誘拐事件②
「なっ、なんだテメェ、その瞳はっ……!」
軽薄男が眩しそうに目を細めたが、セシリーには何の事だかわからない。
しかし、地下なのか薄暗かった周囲が今では照らされたように明るく感じ……そして男が振り上げたままのナイフにちらりと映った自分の顔の中心では、何かが光っている。
激しく瞬く銀色の、ふたつの瞳。
これは……リュアンたちが魔法を使った時と、同じ現象だ。
「もしかして、テメェも魔法を使いやがるのか……くそっ!」
軽薄男はじりじりと体を退げる。後ろに控えた集団の、今まで余裕のあった雰囲気も鳴りを潜め、彼らは腰を上げて明らかな警戒を見せ始めたが……セシリーは今、それどころではなかった。
(何……これ。気持ち悪い)
得体の知れない大きなものが、体の内部から噴き出してくるように思え、セシリーはその場に膝を突く。水のようにうねる何かが、出口を求めるように爪先から頭までを荒れ狂いながらぐるぐる回る。その内、手を突いていた地面がびりびりと振動し、亀裂が走り出した。
(これが、もしかして魔力なの……!?)
嵐に見舞われた小舟に乗るかのような感覚を味わいつつ、セシリーは必死に自分自身の心の制御を取り戻そうとする。しかし、その意思はあっという間に掻き消されそうになり、激しい怒りと拒絶の感情が形となったように、セシリーの周囲を破壊し出した。
メキメキと牢屋の石壁に亀裂が入り、松明の灯が揺らぐ。
「チッ、ずらかるぞ! ここにいちゃあ不味い……」
「ま、待って下せえ頭!」「ば、化け物……ひぃ!」
冷静な口調の中にも畏れを滲ませた頭目が真っ先に身を翻し、部下が次々とそれに続く。地面を激しい揺れが襲い、瓦礫が降り注いだ。
「ま、待て……牢屋を開けてくれ! 助けてくれよぉ! お前ら、仲間じゃなかったのかよぉ――!!」
用心のためか再び鍵が掛けられた牢屋の中、閉じ込められた軽薄男は柵を叩きながら泣き叫んだが、それも崩落の轟音に掻き消され、すぐに聞こえなくなる。
(何なのよこれ! どうしたら……止まって、止まってよ!)
このままでは、リュアンと一緒に生き埋めになってしまう。肩を抱いて蹲りながら、セシリーは必死に暴走を抑えようと祈る。彼だけは仲間の元へ返してあげたい。守りたいと、そう強く願った結果が皮肉にも危機を招いてしまうなんて……いったい、自分のどこに今までこんなものが眠っていたのか、まるでわからない。
(怖い……怖いよ!)
自分が保てなくなりそうな恐怖に、セシリーの気持ちが飲み込まれてしまいそうになった時だった。
「……落ち着くんだ」
身体を優しい体温が包んで、その恐怖が和らぐ。
「大丈夫だ。落ち着いてゆっくり呼吸をして……いつも過ごす場所を、帰りたい場所を思い浮かべるんだ。大丈夫、俺が傍にいる」
「リュアン、様……?」
後ろから覆うように彼はセシリーを抱きしめ、片方の手をしっかりと繋いだ。周囲の音が今だけは遠ざかり……密着した背中から彼のゆっくりとした心臓の音が伝わってくる。
頭の少し上から、柔らかく、優しい声がセシリーの耳を揺らした。
「大丈夫だ。もう何も怖くない。一緒に帰ろう……俺たちの大事な居場所へ」
猛る炎のように全身を駆け巡っていた熱が、ゆっくりと嘘のように沈んでゆく。
――こんなにも穏やかで安らいだ気持ちなのに……なんだが、とても哀しい。
何かを思い出しそうになったセシリーは彼の胸に背中を預け、呼吸や鼓動の周期がゆっくりと重なってゆくのを感じながら、涙をこぼした。満たされた時間はすぐに過ぎ、気付けば周囲は静寂を取り戻していた。
「……よくやった」
「ごめんなさい……リュアン様、私」
向き直ったセシリーに、微笑みを浮かべていたリュアンは頭を撫でてくれる。
「頑張ったな、セシリー。立派だった……」
それだけ言うと、彼の手は力なく離され、体がゆっくりと横倒しになる。心臓が止まりそうになったセシリーは、慌てて彼を抱き止めて寝かせ、胸がゆっくりと上下に動いているのを確かめると心から安堵した。きっと彼は、気力を振り絞って今まで意識を繋ぎ止めていたのだ。
(ありがとうございます……リュアン様)
赤子のように力を抜いた表情のリュアンの頬を撫でると、セシリーは涙を拭いて振り返る。幸い鉄柵の一部がゆがんでできた隙間から、牢からは脱出できそうだ。道も半分が瓦礫や土砂で埋もれているが、なんとか通れないことはない。
すぐに決断しリュアンを背負おうとするものの、体格差があり過ぎて厳しい。やむなく肩の下に手を差し込んで後ろ向きに引きずってゆく。
今も時折、周りからは小さな破砕音がしている。早めに移動しなければここも危ういかもしれない。
「はぁ、はぁ」
浅い呼吸を響かせながら、地上への通路を目指してセシリーは進む。現在地がわからない以上、分岐路が出ないことをひたすら祈るセシリーに、奇妙な音が聞こえてきた。
……チャッ……チャッ――。
硬いものが触れ合うような音は、わずかずつ大きくなり、しかもどんどん間隔が狭まってゆく。
(……もしかして、魔物とか? こ、こんな時に嘘でしょ!?)
悪い予想が頭に浮かび、セシリーは背に冷や汗が伝うのを感じた。
何者かがこちらに向かってきているのは定かだ。セシリーはそっとリュアンを横たえると、せめて壁にかかっていた松明の燃えさしを引き抜き、体の前で構える。
「き、来てみなさいよ……! リ、リュアン様に手を出したら、ぼ、ぼこぼこにしてやるんだから……!」
虚勢を張って自分を鼓舞し、セシリーは薄暗闇の奥をじっと見つめた。
しっかりと迫る獣の息遣いと爪の擦過音が肌で感じた時、ぬっと暗闇から白く、大きな顔が突き出された。
「ウォン!」
「セシリー!」
「きゃぁぁぁぁっ、来ないで! 馬鹿! 変態! それ以上近づいたらこれでその鼻をバチンってしちゃうんだからね! その長い鼻づらを……あれ?」
セシリーの手から、突き出した松明がぽろりと落ちて、床に転がった。
白く巨大な狼はゆっくりとセシリーに近づくと、安心させるようにその手をぺろりと舐める。
「リ……ルル?」
「セシリーっ!!」
次いで誰かが上から飛び降りるとこちらに一直線に駆け寄り、真正面から抱きしめた。セシリーはあたふた両手を振り回しながらも、見覚えのある赤毛をつい、指で引く。
「痛いよ、セシリー……」
「本物だ……ごめん。……って、えええええ!? なんでっ、ふたりともこんなところにいるの!?」
「助けに来たに決まってるだろ! もう……本当に無事でよかった」
ラケルは一旦体を離してセシリーの顔をしっかりと見ると、もう一度強く抱きしめる。その仕草からは本気の心配が窺えて、セシリーは胸が温かくなり、体の力が抜けて目が潤む。
「あ、ありがとう~……でもどうして、私たちの場所がわかったの?」
「こいつ、セシリーの場所がなんとなく分かるみたいなんだ」
ラケルが親指で差した後ろから、巨大になったリルルの顔が迫って頬ずりする。
「ふうん……? それじゃリルルのお手柄だね、ありがと。今度、ご馳走持って行くからね」
「ウゥ、ウォン!」
今の白狼は、彼女とラケルと足したよりも何倍も大きい。ラケルと彼の出会いを聞いていたセシリーは、あらためて感慨深さを感じながら鼻面を掻いてやった。そして、リュアンが大きな傷を負っていることを思い出す。
「ラケル! リュアン様が私のせいで襲われて……!」
「うん、ひどいな。でもごめん。僕治癒の魔法は使えないから、急いで外へ運ばなきゃ。キースさんに連絡して、騎士団の人たちも来てくれてるから大丈夫。出てきた悪党どもも全部捕まえたしね。崩れると危ないからここを早く出よう……っと」
セシリーに手を延ばそうとしたラケルは何故か真っ赤になると、目を背けた。
「君も怪我……してるね。ごめん、取りあえずこれ」
彼は薬を手渡し、自分の羽織っていた外套でセシリーの体を包む。そこで自分の服が少々大胆なことになっていたことに気付いたセシリーは、頬を染めて苦笑しながら礼を言う。
ラケルは、セシリーをリルルの背中の上に担ぎ上げ、リュアンを背負う頃には、少しずつ天井から落ちる石くれの数が増し、大きなものになっていた。
「さあ、帰ろう。皆が待ってる」
「……うん!」
元気よく返事をしたセシリーは、自分の横髪を触って一度だけ振り返る。
母の髪留めは壊れてしまい、今頃は瓦礫の下だろう。でも不思議と不安はない。代わりに今は、沢山の頼りになる仲間たちができたから。
(今までありがとう……。お母さん。私、頑張るからね!)
手を上げて別れを告げ、リルルの滑らかな手触りの毛皮に体を預けるセシリーだったが、張り詰めていたものが途切れると訪れた心地よい眠りの誘惑に抗えず……いつのまにやらリルルの大きな背中ですやすやと寝息を立ててしまっていた。




