第10話 この家の、来月の話
灯の家で初めての月次報告を開いた日、リディアは数字を書き終えてから、窓を閉めた。
遺産の清算手続きは終わり、建物はリディアの名になっていた。権利の書類と院の運営帳簿は、同じ鍵付き棚の別の段へ収めた。自分の持ち物と、預かっている暮らしのお金を混ぜないためだった。
風で紙が動くたび、サラが押さえに来る。手伝ってくれるのはありがたいが、子どもの指を重しにしたまま、大人が会計を話しているのもおかしかった。
卓にはマルタと調理職員、それから最初の月の仕事を確かめに来たルイーゼが座った。子どもたちは、聞きたければ残り、遊びたければ庭へ出てよいことにした。ノアは紙と鉛筆を持って端に座り、ピノは三度説明を聞いたところで外へ行った。
「今月、院に入った金額は百八枚です」
リディアは一つずつ内訳を読んだ。
いつもの寄付三十二枚。洗濯仕事の純収入二十四枚。製パンの仕事から、追加の賃金や材料代などを引いて二十八枚。認定された養育助成の二十四枚も、入金を確認していた。
食費、人件費、燃料、修繕積立の支出は九十六枚。差し引き十二枚が残った。
バザーから置いてある予備金七十六枚に足して、八十八枚。叔母の財布から補ってもらわずに、一月を終えた。
「ただ、パンの納品が多い日は、やっぱり朝が慌ただしかったです」
調理職員が担当表を指した。
「計算どおりにはなりましたけど、この先、注文が増えてもすぐには受けたくありません」
「私も。仕事を始めたからには、途中で頼る人がいなくなる方が困ります」
ルイーゼが同意した。リディアは、収入を増やす案を余白に書きかけて、先に『今の量で継続』と記した。黒字になったからといって、働く人の時間まで余っているわけではなかった。
マルタからは、別の院を通して、新しい子どもを預かれないか相談があったと報告された。
「すぐに返事をしたくなりました。でも、受け入れれば助成も増えるから大丈夫、と考えるのは違いますね」
「寝る場所だけでなく、手も必要です。今月の実績を持って、人を増やせるか相談しましょう。今はまだ、引き受ける約束をしない方がいいと思います」
リディアが答えると、マルタは相手へ確認することを書き足した。断るか受けるかを、優しさの量だけで決めない。すぐに助けられない話をするのは、黒字を報告するより難しかった。
ノアが手を上げた。
「僕、卒業したら、本を直す仕事を習いたい」
唐突な話に、大人たちが顔を向けた。ノアは照れたように、自分の鉛筆を転がした。
「今すぐ出ていくっていう意味じゃない。どこで習えるか、調べたいんです」
リディアはうなずいた。
「あなたが習いたい仕事として、探しましょう」
最初に工房へ出ていくと言った日の、布の袋を思い出した。今日の少年は、ここで食べる自分を減らすためではなく、これからの自分を増やす話をしていた。
◯
午後、リディアは父と会った。
下宿の近くにある茶店だった。父は返金のための支払計画を役所へ出したと話した。受け取った五十枚は、一度で戻せる金額ではない。働いた分から少しずつ返す。その金は院の今月の会計には含めていなかった。
「ヴェラのことを、店の連中に話した」
父は茶碗を両手で持っていた。
「私が見てもいないものに、印を押したと。信用をなくしたのは、そのせいだと」
「そう」
「許してくれとは、今は言えない」
リディアは、返事を急がなかった。父の店で手伝った日々を懐かしく思う。嘘を聞いて叔母を憎んだ二年を、返してほしいとも思う。どちらの気持ちも、今日一度会っただけでは動かせなかった。
「次は、何を話せばいいかな」
父の問いに、リディアは少し考えた。
「今している仕事の話を聞きたいわ。私も、自分の仕事の話をする。叔母のせいだったという話へ戻らないなら」
父はうなずいた。すぐに昔の調子にはならなかったが、茶を飲み終えるまで、席を立たずにいられた。
リディアの茶には砂糖がついていなかった。父が覚えていてくれたことを、帰る間際にようやく気づいた。
◯
翌朝、リディアは町外れの墓地へ出かけた。
叔母の墓は、川の見えない低い場所にあった。墓石の前に落ちた葉を拾い、持ってきた花を置く。しばらく立っていると、葬儀に出なかったことを、誰にも責められないまま思い出した。
「家は、残りました」
声を出すと、思っていたよりも普通の報告になった。
「今月は十二枚、残せました。マルタさんが帳簿を読めるようになってきて、私の書き方だと分かりにくいところを、毎回見つけてくれます」
叔母だったら、数字の読み間違いを最初に指摘しただろうか。それとも、少しくらい喜んでくれただろうか。もう確かめられないことを、よい方へ決めつけるのはやめた。
「私、あなたのことを何も知らなかった。でも、今知っていることが全部だとも思っていません」
墓石の上に小さな泥があった。布で拭くと、刻まれた名がはっきりした。
悪女とも、恩人とも書かれていない。ヴェラ・フェルン。借用書の上にあったのと同じ名前だった。
「あの頃、言われたことは、まだ嫌です。私も、話を聞けばよかったと思っています」
言葉を途中で整理しようとすると、どちらかを消してしまいそうだった。リディアはうまくまとめず、両方そのまま話した。
「守ってくれた家は、大事にします。ただ、一人で全部はしません。そこは、あなたと違うやり方にします」
返事はなかった。風が枯れ草を揺らしただけだった。
リディアは借用書を持ってこなかった。完済の記録も、登記の写しも、院に保管してある。死んだ人のために済ませた仕事ではなく、これから暮らす人たちが確認できる場所に置きたかった。
◯
昼前に帰ると、玄関に小さな紙袋を持った男が立っていた。町の繕い物屋で、院の洗濯の仕事について相談に来たという。
リディアはすぐに引き受けず、マルタを呼んだ。何枚あるか、いつまでか。今ある仕事と一緒にできるか。二人で聞く順番を決めていると、サラが食堂から顔を出した。
「お客さんの席、作ってあるよ」
卓には、見慣れた青い札が十二枚と、リディアの白い札があった。その隣に、少し幅の広い板が置かれていた。『おきゃくさん』と書いてあり、裏には窓ではなく、花の絵がある。
「名前が分かったら、紙を替えるの」
サラはそう言って、まっさらな小さな紙を見せた。誰が来るか決まる前から、自分の席を片づけることはしなくなっていた。
相談を終えたあと、皆で昼食にした。リディアは豆を一匙すくい、口へ運んだ。
「今日は、苦くない」
「火を落とすのを早くしたんです。塩も少なく」
マルタが答えた。台所の小さな帳面には、叔母の字の下に、違う字で新しい分量が書かれている。
叔母から受け取ったものは、そのままにしておく必要はなかった。分からないところは調べ、足りないところは誰かに尋ね、困ったところは変えてよい。そのために残った家なのだと、今は思えた。
窓の外で風が吹いた。サラが椅子を少しだけ内側へ寄せ、ピノが自分の皿を押さえた。リディアは卓の端に置いた帳簿を閉じた。
食事が終わったら、来月の薪を頼まなければならない。その次は、ノアと本を直す工房を探す。自分の代筆の仕事も二冊、受けている。
席を立つ前に、リディアは残っていたパンを二つに割った。一つを自分の皿へ、もう一つを、まだ食べたいと言った子の皿へ置いた。
来月の話ができる食卓で、もう少しだけ、皆と昼を過ごした。




