遭う
今日も東京は暗く淀んでいた。
この街には曇りガラスとひび割れたコンクリートがよく似合う。時折鼻を突く燃えた石油の臭いと機械のようにガサガサと変化のない雑踏、疲れと気だるさを絵に描いたような街。満員電車に揺られながら平行に流れて行く工場地帯の煙突を眺めると、一向に空に溶け込もうとしない白い煙から死の臭いを感じる。
ああ、今日も何も起きなかった。
私はオートロックマンションの自分の部屋に入り上着を脱いだ後、冷蔵庫から昨晩作っておいたレモネードの素の入ったグラスを取り出し、天然水のボトルと一緒に小さなテーブルへ持って行く。
ソファーに腰掛けマドラーでレモネードと水を3対7の割合で混ぜた後、一気に喉に流し込む。爽やかな柑橘系の香り、適度な甘みと酸味が葉脈を流れる水のように全身に浸透していくのを感じる。
一瞬だけ昔を思い出す。
最近妙なものが見え始めた。それは青く、透き通っていて、ザラザラしていて、形を成さない、ただそこに存在するだけのもの。上手く説明できないがとにかくおかしなものだ。
私が初めてそれを目にするようになったのは二か月前、休日に部屋でストーブにあたって推理小説を読んでいた時だ。物語の中、大して気にならない犯人の姿を想像することで思考の中に逃げ出そうとしていた。
しかし20分もすれば私は無意識に小説を壁へと放り投げ、ベッドに背を預けながら見上げた天井にパクパクと口を動かしていた。投げられた小さい文庫本はページが折れ曲がって本の内側に丸まり、苦しそう。
ストーブの灯り、オレンジの灯り、炎の色、全部溶け出してしまえ。そう思っていたら、ふと私の隣で青いウロコに覆われた透き通る何かがじっとしていた。薄くぼんやりと見えているので、驚きよりもこれはなんだろうという困惑に似た思考が真っ先に頭に浮かび上がった。夢だろうか、夢にしては趣味が悪い、人差し指で輪郭をなぞってみると生々しいぬるぬるとした感触、私はあっと声を上げて部屋の隅まで転がるように後ずさり、距離を取った。
ザラザラした表面が粘着質に覆われていて、そうだ、魚の肌に似ている。耳を澄ませると鼓動が聞こえるが、透明な割に内臓は見えない。暖かさはないけれど、生き物だ。
何て気味が悪いんだろう、鼓動が早い、ドキドキしている。冷や汗が流れる。こんな感覚は久しぶりだった。ストーブのブーンという小さい電子音が部屋に響く中、それは一向に動く気配が無かった。
私は警戒しながら近づいてまた手を触れた。薄いフィルムを一枚通して触っているように、ぬるぬるはするが指先には何も付いていないし、濡れてもいない。
「あなたは私の幻覚?」
話しかけるとそれは私の目の前でゆっくり消えていった。




