第31話 星降る夜の終幕、現実へ還るログアウトの足音
バーチャル特有の過剰なまでの味覚と嗅覚が、脳髄の奥底まで心地よい満腹感を満たしていく。
ラボの中央テラスに設置された即席バーベキューグリル。そこから立ち上るハーブとキングオークの脂が焦げる芳香は、テスト勉強で凝り固まっていた俺たちの神経を、まるで極上のスパでも受けたかのように解きほぐしていった。
「ん~っ! 美味しすぎる! これ、本当にゲームのデータなのって疑いたくなるくらい、肉の旨味がじゅわって広がって!」
シオンは両手で自分の頬を抑えながら、至福の表情で小さく身悶えしている。その白銀のロングヘアが、テラスを照らす高純度マナの青白い光を浴びて幻想的に揺れていた。
その隣では、ライムが名残惜しそうに空っぽになった大皿を見つめている。
「マスター、シオン様! お肉がもう一かけらも残っていません! 私、もっとあのカリッとした脂身のところを堪能したかったのに!」
「はは、そんなに食ったらオートマタでも胃もたれを起こしかねないぞ、ライム」
俺が苦笑しながらグラスを傾けると、シオンもクスリと笑った。
「そうよ、ライム。でも、それくらい最高だったってことよね。テスト明けの息抜きとしては、100点満点どころかお釣りが来るくらいの贅沢だったわ」
ホログラムモニターに目をやると、相変わらずコメント欄は先ほどの飯テロの余韻で大荒れだった。
トップアイドル・シグレとの突発的なやり取り、そして孤島という閉ざされた環境でのワイルドな晩餐会。
そのすべてが電脳遊戯部のチャンネルの盛り上がりを最高潮へと押し上げており、同時接続カウンターの数字はぐんぐん伸び続けていた。
【いやー、この配信神回すぎだろ……】
【シグレちゃんの乱入から始まって、あの分厚いオーク肉のグリルは反則だって】
【お腹空きすぎて冷蔵庫漁ってくるわ……】
【ユウくん、シオンちゃん、テストお疲れ様! 次回の孤島開拓も楽しみにしてる!】
流れるように通り過ぎていく温かいコメントの数々を見つめながら、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
現実の高校生活では、テスト勉強に追われ、進路の不安や日々のルーティンに縛られがちだ。
けれど、この〈libertas・world・online〉──通称〈LWO〉の世界、そしてこの未知の孤島『アストライア島』に来てからというもの、俺の毎日は予測不能なワクワクと、かけがえのない仲間たちとの時間に満ちあふれている。
ふと、視界の隅に小さく点滅するシステムアイコンが飛び込んできた。
それは、事前にセットしておいた『そろそろ終了の時間です』という通達のサインだった。
現実の時間は、そろそろ午後の六時を回ろうとしている頃合いだろう。
「さて、そろそろいい時間だ」
俺がポツリと呟くと、テラスの空気がわずかに静まり返った。
シオンが手元のグラスをテーブルに置き、少しだけ寂しそうな、けれどどこか満足げな瞳でこちらを向く。
「そうね……楽しすぎて時間の経つのをすっかり忘れちゃってたわ。現実に戻りたくないって思っちゃうくらい、充実した時間だったな……」
彼女のその言葉には、俺も深く頷くしかなかった。
開拓の進むラボ、周囲に広がる神秘的な星詠みの地下迷宮、そしていつかあのトップアイドル・シグレを迎え入れるという新しい約束。
この島には、まだまだやりたいことや、解き明かすべき謎が山のように眠っている。
「名残惜しいけど、とりあえずこの辺りで一旦ログアウトするとしようか。そろそろ下校時間だしな」
「うん、そうだね。また続きは今夜ね」
シオンは立ち上がり、ふうっと小さく息を吐き出すと、ストレッチをするように両手を大きく上に伸ばした。
そのしなやかな身のこなしは、ゲームのキャラクターでありながら、彼女自身のリアルな気怠さと愛らしさを絶妙に映し出していた。
「ライム、俺たちがログアウトしている間も、ラボの魔力炉の安定稼働と自動防衛パトロールの維持を頼むぞ」
「はい、マスター! お任せください! お二人が現実世界でお休みになられている間も、このライムがしっかりとアストライア島の平和を守り抜いてみせます!」
ライムが胸を張って敬礼のポーズをとる。その健気で頼もしい姿に、俺は思わず微笑みながら彼女の頭を軽くポンと撫でた。
「頼もしいな。それじゃあ、二人とも。お疲れ様」
「お疲れ様でした、マスター!」
「お疲れ様、ユウ」
シオンが満面の笑みを浮かべ、カメラに向かって軽く手を振る。
それに合わせて、俺も配信の終了手続きを操作しながら、リスナーたちに向けて最後の言葉を紡いだ。
「それじゃあ、今日の電脳遊戯部のテスト明け初配信はこれにて終了! シグレさんとのコラボの約束もできたことだし、次回はさらに面白い開拓の進捗をお見せできると思う。みんな、ここまで付き合ってくれてありがとう。またな!」
【お疲れ様でしたーー!】
【楽しかった! おやすみユウくん、シオンちゃん!】
【次回も絶対リアタイするわ! よい夢を!】
爆発的な数のスタンプと拍手のコメントが画面を埋め尽くし、その光景がフッと霧散するように消えていく。
配信終了のジングルが響き渡り、空間に浮かんでいたホログラムモニターが完全にシャットダウンした。
静けさを取り戻したラボの中央テラス。
夜風が青く輝く草木を揺らし、心地よい摩擦音を立てている。
俺は視界の端に表示されたシステムメニューから、深く息を吸い込むようにし『ログアウト』の項目を指先でタップした。
シオンも隣で同時にログアウト操作を行う。
直後、足元からふわりと優しい光の粒子が立ち上り、全身の感覚が現実世界へと引き戻されていくような、心地よい浮遊感が体を包み込む。
視界がゆっくりと白く染まり、情報の奔流が波のように引いていく。
──『ログアウト処理が完了しました。現実世界への接続を解除します』
電子音声の静かなアナウンスが響いたのを最後に、俺の意識は深い海の底へと沈むように、ヴァーチャルからリアルへと移行していった。
碧央高校、放課後に部員たちが集う『電脳遊戯部』の部室。
薄暗く静まり返った部室の中で、俺はヘッドセットを外し、デスクの上にそっと置く。
隣では同じようにヘッドセットを外して長い黒髪を揺らす天音の姿があった。
そして、他の席でも、それぞれ別のエリアや王国でプレイしていた遥馬、南、涼花、芹亜の面々が次々と身体を起こし、ヘッドセットを外して息をついていた。
「ふう……っ! いやぁ、マジで疲れたけど面白かったぜ!」
遥馬が豪快に伸びをする。
南や涼花、芹亜も、それぞれヘッドセットを整えながら笑顔を浮かべた。
「お疲れ様、みんな。そっちはどうだった?」
南が尋ねてくると、遥馬がすかさず声を張り上げる。
「聞いてくれよ南、俺のいたエリアなんてさ、今、王国と帝国の間でめちゃくちゃきな臭い空気が漂ってて、マジでその内戦争が起きそうなんだよ! しかも俺、偶然の巡り合わせで王国の傭兵としてその戦争に参加することになりそうなんだぜ!」
「えっ、戦争の傭兵!? 遥馬くん、それめちゃくちゃ危なくない……?」
南が目を丸くして驚き、芹亜も「また遥馬くんが派手にやらかして……」と苦笑交じりに呆れたような顔をする。
「遥馬くんらしいというか、なんというか……でも、それだけ世界観の作り込みがリアルで緊迫感があるってことだよね」
涼花はヘッドセットを軽く手で整えながら、どこか楽しげな笑みを浮かべてそう言った。
「私のいたエリアは、古い神殿の遺跡を巡る探索がメインだったんだ。モンスターは手強かったけど、謎解きがすごく凝っていて、つい時間を忘れちゃった。おかげで少し肩が凝っちゃったけどね」
軽く肩を回しながらそう続ける涼花に、南が「遺跡探索かぁ、それもすごく冒険っぽくてロマンがあるね!」と興味津々な様子で身を乗り出す。
それぞれが自分のログイン先での成果や苦労話を語り合う中、天音が俺の方を向いた。
「ふう……っ、お疲れ様、悠人。私たちの孤島配信も大盛り上がりだったし、みんなもそれぞれの場所で頑張ってたみたいね」
「そうだな。みんな、テスト明けの解放感を存分に楽しんだみたいだ」
ふと、デスクの端に置いてあるスマホを手に取り、画面をスワイプして確認してみると、SNSの通知欄には、先ほどの配信を見たファンたちからの感想や、シグレのチャンネルからのタグ付けが飛び交っている。
「まったく、現実に戻っても休まる暇がないな……」
口元に自然と笑みがこぼれる。
疲労感はあるが、その内側には充実感で満たされた熱量がしっかりと残っていた。
「それじゃあ、今日はもう遅いし、部室の戸締まりをしてそろそろ帰るとしようか」
「そうですね。そうしましょうか」
芹亜先輩や天音たちがバッグを肩にかけ、部室の明かりを落としながら優しく微笑む。
星詠みの錬金術師としてのクラフトと開拓の日々は、まだ始まったばかりだ。
現実の部室と仮想世界の孤島、二つの場所で紡がれていく物語の続きに胸を躍らせながら、俺たちは夕暮れ時の校舎を後にしたのだった。




