第2話 銀髪のエルフと、未知なる孤島の出会い
鬱蒼としたジャングルの奥から響いたくぐもった呻き声。
それは、平穏であるはずのゲームの序盤において、確かな危険と新たな出会いの予感を告げるものだった。
俺は、右手にしっかりと握りしめた〈アルケミストの錬金杖〉の冷たい感触を確かめながら、草木をかき分け、慎重に足音を殺してその声の主へと近づいていった。
生い茂る巨大なシダ植物の葉をそっと押し分ける。
その視線の先に広がっていたのは、緑の絨毯のような苔に覆われた、太古の巨木の根元だった。
そこに、一人の少女が背中を預けるようにしてぐったりと横たわっていた。
年齢は俺と同じ、十代後半といったところか。
腰のあたりまで豊かに伸ばされた美しい銀髪が、薄暗い森の木漏れ日に照らされて淡く輝いている。
目を奪われるほどに整った、まるで陶磁器の人形のように端正な容姿。
しかし、その額にはうっすらと冷や汗がにじみ、形の良い眉が苦しげにひそめられていた。
そして何より目を引いたのは、その特徴的な耳の形だった。ピンと長く尖った耳。
エルフ、か?
ゲームの種族として選択できる標準的なヒューマンとは明らかに違う、神秘的な造形をしていた。彼女はうめき声を漏らしながら、固くまぶたを閉じて浅く荒い呼吸を繰り返している。
「モンスターにやられたのか……?」
低く呟きながら、俺はそっと彼女の全身に視線を走らせた。
だが、不思議なことに、衣服が引き裂かれたり、直接爪や牙でえぐられたりしたような目立った外傷は見当たらない。出血している様子もないのに、これほど苦しそうにしているのはなぜだ。
「……よし、解析してみるか」
俺は〈物質解析〉のスキルを起動し、対象を目の前の少女へと向けた。
脳裏に浮かび上がったスキャン結果の文字と、先ほど海岸で得た知識が頭の中で繋がる。
外傷がない。それなら、原因は毒だ。
この島特有の、神経系の毒草かモンスターにやられたに違いない。
「……待てよ。さっきの、あの草が使えるか?」
思い出したのは、海岸の道すがらで目撃し、全回収しておいた紫色の葉──『パルプ・アストラルアンチドート』のことだった。
俺は意識を集中させ、先ほど採取してストックしておいたその草の束を、アイテムボックスの空間の裂け目から迷いなく取り出した。
「ふう……頼む、間に合ってくれ」
乳鉢もフラスコも必要ない。アルケミストの特権である固有スキルを、ここで一気に解放する。
「魔力干渉、圧縮変換」
俺が低く呟いた瞬間、手のひらの上で束ねられた紫蝶草が、まるで星の瞬きのように青白く鮮やかに発光した。
物質の分子構造が強制的に書き換えられ、不純物と猛毒の成分が美しく、かつ高速で分離・凝縮されていく。
熱量は一切ないのに、手のひらを通じて心地よい魔力の流れが全身を駆け巡った。
「よし、一滴の道具も使わず、指先だけで完璧な解毒ピルに仕上がった。さすがはアルケミストのスキル様々だな」
手のひらの上に残されたのは、真珠のように淡い光を放つ、小指の爪ほどの小さな解毒の結晶ピルだった。
俺はしゃがみ込み、苦しそうにうめく銀髪のエルフの肩を優しく支え、その口元へとそのピルをそっと運んだ。
「ほら、これを飲むんだ。少し苦いかもしれないけど……」
ピルが喉を通ると、少女の喉がゴクリと小さく上下した。
数秒の沈黙のあと、彼女の顔を覆っていた苦悶の色がスッと引き、荒かった呼吸がみるみるうちに穏やかなものへと変わっていく。
額に浮かんでいた汗が引き、銀髪がふわりと揺れた。
数秒後、彼女はゆっくりと、まるで長い眠りから覚めるかのようにそのまぶたを持ち上げた。
そこに現れたのは、澄んだ翡翠色の美しい瞳だった。
「……はぁっ……」
彼女は深呼吸を一つすると、両手で自分の胸元を押さえながら、どこか現実感のない表情で周囲を見回した。そして、目の前にいる俺の姿を認めて、わずかに目を丸くした。
「ああ、びっくりした……」
少女はほっと息を吐き出しながら、自分のこめかみに軽く手をやった。
「このゲーム、ダメージを受けても痛みはないし、安全設計だから死んでも痛覚は遮断されるはずなのに……どうしてあんなに意識が不鮮明になって、冷や汗が止まらなかったのかしら。熱感だけがリアルに残って、頭がガンガンして……本当に死ぬかと思ったわ」
彼女はペロリと舌を出し、照れ隠しのようにクスリと笑った。VRMMOならではの没入感の高さに、少し気圧されていたらしい。
「それにしても、本当に助かったわ。見ず知らずの私を助けてくれてありがとう」
「いや、同じプレイヤー同士だろ。見捨てるわけにはいかないさ。気にするな」
「そう言ってもらえると助かるわ。……それにしても、あんな手際の良いダイレクト錬金、初めて見たわね。あなた、職業はアルケミスト?」
「ああ、そうだけど」
俺がうなずくと、彼女は感心したように目を細め、それから自分の身体を軽く起こした。
「死んでもリスポーンするだけでしょうけど……でも、この状況じゃ厄介よね。デスペナルティは無視できないし、なにより、まだリスポーン地点の設定ができていないでしょ?」
「そうだな。もしここで死んだら、ここから四つの国のどこかに強制送還されるかもしれない。せっかく手に入れたこの島の探索権も、最初からやり直しだ」
俺の言葉に、彼女は大きくうなずいた。
「そうよ! ところであなた、この島がどこだか分かる?」
彼女は興味津々といった様子で、身を乗り出すようにして問いかけてきた。
アルケミストである俺なら、この周囲の環境や植物の解析から何か掴んでいるのではないかと思ったらしい。
「ああ。さっきこのあたりの草を解析してみたんだが……ここはグランディール大陸からはるか離れた海域にある、地図にも載っていない古代の孤島──『アストライア島』らしい」
「やっぱり! 私もそんなことじゃないかと思ってたのよ!」
「君も解析したのか?」
「ううん、私は解析スキルなんて持ってないから分からないわよ。ただ、こんな辺鄙なところでモンスターに追われて、ただの島じゃないって直感しただけ! これって、絶対に運営が用意した特大のサプライズ要素よ!」
彼女の翡翠色の瞳が、興奮と好奇心でキラキラと輝き始めた。
「オープン初日の今日、まだ誰も踏み入ったことのない完全未開のシークレットエリア……ゲーマーなら、こんなの血が騒いで当然だわ!」
その言葉を聞いて、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
普通なら「バグだ!」「閉じ込められた!」とパニックを起こすか、運営にクレームを入れる場面かもしれない。
だが、目の前のこの少女は、未知の冒険を前にして純粋にワクワクしている根っからのゲーマーらしかった。
「すっかり自己紹介が遅れちゃったわね」
彼女は砂を払いながら立ち上がり、ピンと長い耳を軽く揺らしてまっすぐ俺を見た。
「私はシオン。種族は、見てのとおり、アーク・エルフよ。職業は魔法戦士」
「俺はユウ。職業はアルケミストで……種族は、なぜか『アストラ・ヒューマン』になってる」
「『アストラ・ヒューマン』? 聞いたことない種族ね……でも、なんだかすごくロマンがある響きじゃない!」
シオンは興味深そうに目をパチクリとさせ、それから腕を組んで少しだけ考え込むようなしぐたえを見せた。
「待ってよ、ユウ。よく考えたらそれっておかしくない?」
「何がだ?」
「だって、今の〈LWO〉の仕様じゃ、プレイヤーの初期種族は全員『ヒューマン』に固定されているはずよ。私だって、ベータテストのときからエルフなんて選べなかったわ。それなのに、私がこうして本来存在しないはずの『アーク・エルフ』になっていて……しかもユウも、聞いたこともない『アストラ・ヒューマン』なんて特別な種族で始まっている」
シオンの真剣なまなざしが、俺の顔を射抜くように捉えた。その言葉に、俺もハッと息を呑む。
確かにそうだ。初期ステータスを確認したとき、異常なスタート地点のことばかりに気を取られていたが、種族のイレギュラーさについては深く考えていなかった。
「偶然じゃない……ってことか?」
「ええ、絶対に偶然なんかじゃないわ。普通のプレイヤーなら絶対に選べない特殊な種族で、しかも最初に飛ばされたのがこんな誰も知らない孤島『アストライア島』……」
シオンは自分の顎に手を当てながら、ワクワク感を隠しきれないといった笑みを浮かべた。
「これ、絶対にこの島の謎や隠しシナリオと私たちの種族が深く結びついてる証拠よ! 面白くなってきたじゃない!」
「だな……ただの不具合やバグで片付けるには、出来すぎた話ってわけだ」
俺たちは顔を見合わせ、思わず小さく笑い合った。
シオンはそれから周囲のうす暗くなってきた空を見上げた。
ジャングルの隙間から見える空が、少しずつ夕暮れの茜色に染まり始めている。
「さて、ユウ。のんびり感心している場合じゃないわ。日暮れが近づくと、この島のモンスターは夜行性に切り替わって一気に凶暴になる。今の私たちのレベルじゃ、一瞬で蜂の巣よ」
「そうだな。まずは安全を確保して、リスポーン地点を設定しないと」
「うん。そのためには、まず寝床を確保しましょ」
シオンは自信ありげに胸を張り、指を一本立てた。
「この森の中にね、さっき逃げ回っているときに見つけたの。ちょうど雨風をしのげる、隠された洞穴があるのよ。あそこなら拠点にするのにぴったりだわ」
「洞穴か。それはありがたいな」
「でしょ? じゃあ、さっそく行きましょ。まだ不慣れなところもあるし……ねえ、ユウ、二人で協力してこの島を攻略しない?」
シオンは差し出すように手のひらを向け、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
広大な異世界の孤島。見知らぬ二人。けれど、未知のロマンを追い求める者同士、これ以上ない最高の相棒かもしれない。
「ああ、頼むよ、シオン」
俺はその手を取る代わりに、錬金杖を軽く掲げて笑ってみせた。
「行くぞ、俺たちの〈LWO〉の本当の始まりだ」
夕闇が迫るアストライア島の深い森の中、俺たち二人の足音が、新たな冒険の始まりを告げるように静かに鳴り響いた。




