第1話 三人で来いと言った。国ごと来るとは聞いてない
昔預かった三人が帰ってくるので、俺は借家の台所で三つのカップを洗っていた。
十年前、戦で身寄りをなくした三人を、村の小さな孤児院で預かった。故郷の親戚や知人へ送り出してからも手紙は続いていたが、会うのはそれ以来だ。
届いた返事は窓際に立ててある。
『三人で帰ります。今度は私たちがお茶を淹れます』
俺も学校を空けられず、三人もそれぞれの暮らしで忙しかった。帰ってこいと書いたのは、今回が初めてだった。
砂糖の瓶を傾けると、残りはせいぜい二、三杯分だった。
昔はこれで喧嘩になった。今はどうだろう。
家の窓が暗くなった。
雲ではなかった。窓いっぱいに赤い鱗が流れていく。竜の腹だ。翼が一度打ち下ろされ、軒先の洗濯物がまとめて裏返った。まだ空が戻らない。もう一頭来た。
俺は布巾を置いて庭へ出た。
村の入口から街道の果てまで、黒い旗が続いていた。馬が鼻を鳴らし、幌馬車の金具が鳴る。さっきまで砂糖を数えていた台所と、どう考えても同じ日の景色ではない。
村長が畑の脇を走ってきた。
「お前っ、何を呼んだ!」
「教え子だ。三人」
「三人で街道が埋まるか!」
「俺だって驚いてる!」
「あれが畑に入ったら、麦が全部踏まれるぞ!」
手紙には「三人で帰ります」とあった。兵を連れてくるとは一言も書いていない。
黒い旗の下で、白い髪の女性が振り返った。
「全隊、街道で待機。村の中には入らないで。後ろへ伝えて」
静かな声だった。だが、伝令が走る前に前列が止まった。畑へはみ出しかけた馬の手綱が引かれ、長い列が道の内側へ戻っていく。
女性は外套を兵へ預け、こちらを見た。
目が合うと、足を止めた。昔と同じだった。
「シロ」
庭の門を開けると、最後の数歩を走ってきた。抱き留めると、肩が昔よりずっと高い。角が俺の胸に当たらないよう、少し顔を傾けてくれた。
「おかえり。顔を見せろ、シロ。手紙じゃ背丈まで分からん」
「……ただいま、先生」
背へ回った手に力が入った。
俺も腕を回す。覚えていた細い子供の身体とは違う。それでも、この抱きつき方は覚えている。ようやく着いたと言うように身体を預けてきた。
しばらくそのまま抱きしめていた。シロも何も言わなかった。
「シロ、先はずるい!」
赤い竜が村外の草地へ降りた。背から飛び下りたアカネが荷物を誰かへ押しつけて走ってくる。
「同じ日に来るって言ったのに!」
「同じ日だよ」
「同じ瞬間って意味だった!」
「今来れば。一緒に抱きつける」
「場所を空けてから言って!」
「反対、空いてる」
シロは俺の服から頬を離したが、腕は離さなかった。
「分かったから、アカネもこい」
俺はもう片方の腕を広げた。
アカネの赤い髪に、長い金の飾りが揺れている。背丈も声も変わった。俺めがけて飛び込んでくる勢いだけは、まるで変わらない。
「おかえり、アカネ」
「うん。……ただいま」
抱きついてくる勢いは強いくせに、声だけは小さかった。
「先生、二人とも。私のことも忘れないでくださいね」
声の方を見ると、エメルが玄関先に立っていた。外套まで脱いでいる。
「いつ来た?」
「先生がシロとアカネを抱き留めていらした間に。先にお台所をお借りしました」
「言い方!」
アカネが振り返った。エメルは俺を見て、両腕を広げた。
「お茶は淹れてあります。抱きつく許可は、どちらへお願いすれば?」
「俺だ。許可なんていらないぞ。おいで、エメル」
シロとアカネが名残惜しそうに離れた。エメルが俺の胸へ飛び込んでくる。
「ただいま、先生」
「おかえり、エメル」
抱き寄せると、彼女はほっと息をついた。外套を脱いだ肩が冷えていて、俺はもう少し強く腕を回した。
「ところで、三人とも今夜はどこに泊まるんだ?」
「家主さんにお願いして、隣の家を借りました。三人とも、そちらです」
村長が俺の横から顔を出した。
「宿の話は聞いた。軍の話は聞いとらん」
エメルは村長へ向き直った。
「兵は村外の休耕地に。地主さんの許可は取ってあります。畑への道は空けます。商団も、今日は荷を下ろすだけです」
庭にかかっていた竜の影が動いた。見上げると、広い翼が折り畳まれていく。あれだけの大きさが背中に収まるのか。つい身を乗り出した。
「先生、竜はあと!」
アカネが俺の腕を引いた。
「私だって大きくなったでしょ」
言われて向き直ると、昔は見下ろしていた顔がすぐ近くにあった。
「ああ。さっきから驚いてる」
「……じゃあ、もう少し見ててよ」
俺が頷くと、アカネは袖を引いたまま目を逸らした。
三人とも、低い戸口をうまくくぐって家へ入った。シロは角を避け、アカネは尾を内側へ寄せる。俺が注意するより早かった。
食卓には、ポットと四つのカップが用意されていた。
俺が練習帳を片づける間に、エメルがお茶を注ぐ。シロは俺の隣に座り、アカネが向かいへ回った。エメルは残った席へ腰を下ろした。
カップを見た三人が、ほとんど同時に黙った。
「これ、まだ」
シロの指が縁の青い線をなぞる。
「ああ。三人ともこれがよかっただろ」
「私のは底が少し斜めなの」
アカネが持ち上げた。
「置くと、かたって鳴る」
わざと置いてみせる。懐かしい小さな音がした。
エメルは自分のカップを両手で包んだまま、湯気を見ていた。
三人は今、それぞれ国や山や都市を治めているという。人間の国では、普通の兵で止められない異種族の統治者を、ひとまとめに魔王と呼ぶらしい。
俺は順に顔を見た。
「三人とも、魔王なのか」
「呼ばれるね」
アカネが言った。
「先生まで魔王って呼んだら、返事しないからね」
窓の外で、村長が慎重に門を閉じている。
俺は砂糖の瓶を真ん中へ出した。
「しまった。砂糖が四人分ないな。甘くしたい奴から使ってくれ」
三人の手が伸びた。途中で止まり、譲り合いになった。
そのうちシロが俺のカップへ先にひと匙入れた。
「私、今日は甘くなくてもいい」
「その一匙、先生に入れたの?」
アカネが瓶を覗いた。シロは匙を持ったまま頷く。
「私の分。先生にあげた」
「私もあげる!」
「いや、俺は一匙で十分だ。ありがとう、アカネ」
俺がカップを引くと、エメルまで砂糖の瓶へ手を伸ばした。
「私も、先生に差し上げたかったのですが」
「気持ちはありがたいよ。二人とも、自分の分に使ってくれ」
エメルが瓶の蓋を取り、砂糖を自分のカップに入れた。
「次は私が淹れる。先生と二人のときに」
アカネが言った。エメルは瓶を卓へ戻した。
「それなら、私も先生と二人で過ごす時間が欲しいです」
「お前たち、そんなに俺とお茶が飲みたいのか?」
昔も、誰が俺の隣に座るかで揉めた。今度も順番に、と言いかけたところで、シロが匙を置いた。
「先生」
「どうした」
「昔と同じにしないで」
シロが青い線のカップを俺のそばへ置いた。卓の下で、彼女の膝が触れた。
「おかえりって言ってくれて、嬉しかった。でも、それだけで帰るつもりはない」
アカネの手が砂糖瓶のところで止まった。
「シロ、待っ」
「待たない。十年、待った」
シロは俺を見たまま言った。
「先生。私は、先生の恋人になりに来た」
俺は持っていたカップを置き損ねた。底が皿の縁へ当たる。
シロがカップを支えてくれた。顔は近いままだった。
「……恋人?」
「うん。先生と二人で暮らしたい。隣に座るのも、帰ってくるのも、私がいい」
アカネが椅子から腰を浮かせた。
「先に言うの、ずるい! 私はちゃんと、二人で出かけてからって」
「では、私も予定を変えます」
エメルもカップから手を離し、まっすぐ俺を見た。
「先生。私も先生が好きです。恋人として、お隣にいたいんです」
「……三人とも、そういう話なのか」
「そういう話!」
アカネが言い切って、それから頬を赤くした。
「先生が好き。昔、助けてもらったからだけじゃない。手紙が来るたび会いたかった。今日、顔を見たらもっと好きだった」
庭で竜が低く鳴いた。窓の向こうには兵の旗が見える。
昔、眠れない夜に背中をさすった三人だった。その記憶があるのに、今は目の前の三人に何と答えればいいのか分からない。
シロはまだ、俺のカップを支えていた。
「先生。聞こえた?」
「聞こえた。聞こえたから、少し待ってくれ」
「少しは待つ。でも、子供が言ってることにしないで」
何と答えればいい。
ちょうどそのとき、天井から雫が落ち、俺の膝で弾けた。
四人が一斉に上を向いた。
「……先生。あれ、いつから?」
シロは雨染みを見つめた。さっきまで俺の返事を待っていた顔が曇った。
雨漏りを見上げたまま、三人が同時に椅子を引いた。
「私が直す」とシロ。
「直すより、山に連れてく!」とアカネ。
「まず、家主さんのお許しを」とエメル。
俺は鍋を持ち、三人を見比べた。
恋人になってほしいという話に返事をするより先に、今度は雨漏りの対処法で三人が競い始めた。
「……そんなに張り合わなくてもいいだろ」
シロは真顔で答えた。
「先生は一人だから」




