#1
地平線の彼方で陽が全身を現すと、夜の名残を追い払うように、空から鐘の音が五つ降り注いだ。
日の出を知らせる始鐘の次に鳴るこの鐘は、聖都に住む人々にとって生活の始まりの合図であった。
鐘の音の方角──聖都の中心にある高台に鎮座する大教会。そして、そこで女神の声を聞く聖女に向けて祈りを捧げ、人々は一日を始める。
五つ目の鐘が世界に溶け切った頃、聖都の大通りには既に人の流れが生まれていた。
石畳を踏み鳴らしながら、農夫が荷車を引く。眠たげな子供の手を引いて、教会へ向かう母親。徹夜明けの兵士は欠伸を噛み殺す。鎧を鳴らして歩く冒険者。店先に集まった商人達は、仕入れの調子を語り合う。
人々は職業や立場だけでなく、見た目も様々だった。尖った耳を持つ者。獣の尻尾を生やした者。皮膚が鱗で覆われた者。翼をはためかせる者。
多種多様な人々が作る喧騒の中を、大きな歩幅で横切って進む男がいた。
淡黄色の外套の隙間から、よく磨かれた鎧を覗かせ、右手の書状は確かに、しかし潰さぬように注意を払って握りしめられていた。
大通りを外れ、いくらか狭まった通りを進んで行くと、とある二階建ての建物の前で数人が列を作っていた。農夫に商人に冒険者、装いに統一感はないが、皆一様に封書や羊皮紙を手にしていた。
男は足を一度止め、建物の扉の上に視線を送る。吊るされた看板には、紙と羽根筆が交差して描かれていた。
§
店内には紙と墨液の匂いが満ちていた。
棚には巻かれた羊皮紙と、粗紙の束が分けて置かれている。窓際の日当たりの良い机では、台に乗せられた紙が書かれたばかりの文字の乾きを待っていた。
「はい、こちらですね」
店内の中央では、受付台を挟んで若い女性と老婆が向き合っていた。
若い女性はまだ幼さを残した顔立ちであったが、落ち着いた態度で手紙と代金を受け取ると、紙面へ目を落とした。
顔の横から伸びて来た茶髪を耳に掛け、青緑の眼を柔らかく細めて文字を追う。
彼女の名前はシフィル。形だけの文字を言葉に変えて伝える代読屋にして、無形の言葉を文字に変えて届ける代筆屋。世間からは文書屋と呼ばれる店の、若き女主人だ。
シフィルは手紙を一通り読み終えると、老婆へ視線を移す。
老婆は顔に刻まれた皺を少しだけ深くし、視線を揺らした。
「北の農村にいらっしゃる息子さんからですね。”今年の麦畑は順調です。羊の具合も良いので心配しないでください”」
柔らかな笑みと共に一文を読み終えると、老婆の顔から皺の深みが取れた。
「ああ……よかった。あの子、元気にやってるんだね……」
老婆が胸を撫で下ろすと同時に、シフィルも内心で安堵の息を吐いた。朝早く訪ねて来た客に悪い知らせを読み上げるなど、誰がすき好むだろうか。
文書屋には様々な言葉が集まる。
無事の知らせ。商談。嘆願書。依頼書。訃報。遺書。
シフィルは言葉に触れることを好ましく思っていたが、心のどこかで必ず緊張していた。
聖都は大規模な都市であり、教会の学び舎はいくつか存在するが、それでも読み書きができない者は多い。日々の労働に追われる者にとって、継続して学ぶ時間を作ることは難しく、何より人々の認識として、読み書きは一種の技術だった。学ぶ機会が開かれたからといって、これまでの認識──常識と呼んでもよい──を変える為には少なくない時間が必要だ。
「続き、読みますね」
そう言ってシフィルが再び紙面に視線を落とした時、店の奥から少年の声が届いた。
「姉ちゃん、おれ洗濯行って来る」
「あ、はーい」
シフィルが返事をして振り返ると、弟のウルリクが、小さな体に不釣り合いな洗濯桶を持っていた。
「……」
ウルリクは勝手口に向かう途中、二階へと続く階段を見上げ、降りて来る人物がいないことを確認すると鼻を鳴らした。
シフィルが代読と代筆で稼ぎを得、ウルリクが家事を回す。いつもの日常であった──外からの騒めきが流れ込むまでは。
「うおっ……!」
「おい、なんだお前!?」
困惑の声を置き去りにして扉が開かれる。
現れたのは、淡黄色の外套からよく磨かれた鎧を覗かせ、書状を手にした男だった。
男が微かに眉間に皺を寄せ、店内を見渡していると、開け放たれたままの扉から、粗末な鎧を着た男が身を乗り出した。
「おう、順番は守れや!」
外套の上から肩に掴みかかろうとしたその手を、別の客が止めた。
「お前さん、流れ者か!? あの聖印を見ろ、教会騎士だぞ」
「ああ……?」
外套の背には、銀糸で聖教の証が縫い付けられていた。
それは、左右から立ち上がる二本の滑らかな弧によって形作られた円。しかし完全ではない。上部で閉じ切らず、わずかな余白を残して向かい合っている。
円の中心に花が咲いており、その花弁は柔らかく円の上部を目指して開いている。
花の根元からは、左右対称に月桂樹の枝葉が広がっており、花を支える基盤としての半円を形成している。
銀の双弧花章。聖都に住む者ならば誰もが知り、敬うべき象徴。
粗末な鎧の男は、教会騎士なら順番を守らなくてよいのかと思ったが、教会に逆らうべきでないことは明確に理解していた。不満そうに口を曲げながらも引き下がる。
教会騎士は背後のやり取りを意に介さず、店内を見渡した後に、店主であるシフィルに向かって口を開いた。
「用があるのは文書屋ではない」
教会騎士ともなれば文字の読み書きは習得済みであり、文書屋に依頼があって訪れた訳ではないことは察しがつく。では何用か。
その理由に、シフィルは一つ確信に近い心当たりがあった。
「業断ちはどこだ?」
シフィルは自身の予想が的中したことに、少しだけ複雑な気持ちを抱いた。けれど、返答を誤魔化そうなどとは思わなかった。それは、彼にとっても望むところではないのだから。
「オルファさんなら……」
居場所を伝えようとした時だった。二階から戸が開閉する音が届き、直ぐに足音が下りて来た。
厚革の半長靴に、鉄と竜鱗で補強された黒革鎧を纏い、片手には飾り気の無い鉄兜。いずれの防具にも、擦れや傷が幾重にも刻まれている。
背に携えた大剣はやや細く、剣身に刃を持たず、光を吸い込むような鈍い灰色をしている。そして、無造作に伸びた黒髪から覗く瞳もまた、鈍い灰色をしていた。
教会騎士は彼の姿を認めると眉間に皺を寄せた。出自も経歴も信仰心も曖昧な冒険者ならいざ知らず、仮にも祈誓騎士である者が、古き闇を連想とさせる暗い装備に身を包むとは何事か。
「依頼だ」
個人的な不快感は隠さず、しかし命じられた役割は果たす。
祈誓騎士はオルファを呼び止めて書状を掲げて見せた。
「……俺にか?」
「他に誰がいる?」
「ここは文書屋だ」
教会騎士は思うように話が進まないことに苛立つと、オルファに押し付けるようにして書状を差し出した。
「聖女様からだ」
封蝋に刻まれた銀の双弧花章を見せつけるが、オルファは表情を一切変えずに書状を受け取る。
「虚人か」
その言葉にシフィルと老婆の表情は強張り、いよいよ苛立ちが我慢できなくなった教会騎士は舌を打った。
「内容は知らん。ただ、書状を渡すよう命を受けただけだからな」
教会騎士が言い終わる前にオルファは封を切り、整然と記された文字を目で追いかける。
店内の空気が緊張し、依頼と関係の無いシフィルや老婆も成り行きを見守っていた。そんな様子を知ってか知らずか、オルファは眉一つ動かさずに読み終えると、依頼書を適当に丸めた。
「他の祈誓騎士は?」
「いればそちらを頼っている。なんだ、一人では荷が重いのか?」
「そうか」
嫌味を言われたことに気づいていないのか、オルファの淡々とした態度に教会騎士は呆れに似た感情を抱いた。
「シダルタ卿がおられれば、お前のようなはぐれ者の手を借りずとも済んだのだが……」
挙げられた名前に、オルファは聞き覚えがあった。序列や階級の無い祈誓騎士であるが、頭一つ抜けた戦闘能力から実質的な長とされ、騎士達からの信頼も厚い。加えて高い信仰心と正義感を持ち、市民からは人格者と呼ばれる存在。
虚人討伐の帰り、怪物の群れに襲われていた隊商を難無く守り切ったとか、竜を操る虚人を単独で倒したとか、彼を歌った詩は数多く存在する。
「戻らないのか?」
「失礼な言い方をするな。壙穴の調査でしばらく離れると仰っていた。シダルタ卿の事だ、今後の為になる成果を持ち帰って来られるだろう」
「そうか」
淡白な返答と頷きを返し、丸めた依頼書へと視線を落とす。
「言っておくが、騎士団からも援軍は出せん」
「ああ」
初めから期待はしていない。いつもの事であり、騎士団が都市の守護を使命としているならば当然だ。人里を離れ、敵を探し出して屠るとなれば、おあつらえ向きの者達がいる。
「フン……精々、頼りになる冒険者でも集めるのだな」
吐き捨てるように告げると、教会騎士は外套を翻して文書屋を去った。
僅かな静寂の後、声を発したのは老婆だった。
「虚人が出たのかい……?」
眉根を下げ、合わせた手を頻りに摩っている老婆に対し、オルファは相変わらずの無表情で答える。
「ああ」
「まさか北じゃないだろうね? そっちには息子がいるんだ」
「東の壙穴」
方角を聞くと、老婆は手を摩るのを止めた。代わりにシフィルの眼が大きく開かれた。
「そうかい……」
虚人が出た以上、安心はできない。しかし、直ぐに息子へ危害が及ぶ場所ではないと分かれば、一先ずはそれで良かった。老婆はシフィルへと向き直る。
「悪いね。続きを読んでくれるかい」
中断していた手紙の続きを催促されたが、シフィルは直ぐに反応することができなかった。
東の壙穴。雨。倒れた馬車。ぬかるんだ地面を濡らす赤。腕の中で震える弟。光の無い虚ろな瞳。
「おや、どうしたんだい?」
「あ、はい……ごめんなさい。続きですね」
記憶の中から意識を取り戻したシフィルは、脳裏に残っている景色を忘れようと必死に手紙の文字を読んだ。
手紙を読み終えると、老婆は喜んだ顔を見せ、手紙を大切に握り締め、何度も礼を言いながら去っていく。
交代で店に入って来た商人は、予期せぬ待ち時間が発生したことで焦っている様子だった。シフィルもつられて少し早口になる。
オルファは文書屋に日常の景色が戻ったことを認めると、勝手口から外に出る。
扉の閉まる音を聞いたシフィルは、彼に告げたい言葉が込み上げて来たが、胸の奥に押し込める。そして、目の前に出される形だけの文字を言葉に変えて伝え、無形の言葉を文字に変えて届けるのであった。




