3
――そうだ、めまぐるしい変化に追われてすっかり忘れていたけど、アミーはどうしているのだろうか。
朝になったというのに一向に現れない。
「確か、呼ぶには右手の甲に口づけをして心で呼びかける、のよね」
本人がいないのだから、聞いても答えてはくれない。
それよりも、試した方が早い。
マルガリーテはさっそく右手の甲に唇をつけた。
(アミー、お願い。私のところに来て)
「……っ……」
すると、手の平で何かがうごめくような感覚に襲われた。
反射的に右手を開いて見てみると、消えていたはずの刻印が浮かび上がっていた。
「はいはい、何の用だー」
不意に、やる気のなさそうな声が頭上から聞こえてきた。
顔を見上げると、そこにはすでにアミーがいた。
「ア、アミー!? いつからそこに!?」
「はわぁ……あふぅ……。いつからって、呼ばれたから来てやったんだよ。あ~寝みぃ」
大きな欠伸をして目を擦りながら、アミーはマルガリーテの前に降りた。
いかにも気怠そう。
「んで、早く用件を言えよ。わざわざ起こしやがったってことはそれなりの理由があるんだろ?」
「うん。そりゃあるわよ。アミーってば何も説明しないでいなくなっちゃうんだもん」
まず、そうだ。そもそもマルガリーテがどのような魔法で、どのような状況に置かれているのかを知る必要がある。
「願いは叶えただろ。それでお前は幸せになったんじゃないのか? 後のことは知らねーよ」
「確かに、あなたのお陰で願いは叶ったわ。でも、何が何だかさっぱりわからないのよ」
「はあ? ったく、人間ってやつはいちいちめんどくせえよなぁ」
実に悪魔らしく悪態をついた。
「一番最初に知っておきたいのは、アミーはどういう魔法を使って私を王女にしてくれたのかってこと」
「……あたしが使ったのは人の心を変える魔法さ。エリーゼ王女のことを知る者の記憶を全てマルガリーテに差し換えたってことさ。だから、エリーゼのことを知らない者は、お前が王女であるということも認識できない。ま、この国に住んでいて、エリーゼのことを知らない者はいないだろうが」
「それじゃあ、今までエリーゼ王女がやってきたことは、全て私がやってきたことになっているのね?」
「意外と理解が早いな。その通りだ」
そうか、そうだったのか。これでようやく納得できた。
周りの人間が全て疑うことなくマルガリーテを王女と認識しているのに、どこか違和感を与えているような印象があったのはそのズレがあったからだ。
マルガリーテはただ、王女と立場が入れ替わったのだと思っていたが、実際にはそうではなく、エリーゼそのものと自分が入れ替わっていたのだった。
それは、接する方もされる方もぎこちなくて当たり前だ。
向こうは気づいていないだけで、全くの別人と急に接することになったのだから。
おまけにこちらも自分の置かれている状況をまったく把握していなかったのだから。
ってことは何?
マルガリーテはこのままエリーゼ王女がやってきたことを当たり前のようにやらなければならないということなの?
そんなの、無理に決まっている。
エリーゼ王女が城の中でどのように生活してきたか、なんて想像もできない。
ただ起きて、朝食を食べるというだけでも四苦八苦させられたのだ。
たった一日だって、難なく過ごせる自信はなかった。
「……私は、これからどうすればいいの?」
「お前、馬鹿か? そんなことは自分で考えろよ。だいたい、王女になったらそれで幸せだったんじゃなかったのか?」
「それは、まあ……」
そう言ってはいたけど、まさかこんな形で王女になるなんて思ってもみなかった。
もっと自由に振る舞えるものだと思っていたのに、エリーゼそのものにならなければならないなんて。
これじゃ、王女の立場を満喫するなんてとてもできそうにない。
「だったら、楽しめばいいじゃねえか」
「それができないような状況に置かれてるから、アミーを呼んだのよっ」
アミーの言葉にムカついて、言葉を吐き捨てた。
「ったく、しょうがねえなあ。じゃ、あたしはどうすればいいんだ?」
「それがわからないから困ってるの、あんたも悪魔だったら人の心くらい読み取りなさいよ」
「へいへい。女のヒステリーほど手に負えねえものはねえよな、まったく。ま、お陰でさすがに目が冴えてきたけど」
アミーの愚痴はマルガリーテの耳には届いていなかった。
マルガリーテだって、ただ文句を言っているだけではどうしようもないとわかっていたのだ。
しゃくに障るけど、認めるしかない。
王女という特別な存在に憧れていながら、何も考えなしにその座を手に入れてしまった愚行を。
かといって、元の生活に戻る気はない。それは、もっと愚かな行為だ。
考えるしかない、幸せになる方法を。
その最低条件だけは、すでに整っているのだから。
アミーの魔法に頼るのはどうだろう。さっき言っていたことが本当なら、アミーは人の心をある程度操れるようだし、その魔法で王女がぐうたらな暮らしをしてきたとか思い込ませれば少しはこの城でも生きやすく……。
……ダメね。それでは自分で自分はダメな人間なんだと認めさせるようなものだ。特別な存在になるために王女になったのに、王女という存在を自分で貶めてどうする。
でも、アミーの魔法っていう発想はいいかもしれない。
マルガリーテの能力がエリーゼとは違うから戸惑っているのは間違いない。だったら、エリーゼと同じ能力を手に入れれば……。
……ダメね。それは結局、マルガリーテでは王女は務まらないと自分で認めていることと同じ。マルガリーテのままで特別な存在になりたかったのだから、そんなことは頼めない。
「なあ、一つだけ聞くけどよう。お前の願いは、半分以上はすでに叶ってるんだよな?」
「え? ええ。そりゃ、まあ。アミーのお陰でね」
「そうか、だけど要するにお前には王女様だった経験がねーから、どうすればいいのかわからないってことなんだよな」
「……うん。そうね、そうだわ」
アミーの言葉には、ちょっとだけ目から鱗が落ちた。
自分でもよくわからなかった不安を、的確に言い表してくれた。
まさにその通りだ。経験がないから、何をするにも不安だったのだ。
心のどこかで、間違ったことをして、自分の正体がばれるのではないか、とも思っていたかも知れない。
「くだらねー」
「は? それって、どういう意味よ」
「言葉通りだよ。お前たち人間は、いつもくだらねーことで悩んでいやがるよな」
「……悪かったわね」
「簡単だよ。メチャクチャ簡単にそんなことは解決できる」
「ほ、本当に!?」
「ああ」
「どうすればいいの? あ、いや、それともどうにかしてくれるの?」
「何もする必要はねえし、あたしも何もするつもりはねえよ」
まるで禅問答みたいな答えが返ってきた。
「それじゃあ、何の解決にもならないじゃない」
「そうあわてるなって、話は最後までよく聞けよ。お前はただ、記憶喪失になっちまって、昨日までのことを何も覚えていないって言えばいいんだ。そうすりゃ、エリーゼのまねごとをする必要はなくなる。実際にお前にはエリーゼの記憶なんてないんだから、それが一番都合がいいだろ」
「……でも、いや……うーん……」
なんだか、その場しのぎのアイディアな気もしないでもないが、少なくともある程度周りの人たちを納得させることはできるかも知れない。
「そうね……やってみるわ」
そんなことでどうにかなるものか、という思いもあったが、せっかくアミーが出したアイディアだ。取り敢えずは使ってみてもいいだろう。
「ほんじゃ、あたしは姿を消してるからな」
「え? どうしてよ」
「ここの連中にしてみればあたしは不審者以外の何者でもねーじゃねーか」
「魔法を使えばいいじゃない」
「あたしはつまんねーことに魔法は使いたくねーんだ。お前のように王女になりたいわけでも、城で生活したいわけでもねえし。当事者になるよりは、隠れて見てた方がおもしろそうだしな」
……覗き見が趣味だということか、さすがに悪魔だけあって趣味が悪い。
「まあ、姿は消してもお前の傍にはいてやるからそんなに心配そうな顔はするなよ」
「べ、別に心配なんてしてないわよっ」
さっきは人の心を読んでみせろと言ったが、実際にそれをされると、あまり気持ちのいいことではなかった。
アミーは不敵なほほえみを浮かべてから、その姿を消したのだった。おまけに「クスクス」と小さく笑い声まで残して。
気を取り直して、扉へと向かった。
アミーのアイディアは使うつもりだったけど、この城に住む者全てに使うつもりはなかった。
そんなことをすれば、間違いなく大事になる。
――と、なれば。自然と使える相手は限られる。
マルガリーテの専属メイドであり、今朝からいろいろとフォローしてくれたマリアンヌだ。
マルガリーテは部屋の扉を開けた。どこにいるかはわからないが、それは近くの者に聞けばわかるだろう。とにかく、マリアンヌを捜さなければ始まらない。自分から追い出しておいてあれだけど。
と思ったら、追い出したはずのメイドたちが全員扉の前にいた。
「王女様……。申し訳ありませんでした」
メイドたちの中からマリアンヌだけを部屋に入れようとしたら、マリアンヌを見つける前に進み出てきたメイドが頭を下げた。
「は? 何で謝るのよ」
しかし、残念なことにその意味がまったくマルガリーテには通じていなかった。
「だって……私たちがいたらぬから、王女様はお怒りになったのでしょう?」
「いや、別にそういうわけじゃなくて……いたらぬ、というのならそれはどちらかというと私の方だし……」
「それでは……、もうお怒りではないのですか?」
「ええ、まあ……」
マルガリーテの生返事に、そうとは気づかず許しを得たと思ったのか、メイドたちは顔を見合わせて喜んでいた。
「……あ!」
その中に一人だけ喜んでいない者がいた。
――マリアンヌだった。
マルガリーテはメイドたちをかき分けてマリアンヌの前に立ち、その手を引っ張って部屋に戻った。
「あ、王女様!?」
メイドたちの誰かがそう叫んだが、構わずに部屋に鍵をかけた。
「……どういうつもりですか? 王女様」
そうだ。今さらだけどアミーの助言に従う前に、マリアンヌには聞いておかなければならないことがあった。
「ねえ、それは私の台詞じゃない? どうして急に口調も態度も他人行儀になっちゃったのよ」
マリアンヌは訝しげな顔をして、何かを言いかけて止めた。
代わりに、一度だけマルガリーテの目を見て窓際の方へ歩き出した。
ついてこい、ということだろうか。
わけがわからぬまま窓際まで行くと、そこでようやくマリアンヌは表情を崩した。それは最初に見た時の表情だった。
「……さっきの質問に答えるけど、どうしてって、あなたがみんなの前ではそうした方がいいって言ったんじゃない」
「そ、そうだっけ」
ああ、これは話す順番を間違えたな、と思った。
マリアンヌが言っている「あなた」とは間違いなくエリーゼのことなのだ。
エリーゼとの間に交わされたことをマルガリーテが知っているはずがない。
「そうよ。私があなた専属のメイドに選ばれた時、今までのように友達としてみんなの前で接していたら、私がひいきされているように見えるだろうからって。そうしたら、他のメイドからやっかみを受けるかも知れないからって。それなのに、こんなことをされたら困るわ」
そうか、他のメイドが見ている前では一歩引いていたのはそのためだったのだ。だからさっき扉の近くで話すことを躊躇したのだ。あの扉の外側にはたくさんのメイドたちがいたから。
だとしたら、マリアンヌだけを部屋に入れて鍵をかけたのはまずかったかも。怒られて当然だ。マルガリーテの行動は知らなかったこととはいえ、矛盾だらけだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれる? 言いたいことがあるのはわかるから、だけどその前に私の話を聞いて欲しいの」
このまま話を進めても埒が明かないどころか、あまり事態が好転しないことだけは予測できた。
ひとまず、マリアンヌの話は置いておかないと。
「何よ、話って」
「……聞いて驚かないでね。私、記憶喪失になっちゃったみたいなの」
「……はあ!?」
せっかく前置きをしてから言ったのに、ずいぶんと大きな声でマリアンヌは驚いてくれた。
「ちょっと、声が大きいわよ。外のメイドたちに聞かれるでしょう?」
「ご、ごめん。……でも、本当なの? 冗談だったら怒るわよ?」
「朝から接してきたマリアンヌなら、ちょっといつもと様子が違うことくらいは気づいていたでしょう?」
「そりゃあ、まあ……」
マリアンヌは腕を組んで何か考え事をし始めた。もしかしたら、朝からのマルガリーテの様子を思い出しているのかも知れない。
どれだけそうしていたかはわからない。
やがて、マリアンヌは顔をマルガリーテに向けた。
まるで、何かを品定めでもするかのようにじっと見つめていた。
「それで、何も覚えていないの?」
「名前と年以外は、昨日までのことをほとんど覚えていないわ」
エリーゼ王女が昨日までどんな生活を送ってきたのか知らなかったから、それは嘘ではなかった。
ほんとは日常生活くらいは覚えている、と言いたかったが、マルガリーテの知っている日常生活は庶民生活のことなので、役には立たないと思って言わなかった。
「――そう、だったら一度医者にでも診てもらった方がいいんじゃない?」
「そ、それはダメよ! 国王に余計な心配をかけさせたくないの。何とか生活しながら思い出すから、手助けをして欲しいのよ」
当然といえば当然の反応なのだが、マルガリーテにとってマリアンヌの提案は予想外のものだった。
あわてて言い繕った言葉は、あわてていたにしてはもっともらしい理由だった。
「……それもそうね……。王様はあなたを溺愛しているし、もしこのことが王様の耳に入ったら、国を挙げての大混乱になりかねないわね……」
「そう、そうでしょう?」
マリアンヌが納得してくれているようだったから、相づちを打った。
だけど、この国の国王はそんなに娘に対して見境がないのだろうか。
今まで、強く厳しい人というイメージで国王を見ていたが、ここにきてそのイメージはガタガタと崩れ始めていた。
「わかったわ、できる限り協力する。でも、何をしたらいいの?」
「そうね、まずマリアンヌと私の関係を教えてちょうだい」
「ああ、そこからなのね。いいわ」
マリアンヌは幼少期に父である国王に拾われた子だったそうだ。
メイドに預けられたマリアンヌは、年を追うごとにメイドとしての才能を開花させ、正式にここのメイドとして雇われたらしい。
しかも、その時まだたったの十歳だったって言うから驚きだ。
城の中で育てられていた王女は、初めて自分と近い年の人と接する機会を得ることになる。
始めこそ、マリアンヌは主従の関係を重んじていたが、王女がそれを嫌ったらしい。
元来王女様扱いされることに抵抗を感じていた王女と、マリアンヌが友達になるのに、そうは時間がかからなかった。
国王もそんな二人の様子を見て、二年前に王女専属のメイドが病気で亡くなった時、まだ十五歳だったマリアンヌを王女専属に抜擢してしまったのだ。
本来、王女専属メイドはメイドたちにとって一番の栄誉であるが、マリアンヌと王女にとってはそうではなかった。
幸いにも、王女とマリアンヌが友達であるということは国王とその側近しか知らぬことだったからよかったものの。
――結局、そのことがきっかけで二人は話し合い、二人の時以外は主従の関係であることを優先させることにしたのだった。
理由はさっきマリアンヌが説明した通りである。
「どう? わかってもらえた?」
「ええ、十分に」
「そう、ならよかったわ。それで、他に聞いておきたいことは?」
「そうね、たくさんありすぎて、何から聞いたらいいのか……」
「――あ、まずいわ。その前に着替えてもらわないと」
「着替え? このままじゃダメなの?」
「時間がないから手短に説明するけど、今日はこれから学問の勉強をするのよ。勉強をするのに、部屋着のままじゃ先生に失礼でしょう」
そんな当たり前に言われてもいまいちピンとこなかった。
まあ、王女としてそう振る舞うのが常識なら、従うしかないのだけれど。
せっかくできた味方であるマリアンヌに文句を言っても仕方がない。
マリアンヌはさっき他のメイドたちが用意した服を持って、マルガリーテに手渡した。
「取り敢えずはこれを着て。着替えまで忘れてるわけじゃないわよね?」
「え、うん」
寝室で一度着替えを手伝ってもらっていたから、今度は一人で着替えられた。
これから先、どうなるのか。いや、どうすればいいのか聞こうと思ったが、ちょっとした異変に気づいた。
「……ねえ、廊下の方が、騒がしくない?」
「え?」
マリアンヌは考え事をしていたのか、マルガリーテに話しかけられてようやくそのことに気がついたようだった。
「王女様!? マルガリーテ王女様!? お時間になりましたよ。お着替えの方はお済みになりましたか?」
廊下の方が少し静かになったと思ったら、扉の方から男の人の声が聞こえてきた。
「――ゲッ、もう来た」
「な、何が来たって言うのよ」
「いい? なるべく何も話さないで。私ができるだけフォローするから。とにかく、不審に思われるような行動だけは取らないでね」
「う、うん」
わけがわからないのに、重ねてわけがわからないことを言われて混乱しているのに、マリアンヌは扉の向こうにいる者を部屋に招き入れた。