父の想い(オーギュスト視点)
夜半仕事から帰った後……私は革張りのイスに深く腰掛け、妻の肖像画を入れたペンダントをじっと眺めていた。このところずっとこんな調子で、外でも仕事に身が入っていないのを自覚している。
「サラ……あの子はもうずいぶん大きくなってしまったよ」
重いため息が口をついて出る。本来ならばいつも隣にいて、共に娘の成長を見守ってくれるはずだった妻は、もうずっと前にいなくなってしまった。
娘を守るために戦い、妻だけが命を失った……。そのことは私の中に深い傷を残している。自分こそが死ぬべきだったのだと……命を絶つことすら考えたが、手の中にはまだ物心ついて間もない娘の命があった。
以来、娘のことだけを思って生きた。ガレイタムを出てファーリスデルに国籍を移したのも、娘の安全を慮ってのことだ。
幸い、あの髪飾りに掛けた魔法も功を奏し、娘は自らに眠る魔力も、受け継いだ血のことも知らずにすくすくと普通に育ってくれた。亡き妻との約束を守り、そんな娘をの成長を見守ることだけが、後に遺された私の何よりの生きがいとなった。
しかし、いくら心を砕いても未来など見透せるものではなく、いくつかの計算外が娘の将来を今また苦難に引き寄せようとしている。あの婚約破棄の件にしてもそうだ。謙虚堅実でその名を知られたイーデル公爵の息子マイルズが、外面を取りつくろっただけの愚物ということも見抜けず……そしてよもや、娘がこうして生きているうちに、あの『大災厄』の復活が近づいているとは……。
(どうして、今なんだ……!)
私は膝の上に強く手を打ち付けた。キース殿が娘の協力を頼みに来た時以来、私はずっとこの胸に問いかけられているように感じている。
――娘一人を守るため、多くの人命を犠牲にするのかと……。娘可愛さでセシリー自身に選択を委ねず、災厄を鎮める力を持ちながらそれを見過ごさせ、救うべき人々に背を向け逃げるのかと。
彼がそう言ったわけではなくとも、娘を差し出さないということは、そういうことなのだ。なぜなら、私は知っている……隣国ガレイタムに伝わる銀の聖女の血統は、今や……。
「――お父様、いるの?」
頼りなさげに響いたノック音に、私は我に返ると書斎の扉を開けた。
そこでは娘が気づかわしそうな瞳で、こちらを見ている。
「お父様大丈夫……? ひどい顔してる。ごめんなさい、私が色々悩ませたからよね……」
「違うよセシリー。違うんだ……」
辛そうな目で見つめるセシリーを私はそっと抱きしめた。記憶の中の娘はまだ、両腕に収まるくらいの、ほんの小さい子供だったはずなのに……。あっという間に大きくなってしまった。
本来なら、一番に成長を喜ぶべきは自分であるはずなのに……我ながらこれでは父親失格だと自嘲してしまう。身勝手な想いだとは分かっている。それでも娘が自分の両手の中にずっと収まって、守らせてくれたらと願わずにはいられないのだ。
もう娘が自分の庇護を必要としなくなり始めているのはわかっている。しかしどうしても私は、本人に嫌われようが……誰に笑われ蔑まれようが、娘を力の限り守ると誓った。サラと、彼女の分まで娘の幸せを見届けると約束した時に。
腕で包んだ温かさを逃がすまいと、ひときわ強く力を入れた後、私は娘を見すえる。
「もう、魔法騎士団に行ってはならない。彼らの世話ならお前でなくてもできるはずだ」
「ううん、今日話に来たのはそのことじゃないの」
セシリーは手の内に握っていたものを見せた。そこには失くしたと言っていたサラの形見の髪留めが乗せられている。彼女はそれを、騎士団の皆が直してくれたのだ、と笑った。
「ごめんなさい……私、お母様のことあんまり覚えてなかったの。でも……これを失くした後、夢に見たんだ。とっても優しい顔をして、私を可愛がってくれてたお母様のこと」
「セシリー……すまない」
私は深く頭を下げる。
「私のせいなんだ。それを魔道具として作り直し、身に付けている間お前に……サラに関する記憶を思い出させないようにしていた。あのことは小さかったお前には負担が大きすぎると、そう思ってな。今までそれを話せずにいた……」
「ううん。私もなんとなくそうじゃないかって思った。ねえ……お父さん、私、お母様に会いに行きたい。あるんでしょ……隣の国に、お母様のお墓」
「ああ……だが」
隣国ガレイタムのひとつの寒村の近くにそれは存在するが、私はかつてセシリーをそこに連れて行ったことはない。むごい仕打ちだとは思うが、これまで彼女がサラにまつわる記憶に触れることを徹底的に避けて来たのだ。
「少し、気持ちの整理を付けたいの。これまでに体験したことや、思い出したことも含めて、私がこれから胸を張って生きていくためにもそうしなきゃって思ったんだ。だから……お願いします、お父様」
普段ならなんとしても断っていただろう。しかし、しっかりと背筋を伸ばして深く腰を折った、成長した娘の真摯な姿に……私は首を横に振れなかった。
「……わかった。ならば一緒に行こう。仕事を整理して一週間ほど休みを取る」
「ありがとうございます……お父様」
「礼など言わないでくれ。元はといえば私の不明から、ずいぶんお前を苦しめてしまったな……許しておくれ。今日はもう遅いから休みなさい。明日の午後、ここを発とう」
涙を浮かべて頷いたセシリーの背中を、そっと押して部屋から出すと、私は倒れるように椅子に座り込んだ。いつも閉じているカーテンを開き、月夜を仰ぐ。
(もし君がセシリーだったなら、私は止められただろうか……君のしようとすることを)
皺も増え、見る影も無くなった己の手を握ってみたが、衰えを感じずにはいられない。
もしそれがサラであれば、いかなる選択を選んだとしても私にそばにいて彼女を守っただろう。しかし……セシリーにとっては、もうその役目は自分のものではないのかもしれない。娘は今、自分の手で新たな居場所を築こうとしているのだから。
共に未来を歩んでゆける人物へと託し、信じて背中を押してやるべき時が訪れているのかも知れない。そんな胸中で芽生えた、今までの決意とは反対の思いが正しいのか……この旅で見定めなければならない。
私は仕事に区切りをつけるべく、机の上で忙しなく手を動かし始めた。静かで長い夜がゆっくりと更けてゆく中、月は雲に隠れ、ランプの明かりだけが寂しく私の手元を照らしていた。




