで男ふたり、親子水入らずで暮らせるな。口うるさくて邪魔なだけの女どもがいなくなってよかったな!」
と喜んでいた。そう、確かに喜んでいたはずだ。なのに、
「──おまえのせいで俺の人生ぶち壊しだよ。なんであのとき陽子を選ばずに、おまえみたいなゴミを取っちまったんだ……」
中学一年の冬。中学校に上がってからも問題行動が絶えなかった璃久は、気に食わないクラスメイトを殴ったり、教師に刃向かって校舎の一部を破壊したりと、依然として暴れ回っていた。
英二はそのたびに学校に呼び出され、教師たちから苦言を浴びせられる日々にすっかり憔悴していたようだ。
陽子がいた頃は、そういった呼び出しに応じて謝りに行くのはいつも彼女の役割で、英二は「仕事があるから」と決して学校には顔を出さなかった。当時は陽子も仕事をしていたのだが、英二は「女の仕事なんて遊びみたいなもんだろ」と言って聞く耳を持たず、それでも陽子が食い下がると殴りつけて黙らせていた。
されど陽子がいなくなれば、当然、英二の他に保護者の役割を担う者はいなくなる。父方の祖父母は既に鬼籍に入っていたし、母方の祖父母からは離婚の際に絶縁を言い渡されてしまったから、英二にはこの役割を押しつけられる相手がなかった。
かと言って学校からの呼び出しを無視しようとすれば「では警察に相談します」と脅される。強い者にはとことん弱い父は、こう言われると公権力を恐れて学校へ向かわざるを得なかった。
さらには学校だけでなく、璃久が危害を加えた生徒の親から「今すぐ詫びに来い」と呼びつけられることも増え、英二は都度、仕事を休んだり早退したりして対応に追われた。結果昇進の道は絶たれ、同僚たちからも冷ややかな目で見られるようになった。
立つ瀬を失った英二は退職した。そして次の職を探すでもなく、来る日も来る日も酒に溺れるようになった英二が、学校に行かなくなった璃久に向かって吐き捨てた言葉があれだ。
彼のあの言葉を聞いたとき、璃久は目の前が真っ赤になった。
母の顔面目がけてマグカップを投げつけたり、同級生をいきなり殴りつけたり、校舎の窓ガラスを片っ端から割って回ったりしたときと同じ、破壊衝動がぐらぐらと沸き上がるときの合図だった。
そうして気がついたときには父を床へ押し倒し、馬乗りになって、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も殴りまくっていたのだ。
「おまえのせいだろ……全部おまえのせいだろ!! 人のせいにしてんじゃねえよ、死ねやクソ野郎!!」
と、腹の底から絶叫しながら。
対する英二は両腕で頭をかばうばかりで、抵抗ひとつしてこなかった。いや、少しでも抵抗する素振りを見せようものなら、璃久は英二の腕の狭間に迷わず拳を捩じ込んで殴りつけた。
英二は途中から「やめてくれ」だの「悪かった」だのと命乞いを始めたものの、璃久には聞いてやる義理がない。だって父は、かつて母が同じように助けを求めたときも構わず殴り続けていた。
だから、殴る。殴る。殴る。殺す気で殴る。
──死んでしまえ。
あのとき璃久の頭にあった言葉はそれだけだった。
「おまえのせいだ、おまえのせいだ、おまえのせいだ……!!」
冬。窓の外でちらちらと舞っていた雪はいつの間にか降り止んでおり、曇天の雲間から西日が覗いた。
その陽光がまるで狙い澄ましたように、窓に引かれたレースのカーテンの隙間を縫って、チカリと香山家のリビングを照らし出す。
怒りに任せて拳を振り下ろし続けていた璃久はついに息が続かなくなり、肩を上下させながら股の下の男を見下ろした。
が、次の瞬間背筋が凍りつき、ヒュッと息を飲んで目を見張る。
何故なら視線の先で鼻や唇から血を流し、赤黒く腫れ上がった顔を晒して動かなくなっていたのは──璃久だった。
「……え?」
と震えた声を絞り出し、自身の右の拳を見やる。間違いない。殴ったのも自分だ。だって手の甲がこんなに腫れて血にまみれている。
──じゃあ、コレは、誰だ?
混乱した思考はついに璃久の動きを完全に止めた。
が、直後にぽんと肩を叩かれ、全身がびくりと縮み上がる。
愕然として振り向くと、見覚えのあるシルエットが佇んでいた。
恐らく知っている誰かだが、逆光のせいで顔がよく見えず、ただニタァッと裂けるような笑みを浮かべていることだけが分かる。
「おい、違えだろ。殺すなら、こうやるんだよ」
そう言って、影が何かを振り翳した。彼の頭上で鋭く西日を反射したそれは、工作用のカッターだ。そのカッターを、影は動かなくなった璃久の胸を狙って躊躇なく──振り下ろした。