行ってきます
その頃のファーリスデル王国・王都では――。
時計塔の最上階で、もう十数時間も顔を上げていなかったフレアが、西側の壁を見た。
その方角では今、レオリン率いる王国軍……そしてセシリーが恐ろしい魔物たちや、暗黒と戦っている。心なしかわずかに、頭上を覆う重苦しい気配が取り払われた気がする。しかしすぐにフレアは、姿勢を正し祈りに戻る。
(皆きっと、力の限りを尽くしてくれている。そしてセシリーがひとりで暗黒を封じるために行ってくれた。ここで私が緩むわけにはいかない……。お願い……女神様、皆をお守りください!)
「ニャ……」
太陽の女神の眷属たるサニアという黒猫も、ずっと彼女に寄り添うようにし、遠くを睨んでいる。そんな様子を溶けた鉄扉の外から見た護衛の正騎士のひとりが、陰鬱な声を漏らした。
「本当に、この国は大丈夫なんだろうか? 国王様は王太子の帰還を信じて待つように言われたが……俺たちはこうしていていいのか?」
「おい、不謹慎だぞ」
同僚に窘められたが、その正騎士は言い返す。
「そういう事じゃなくてさ。俺たちも、誰かに言われるままじゃなくて……自分の意思で考えて、何かするべきことがあるんじゃないのかって思ったんだよ」
――太陽の石が破壊された翌日、彼らは王城に集められ、直接国王からこの国にまつわる聖女の逸話が史実であり、これからその再来が起きようとしていることを聞いた。多くの同僚たちがレオリンの指揮の下西方のリズバーン砂丘へ派遣され、今はその戦況の連絡待ちだ。
国民にこの話はまだ伝わっていないが、家族を逃がそうとする者は王国軍の中にもいるだろうし、時計塔で大規模な改修工事が行われているのも事実だ。町でも噂くらいは広まってのかも知れない。
もし騒ぎになり、暴動が起これば自分たちも駆り出されることになるだろう。それに戦況次第では、今すぐにでも連絡が来て、国民をどこかへ安全に避難させないとならない。
そうなれば、一体どこへ……とは思うが、それは正直言って分からず、不安ではある。だがどこだろうと、王国の上層部が出来る限りの手を尽くしてくれることを信じて、有事の際に国民たちの命を救うべく行動する……それが、王国軍正騎士団に所属して日々の糧を得ている彼らの、せめてもの通すべき筋だろうと、この正騎士は思っていた――。
そんな彼に、同僚は困惑の表情で答えた。
「とは言っても、いきなりあんな事を国王様の口から言われて……何ができるってんだ。俺たちゃただの人間だぞ? 魔法騎士の奴らみたいに、魔物だってひとりじゃ倒せやしない。こうして、言われたことをしっかりこなすしかないだろう」
「それは、そうだろうが……。……おっ、どうした。お猫様、聖女様に何かあったか?」
サニアはするっと騎士たちの足元にすり寄ると、フレアの方に顔を向ける。それを跪いて撫でてやりながら、同僚は言った。
「わかってるよお猫様。嘘ごとであんなに真剣に祈れるやつがいるもんか……」
「そうだな……せめて俺たちも自分の役割だけは誇りをもって果たすよ。その前にどうせだ。俺たちも祈ろう」
「何を祈るんだ? 何に祈ればいい?」
「それは人それぞれだろう」
正騎士たちは跪くと両手を握り、それぞれの信じるものへ祈りを捧げる。
黒猫サニアは騎士たちをじっと見ていた。しばらくして、彼らの体からほんの小さな光の粒がひとつずつ漏れ出し、行き場を求めてどこかに飛んでゆく。
「ニャ……」
サニアは、それを見て満足そうに頷くと、時計塔にいくつか開けられた各所の窓際に登り、眼下の町並を見つめる。
今、彼女の目には、王都が光に包まれたように映っている。
――オーギュストは、支援物資を届けようという馬車の中で、妻サラの肖像画を見ながら、娘の無事を一心に祈っていた。
――ティシエルは、友の決意に報いようと徹夜で、王城の書庫に入り浸って封印を保つ術を求めた。
――メイアナは、若いふたりが、またこの喫茶店で楽しそうに踊って見せてくれること、切に願った。
――ロージーは、セシリーたちがきっと帰ってくることを疑わず、一生懸命自分の仕事をこなした。
――キースは、いくつも送られてくる魔導具からの通信を捌きつつ、リュアンたちの無事を信じていた。
――遠い国でもレミュールとマーシャが、大勢の元聖女候補たちと共に、奇跡を望んだ。
――ジェラルドも、大勢の国民を救うため、万が一国が失われた時人々の受け入れ先を得るため、各地を駆け回り、必死に頭を下げた。
その他にも色んな人々の願いが、時計塔に吸い込まれ、光の橋を形作ってその場所へと送られてゆく。サニアもフレアの背中を見つめて尻尾を振ると……自らをそうした光に変え、跳ねるように橋を目指して飛び込んで行った。
◆
あれ程大挙して押し寄せていた魔物たちがいつの間にか数を減らしているのを不審に思いながら、リュアンはラケルを伴い、馬で砂丘の中心部へと走る。
レオリンは部隊を率いて退路を確保しながらこちらに向かっている。負傷者の治療なども必要だし、どのみち、強い魔力を持たなければ、瘴気の中心部ではきっと耐えられないのだ。しばし行軍速度を緩め回復を図るのも立派な判断だろう。
だが、事の終わりの予兆を顕著にリュアンもラケルもその肌で感じている。今まで、ずっと薄曇りに包まれていた空が、明るみを増している。そして、遠くに見えていた黒い靄の山も、もうほとんど見えない。
「セシリーが何かしたのか……?」
「……それしか考えられないでしょう。今まで誰もどうにかできなかった封印を……。本当に、すごいや」
希望の色が戻ったふたりは、一刻も早く彼女の元に駆けつけようと馬を走らせる。
気づけば、あれほど強かった中心部に向いて吹き込む風が止んでいる。瘴気が酷ければ馬を置いて進むつもりだったが……今やもうその心配はなさそうだ。
そして見えた……今や元の数十分の一にまで縮小した黒い瘴気の山が。
半分透けたようなその内部にはセシリーの姿がはっきりとあり、リュアンはあまりの嬉しさに大きく手を振って叫んだ。
「セシリーっ! やったな!」
その外側に寝かされていたエイラには目もくれず、リュアンたちは馬を飛び降りると、駆け寄ってゆく。
「待って!」
「待てるか……! すぐそっちに行く!」
「ダメ!」
それを強く遮ったのは彼女の鋭い声で……。リュアンはそれも構わず駆け寄ろうとするものの、再びの制止を受けようやく止まる。
「ダメよ……ふたりとも、どうせ戦いの後であんまり魔力が残ってないんでしょう? そんな体でこっちに来たら、すぐに影響を受けて倒れちゃうから。心配しなくても、もうすぐ終わります……」
「む……」
ふたりとも、苦笑を見せたセシリーに少しだけ緊張がとけ、その場でじっと待つ。その間にも、少しずつ、黒い円の半径は狭まり……後、十歩分、九歩分と小さくなるのを待ちきれない様子で、彼らはじりじりと空いた傍から距離を詰める。
「ラケル……」
彼女に呼びかけられたラケルは、叱られた子供のようにびくっと体を震わせる。しかし……ぐっと拳を握ると、顔を上げ、セシリーに謝罪する。
「ごめん、セシリー……僕は独りよがりで最低な人間だった。君の気持ちも考えず自分の欲望を、押しつけて……拒絶されたのに諦め切れず、団長を手に掛けようとした。そのせいでリルルまで傷つけたけど……またあいつが命を救ってくれて、色々教えられたよ。本当はこうして君の前に立つ資格も無いけど……謝らせてくれ! あの時からずっと……ごめん!」
ラケルは深く頭を下げた。
それに対し、セシリーは首を左右に振る。
「……ううん。ちゃんと向き合ってあげられなかった私こそ、弱かったんだ。大切な友達だったから……本当の気持ちを伝えて、嫌われるのが怖かった。ごめんねラケル……あなたの言った通りだった。私、リュアン様が一番好きなんだ」
「ガレイタムの王都で話す君たちを見た時から……いや、本当はもっと前からわかってた。でも……くそっ、本当に悔しいっ! ……それでも、リルルが身を挺して失う悲しみを教えてくれたから、もう終わりに、しなくちゃね……。あの場所は、僕にとっても大切だから」
「ごめんなさい……。リルルにも私が感謝してたって言っておいて」
「うん……?」
引っかかるものを感じて首を傾げたラケルがややあって頷くと、リュアンが強引に彼を押し退けて前に出た。
「お前ばっかりセシリーと話すな。今は俺の恋人なんだ」
「……普通それ傷心の部下の前で言います? 憧れの騎士団長だったのに、幻滅しましたよ。帰ってからいくらでも話せばいいじゃないですか」
「うるさい黙れ……今の俺にとってはセシリーとの一分一秒が最優先なんだよ」
「言ってて恥ずかしくありませんかそれ。……はぁ、それじゃお望み通りふたりきりにしてあげますよ。もう辺りには魔物も見当たりませんが……エイラさんをあのまま放置しておくのも危ないですし、周囲を見張っておきます。それじゃセシリー、また後で」
「うん」
ラケルの背中に手を振り終え、セシリーはリュアンとふたりきりで残された。
「お前が攫われた時は、ひやっとしたぞ……まったく。こんな短い期間にいったい何度攫われるつもりなんだかな……このお姫様は」
「あはは……最初会った時の人攫いは未遂だったから、マイルズの時と、ジェラルド様の時、それから今回も。三度目ですよね……度々ごめんなさい」
済まなそうに言うセシリーに、リュアンは真面目くさった顔で言う。ふたりの距離はもう後六歩ほどだ――。
「言っておくが、もう四度目は無いからな。向こうに戻ったら……もうお前を離さない。誘拐なんて絶対させない。お前が嫌だって言っても、離れてやらない。ずっと、傍にいるから」
その言葉に、瘴気の中で見えづらいにもかかわらず、セシリーの顔が真っ赤になった。
「そ、そういう事は、もうちょっといい雰囲気の時に言って下さいよ」
「いや、お前は目を離すとどこかにいなくなるから、もうここで決めておく。戻ったら……俺と結婚してくれ、セシリー。婚約指輪は、まだないんだけどさ……王都に戻ったら一緒に買いに行こう」
頭を掻きながらリュアンは、恥ずかしさを押し殺すと言い切った。セシリーは、瞳が潤むのを懸命にこらえると、嬉しそうに頷く。後五歩――。
「はい……絶対ですよ。それじゃ……今回の祝勝会も兼ねて、皆を呼んで、婚約披露もさせてもらっちゃったりして……」
言い淀んだセシリーの言葉をリュアンが継ぐ。
「そうだな。またちょっとばかり迷惑を掛けるけど、ある程度仕事を片付けたら、ふたりで旅に出よう。兄上やレミュール王妃にも挨拶をしなきゃならないし、それに、ちょっと行きたい所もあるから。俺の代役はラケルにやらせるさ……あいつ、お前のために俺と張り合うくらい強くなってたんだ。でも、しっかりとけじめは付けさせて……またそれからだな」
リュアンは成長した彼の後ろの姿を見て明るい顔で笑った。しばらくはわだかまりは完全には消えないかも知れないが、きっとまた彼らが一緒に笑い合える日は来るだろうとセシリーは思う。後四歩――。
「ガレイタムでは大変でしたね。私、びっくりしちゃいました。リュアン様が王子様だったなんて……でも、あの時は驚くばかりでちゃんとお礼も言えなかったけど、私……助けに来て貰えて嬉しかったです。大事にしてもらえてるって、わかったから。きっと私だけだったら……ラナさんと、あなたたちの姿を見ていなかったら、今こうして、ここまで誰かのために祈れなかった」
セシリーが手を添えていた、白く太い柱はそうしている内も徐々に崩れて低くなっていった。そこから浄化され光になった瘴気が、女神たちが上空に開いた異なる世界の扉に導かれ、吸い込まれるようにその姿を消してゆく。後三歩――。
そこでリュアンは、セシリーの足元にあるふたつの石が……ちか、ちかと瞬くのを見て不思議なことに気づいた。
……影が、差さない――。
気付いたその瞬間、駆け出していた。
「セシリーっ!」
瘴気が身を焼くのも構わず彼は跳び込むと、肌を炙られるような痛みも忘れてセシリーを掻き抱く。だが……。
「ごめんなさい」
その手は、何も掴めなかった。リュアンの体を温かいものが囲み、瘴気を遠ざけてくれる。でも、セシリーの体は、どこにもない……。
リュアンは……喉を震わせた。
「なんで……なんで待っててくれなかったんだよ。本当のことをどうして、話してくれなかった。その石の力を借りれば……お前は一人で無事に暗黒を、消すことができるってそう、言ったじゃないか! 自分まで消えるだなんて……。今、お前の体はどこにあるんだ!」
「ごめんなさい……どう伝えたらいいのか、わからなくて」
「ごめんなさいじゃないだろうが! 今すぐ止めろ! 戻って来い! こんなもの、後はどうとでもなる……! お前がいなくなったら、俺は……俺はまた」
「リュアン様! 私のこと、信じてくれていますよね?」
「当たり前だろ!」
「なら話を聞いてください!」
「……っ。話して、くれ」
セシリーは時間が無いと、リュアンの胸にそっと手を触れる仕草をした。すると、リュアンの頭に、セシリーの意志が流れ込んできた。
今彼女の足元にある、作りかけの月の石と太陽の石……暗黒をこの世界から、自分たちの世界へ送り返すために、それらに女神は自分たちを移していたのだという。セシリーはそれらの力を自分の身に宿らせ、意思を持たぬ砂の柱と化したリズバーンの体ごと、暗黒を浄化していた。
しかしそれは……彼らと一体になるという事は、大いなる力に飲み込まれることと同じことだ。リズバーンのように拒絶反応が出て反発し、不完全に終わるのが普通だ。しかし、セシリーは自分の意思をを失くすことなく彼らにその身を捧げることができた。なぜなら……。
「皆が、私を大事にしてくれたから。色んなものを与えて強くしてくれたから……何も怖がる必要は無いんだって、教えてくれたから」
「でも、それじゃお前が消えてしまう……!」
「消えないよ。消えてたまるもんですか……だって、皆と約束したもん。絶対帰るって……。家族も、友達も、仲間も……絶対悲しませたりしない。だから……お願いリュアン様。私を信じて。いつか絶対、皆のところに……あなたのところに帰ってくるから!」
今回だけはセシリーは泣くまいと思った。満面の笑顔でリュアンの前で胸を張る。
出会えたことを悲しまずに、喜んで力に変え、この先も歩んで行って欲しい。
ずっとこの先も、その曇りのない真っ直ぐな目で……最初に会った時から大好きだったその瞳を俯けずに、信じた道を彼らしく駆け抜けて欲しいから。
こうすれば、どんな言葉で伝えるよりも、きっとわかってくれるだろうと思ったのだ。
「できるのか……。じゃないよな……やるって決めたんだよな、お前にしか出来ないことを。なら、俺は……」
リュアンはいつのまにか零れそうになってた涙を袖で拭う。
そしてセシリーを真摯な瞳で射抜き、突然大きな声で言った。
「俺……リュアン・ヴェルナーはセシリー・クライスベルを終生の伴侶と定め、いついかなる時もその身を案じ、寄り添い……決して惑わず愛を捧げることを誓う!」
「え……あ、はい?」
予想と違った返しに戸惑うセシリーに彼は、とびきりの笑顔でこう約束してくれた。
「――……先に誓っておくよ、セシリー。だから、戻って来てくれ……ずっと待ってるから。いつになっても、どんな姿でも、お前だけを……」
嬉しくて……嬉しくて……彼の胸に飛び込みたかった。
でも、それはきっと……そうできるのはずっと先のことになるのだろう。
「もしかしたら、お祖母ちゃんになってるかも」
「それでも」
「犬とか猫とか、鳥とかお魚さんになっちゃってるかも」
「なんでも。……きっと、目を見たらわかるよ。お前みたいに可愛いやつ、他にいるもんか」
リュアンはそっと目元を拭うように、セシリーの顔に手を伸ばした。
そこで気づいた……決して泣かないつもりだったのに、いつからか、温かいものが頬を濡らしている。
弱々しい音を立て、太陽の石が砂となって崩れた。元の世界に還ったのだ。
セシリーの輪郭も朧げになり風が吹けば消えてしまいそうなくらいに、もう儚げだ。
ふたりはどちらともなく、顔を近づけ、唇を触れ合わせる。そこにはもう存在を知らせるものなどなにも無い。だけど、ふたりは確かに互いの温もりを感じ、想いを分かち合っていた。
そして……唇を離すと、セシリーは幸せそうに笑った。
「行ってきます、リュアン」
「またな、セシリー」
柱の場所に最後に残っていた紫色の水晶が、かしゃんと砕けてきらめく細い光の筋となり、リボンのようにたなびいてどこかへ消えた。月の石ももう跡形もなく……そして、明るい太陽がリュアンを真上から照らした――。




