10.
『福浦荘』の朝は早い。
従業員はまず、遅くとも五時半頃には起床してごく軽い食事を取ったあと、宿泊客の朝食の準備に取りかかる。調理担当は『福浦荘』の経営者である福浦夫妻。彼らが朝食を準備している間、バイトは食堂の掃除とセッティングに奔走する。最大で十六人まで収容できる食堂のフローリングに掃除機をかけ、ぴかぴかに磨き、また食事用のテーブルもアルコールを使って丁寧に拭いて回るのだ。
さらに食堂の外には、大開口の掃き出し窓から出入りできるウッドデッキが併設されており、そちらのテーブルや椅子も綺麗にして整える。朝食は朝日を浴びながらウッドデッキで食べたいと要望する客が多いらしいので、デッキの床もざっと掃き掃除したあと、外づけの水栓からホースで水を撒き、汗だくになりながらモップをかけた。
掃除が終われば、次はセルフコーナーの準備だ。『福浦荘』では朝食の時間、飲み物がセルフサービスになる代わりに飲み放題になる。
このため食堂の隅に置かれたコーヒーメーカーにコーヒー豆を補充したり、タンクに水を注いで沸かしたり、冷たい飲み物──基本は水と烏龍茶とオレンジジュース、アイスティーの四種類だ──を満タンにしたピッチャーを小型の冷蔵庫内に並べたりと、とにかく補充、補充、補充に追われた。
「おはようございます、いらっしゃいませ!」
そうこうしているうちに準備時間の一時間は飛ぶように過ぎ、七時半になると、二階の客室から宿泊客が続々と食堂に姿を現した。
昨晩『福浦荘』には三組八名の客が泊まっていたようだ。
厨房からちらと覗いた限りでは、若いカップルがひと組と老夫婦がひと組、そして日路江と同じ年代と思しき女性客の四人組。
いずれも地元の人間ではないようで、特に女性四人の席からは関西弁ともまた違う、西の方の訛りを感じる談笑が聞こえていた。
「りっくん、りっくん、次は洗濯! 洗濯機回してる間に朝ごはん食べなきゃだから、ダッシュだよ!」
ところが食堂が無事解放されてひと息入れる暇もなく、次は洗濯室へと急かされる。『福浦荘』の一階には、大浴場と呼ぶにはささやかだが五、六人が同時に入れる程度の風呂場があり、夕方から夜にかけて、男湯の時間と女湯の時間を設けているらしかった。
その浴場に併設された脱衣所には、入浴客が使用したタオル類を放り込むためのダストシュートならぬ洗い物シュートがある。シュートの向こうは宿のリネン室で、投げ込まれた洗濯物は穴の真下に置かれた洗濯籠に溜まるようになっていた。さらに昨夜と今朝の調理中に使用したタオルや台拭きなどもまとめて回収し、洗濯機二台を使って洗濯にかける。洗濯完了までにかかる時間はおよそ三十分。
待っている間に一旦住居へと戻り、朝食として客に出された料理の余りをいただいた。拓海と日路江はどちらもプロの料理人で、あおい曰く、若い頃には仙台の調理師専門学校に通っていたらしい。
ふたりはそこで出会って数年付き合ったのち、結婚してまず小さな食堂を開いた。拓海の父親──すなわちあおいの祖父は妣之島の漁師だったから、拓海は昔から、父が水揚げした魚介を使って料理する店を出したいと周囲に語っていたのだという。
「拓海伯父さんの上にはもうひとり、洋さんっていう伯父さんがいてね。漁師の仕事は長男の洋さんが継ぐから、伯父さんはもっと違うことがやりたいって思ってたんだってさ。でも、おじいちゃんも洋さんも、東日本大震災のときに漁船を守ろうとして、津波に呑まれちゃって……おまけに当時、伯父さんと伯母さんがやってた食堂もめちゃくちゃになっちゃったみたい。だからもう食堂はやめにして、新しく民宿を始めることにしたんだってさ」
「……じゃあ、ここって、できてからまだ新しいのか」
「うん。確か今年で八年目か九年目? だったかな? あたしは震災のときはまだ生まれたてだったから、当時のことはよく知らないんだけどね。今のも伯父さんじゃなくて、うちのお母さんから聞いた話。伯父さん、今でこそああだけど、当時はすっごい落ち込んで色々大変だったらしいよ。でも、そういうことがあってもまた島で民宿をやろうって思えるんだからすごいよね。あたしも学校で毎年震災のときの動画見せられるけどさ、あんなことがあったあとに同じ場所で頑張ろうなんて思える自信ないよ。よっぽどこの島に思い入れがなきゃ、無理だよね」
とは福浦家の茶の間にて、ふたりきりで朝食を取ったときのあおいの言だ。拓海と日路江は客の朝食後もチェックアウト対応などの事務仕事があるとかで、結局一度も裏に戻ってこなかった。
どうも夫妻は仕事の合間に、帳場の裏手にある事務室で食事を済ませるのが習慣であるようだ。ちなみに六時半頃起き出してきた娘の夏帆は、璃久たちが宿中の洗濯物を掻き集めている間に朝食を済ませて出勤していった。水族館の勤務は八時半からなのだそうだ。
今日、もし夏帆に会えたら、日路江から水族館の年間パスポートを借りた件についてひと言断りを入れておいた方がいいかと思っていたのに、朝の業務が目まぐるしすぎてそんな隙はどこにもなかった。
しかも食事休憩が済んだら済んだでまた激務だ。
午前九時。炎天の下、洗濯機から回収した大量の洗い物をすべて干し終えたら、次の仕事は食器洗いと浴場の清掃だった。
宿泊客が朝食で使った食器はすべて洗って乾燥機にかけ、コーヒーメーカーに溜まったコーヒー粉やタンクに残った水も捨てる。さらに福浦夫妻が使用した調理用具も洗って水気を拭くと、最後に調理台と食堂の各テーブルをざっと消毒して浴場に移った。そこでも脱衣所の床に掃除機をかけたり、浴場の床をモップがけしたり、お湯を抜いた浴槽を磨いたりと、とにかく掃除、掃除、掃除に次ぐ掃除だ。
まだ一日目で要領が掴めていないせいもあるが、民宿で働くというのはこんなにハードなのかと、額に滲む汗を拭いながら思った。大工見習いのときも現場への出入りはあったが、璃久は建物の中で作業することの多い内装工だったためか、ここまで動き回った記憶はない。
おかげで、普段は十時を目安に終わらせるという一連の作業が完了したのは十一時過ぎだ。事前に拓海から「時間は多少前後する」とは聞かされていたものの、まさか初日からここまで大幅にずれ込むとは思わなかった──我ながら、情けない。
「あら、香山くん、お疲れ様。早速色々お願いしちゃってごめんなさいね。あおいちゃんも、率先して動いてくれてありがとう」
かくしてひと通りの午前の作業を終えたあと、既に疲労困憊気味の璃久があおいに連れられて裏へ戻ると、そこには茶の間で大量の洗濯物をたたんでいる日路江の姿があった。どうも璃久とあおいが朝のうちに干した洗濯物の一部が、もう乾き出しているらしい。
日路江の話によると、昨夜宿泊した三組の客のうち、二組は朝食後ほどなくチェックアウトしたので、次の予約客がやってくる十四時までは少し落ち着いて過ごせそうだとのことだった。
「香山くんは初めてのことばっかりで疲れたでしょう。今日の休憩は十二時から三時まで取ってもらっていいから、まずはゆっくり休んでちょうだい。お昼ごはんはこれから用意するけど、どうする? うちで食べる? もしどこか観光でもしながら外食してきたいなら……」
「あ……と、今日は、その前に……で、電話、お借りしたくて……」
「あっ、そうだったそうだった。私ったらうっかりしてたわ、ごめんなさいね。電話、子機ならここにあるんだけど、アルバイトの件を話すなら雇い主も電話に出られた方がいいわよね。拓海さんなら事務所にいるから、あそこの親機からかけたらいいわ。あおいちゃん、案内してあげてくれる?」
「うん、あたしはいいけど……りっくん、どうする? 電話って今すぐかける? それとも少し休んでからにする? 電話、お昼頃ならつながるかもって言ってたけど、時間的にまだちょっと早くない?」
「あ。た、確かに……なら、えっと……洗濯物、手伝います」
「あらあら、いいのよ、これくらいやっておくから。そういうことなら、一旦お昼までゆっくりしててちょうだい」
「え、でも、休憩、十二時からって……」
「あっははは。うちはしっかりした企業さんと違って自営業だから、その辺はいくらでも融通がきくのよ。こっちが〝働いて〟ってお願いしてるのを無視されるのは困るけど、〝休んでいい〟って言われたら別に勤務時間内でも休憩してもらって構わないわ。休んだら休んだ分だけお給料を減らす、なんてこともないから大丈夫よ」
「そーだよ、ここのバイトは忙しいときは死ぬほど忙しい分、そういうとこはゆるゆるだよ~。だからあたしは毎回友達連れてくるんだ! 一人より二人で作業した方が断然早く終わるでしょ? そしたら空いた時間ぜーんぶ自由時間になるからね!」
「そうね。あおいちゃんは仕事の合間に、学校の宿題も終わらせないといけないものね」
「うわっ……伯母さん、せっかく忘れてたのにヤなこと思い出させないでよ~! そうじゃなくても今年はめっちゃ宿題多くて激萎えしてるのに……」
「ふふふ、ごめんなさい。でもそうよねぇ、あおいちゃんも今年から高校生だものねぇ。ついこの間まであんなに小さかったのにねぇ」
とふたりが他愛もない会話を交わすさまを後目に見ながら、璃久は何となく居心地の悪さを覚えて、明後日の方角に視線を彷徨わせた。
……夏休みの宿題。そういえば璃久も、小学生の頃にはそんなものがあったような気がする。中学でもあったのかもしれないが、記憶がない。恐らくろくに学校に通わなかったせいだろう。
でも、普通の十六歳にはそれがある。小さい頃から傍で見守り、しみじみと成長を喜んでくれる人もいる。そのどちらも持ち合わせていない自分は、やはり普通ではないのだと──世間から爪弾きにあった〝異物〟なのだと思い知らされたような。
そういう勝手な被害妄想が、璃久の胸に爪を立てた。
と同時に、些細なことでいちいち傷つかずにはいられない自分に嫌気がさして、浅く唇を噛んだのち、言う。
「……あの。じゃあ、俺、少し……部屋で休んできてもいいですか」
「あら、もちろんよ。お昼はうちで食べるってことでいい?」
「はい。よろしく……お願いします」
「はいはい。じゃ、ごはんができたら声かけるわね。拓海さんはまだしばらく事務所にいると思うから、電話使うときはあおいちゃんに案内してもらってちょうだい」
「はい」
なおも洗濯物をたたみながらそう告げた日路江に頭を下げて、璃久はひとり茶の間をあとにした。そうして玄関の真正面にある階段を上り、福浦家の二階に与えられた下宿部屋へと戻る。布団は朝のうちに片づけてしまっていたから、畳の上に直接倒れ、仰向けに転がった。
数時間ぶりにひとりになってみると、思いのほかここは静かだ。
友のように慣れ親しんだ静寂は、いつもなら璃久にほっと安心できるひとときをもたらしてくれる。何せひとりは気楽だ。
周囲の視線に怯えなくて済むし、誰にも気を遣わなくていい。
ミスをして怒鳴られることもなければ、傷つけられることもない。
だから璃久はここ最近ずっと、ひとりでいることが好きだった。
でも、何だか今日は、ちょっと静かすぎるような。
「……疲れた」
右腕で力なく両目を覆ったまま、誰にともなく呟いた。
隣に寝そべっている静寂は何も答えてくれない。
まったく友達甲斐のないやつだ。福浦家の人々ならばきっと「お疲れ」と、迷わず笑い返してくれるのに。




