表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

72/90

目印が多すぎて


三本目の細い道は、細いまま続かなかった。


ネアが真剣に選んだその道は、最初だけ樽と壁のあいだを通り、すぐに干した布の下へ入って、曲がった先で別の通りに混ざった。足元の石は小さくなったり大きくなったりして、袋の中の俺は、右へ傾いたと思うと次には左へ戻される。ネアの腕はずっと袋を抱えていたが、進むたびに人の肩や荷車の角を避けるから、俺の位置も落ち着かない。


「……ここ、さっきの道?」


違う、とは言えない。合っている、とも言えない。


さっき焼き串の匂いがした。今も焼いた肉の匂いがする。けれど同じ店かどうかはわからない。廃都なら、井戸の石、倒れた柱、リコの家の壁、坂道の家が、それぞれ違う沈黙を持っていた。ここでは、焼けた脂の上に甘い湯気が重なり、その上から濡れた布と油を拭いた木の匂いが流れてくる。どれも濃いのに、どれもすぐ別のものに押される。


「あ、白い火」


ネアが足を止めた。白い火は、すぐ青い火の横へ消えたらしい。


「……ちがう白い火」


それは目印にならない。


俺は地脈を広げなかった。通りの下を拾えば、石畳の継ぎ目や水路の曲がり方ぐらいはわかるかもしれない。門で途切れた細い温度の端を探せば、廃都へ戻る線の残りも少しは触れられるかもしれない。だが、それをここで使えば、ネアの足が選んでいる迷いを、俺の便利な輪郭で上書きしてしまう。


動けない石が、道を決めるわけにはいかない。


「こっち、あつい」


ネアは熱い方へ行きかけて、すぐに戻った。そこは店の裏だったらしく、木箱を抱えた男が横歩きで出てきて、ネアの前をふさいだ。男は「ごめんよ」と言い、ネアは袋を胸に押しつけて、壁際へ一歩寄った。


壁際にも、道はなかった。


壁から突き出した棚に小さな皿が並び、皿の上には赤い粉と黄色い粒が盛られていた。ネアの肩が棚に触れそうになり、彼女はまた通りの方へ戻る。戻った先で、今度は前から水桶を持った女が来て、ネアは足の置き場を探すみたいに、つま先だけを何度も動かした。


「通っていいよ」


女が笑って、少しだけ桶を持ち上げた。


「……はい」


ネアは頭を下げて、そのすきまを抜けた。抜けた先には、別の火と、別の声と、別の匂いがあった。


   ◆


通りは朝になっても静かにならなかった。


どこかの二階から水が落ち、下の石を濡らした。木戸が開き、粉を払う音がして、まだ眠そうな声が値段を言う。夜の火が消えた場所には、朝の白い布が張られ、布の下に並んだ皿や籠がまた新しい目印になった。けれど、ネアがひとつ覚える前に、別の人がその前に立つ。


ネアは壁のくぼみに座って、膝の上の袋を押さえたまま、通りを見ていた。眠ったというより、まばたきの長い時間が何度かあっただけだった。俺は袋の底で、彼女の体温が薄くなるたびに、地脈の方へ逃げかける感覚を戻した。


広げない。


「……朝も、人いる」


廃都の朝は、最初に鳥の声がして、それから誰かの戸が開いた。ここでは、戸が開く音がどこから来たのかを聞く前に、別の戸が鳴り、荷車の車輪が石を叩き、誰かが「焼けたよ」と呼ぶ。音の順番が、手の中でそろわない。


ネアは袋の上から、俺の位置を確かめるように指を置いた。


「イシル、いる?」


いる。


返事はできない。けれど、ネアの指はすぐ離れなかった。布越しの力が少しだけ強くなり、それから通りへ戻る。人の足が近くを通るたび、彼女の膝が袋を守る角度になる。


「パン、ある」


昨日の門の近くで見た白いパンとは違うらしい。今日のパンは細長いのか、ネアの視線が横へ動いた。すぐ隣で小さな器に入った汁が湯気を上げ、その湯気に干した魚の匂いが混ざる。廃都で食べたものの名前を探すより早く、通りの奥から甘い焼き菓子の匂いが来て、ネアは顔をそちらへ向けた。


「……多い」


その言葉は昨日も聞いた。


昨日より、少し小さかった。


「お嬢ちゃん、宿を探してるのかい」


近くの露店の女が声をかけた。ネアはすぐ立たなかった。袋を抱え直し、相手の顔を見て、それから通りの奥を見た。宿、という言葉がどの建物に結びつくのか、まだ見つけていない。


「やど」


「泊まるところだよ。ひとりかい?」


ネアは俺の入った袋を見た。


「……石と」


女は一度だけ袋を見て、笑ったのか、咳をしたのか、短く口元を動かした。からかった声ではなかった。だが、その声の後ろを荷車が通り、木の車輪の音が会話の端を削った。


「石も泊めるなら、角の青い札の家だね。ほら、あっち。布屋の横」


女が指した方には、青いものが三つあった。吊るされた青い魔石、青く染めた布、青い札。


ネアは三つを順番に見て、最後に袋を抱えた。


「……青、いっぱい」


女は今度ははっきり笑った。


「そうだねえ。じゃあ、パンの匂いがしない方の青」


パンの匂いは、どこからでもした。


   ◆


ネアは青い札の家へ向かった。


向かったはずだった。


最初の青は、布屋の軒先だった。布は風で揺れ、青い面がふくらんだり細くなったりするから、見失うたびに別の青へ目が移る。二つ目の青い魔石は、店の灯りではなく、子どもの首から下がった小さな飾りだった。子どもは走っていった。ネアはその青を一歩だけ追いかけ、すぐに止まった。


「違う」


三つ目の青い札は、店の入口にあった。だがそこには靴が並び、宿の匂いではなく革と油の匂いがした。中の男が「子ども用なら奥だ」と言い、ネアは「違いました」と小さく答えて、また外へ出た。


俺は何もできない。


できることがあるとすれば、地面の奥へ触れることだ。水が通る低い震え、人がよく歩く石の沈み、建物の柱がどこで深く刺さっているか。そういうものを拾えば、道らしいものは見つかるかもしれない。けれど宿の青い札は、地脈の中にない。ネアの目の前にある。


俺は広げないまま、袋の中で揺れた。


「石、重い?」


誰かの声が近くで言った。ネアより少し年上の子どもかもしれない。足音が軽く、すぐ近づいて、すぐ離れない。


ネアは袋を抱え直した。


「重い」


「売るの?」


「売らない」


返事は早かった。通りの音に消されないくらい、短く置かれた。


相手は「ふうん」と言って、また別の方へ走った。足音が遠くなる途中で、露店の男たちの声が重なった。


「あの廃都、動いてるって話、聞いたか」


「また噂か。水が戻っただの、子どもが増えただの」


「行商のやつが言ってたんだよ」


その声は、肉を返す音にすぐ隠れた。


ネアの足が止まった。


袋の布が、彼女の指で少しだけ沈む。俺は地脈を広げなかった。広げても、その声の持ち主の顔はわからない。言葉の先も拾えない。ここで廃都の方へ意識を伸ばせば、門で途切れた温度の端に触れてしまう。


触れない。


ネアは振り返らなかった。けれど、袋を持つ手だけが、いつもより胸に近くなった。


「……青い札」


彼女は自分でそう言って、前を向いた。


戻りたいとは言わなかった。戻らないとも言わなかった。ただ、今探しているものの名前をもう一度口にして、足元の石を見た。


   ◆


青い札の家は、布屋の横ではなく、布屋の横の細い通りを一本入った先にあった。


札は青かった。けれど、煤で端が黒く、朝の光では緑にも見えた。扉の前には小さな水桶が置かれ、誰かが洗ったばかりの布が手すりにかかっている。ネアは札を見上げ、桶を見て、扉を見て、最後に袋を見た。


「ここ?」


答えられない。


ネアはすぐ入らなかった。扉の横に寄り、通りを振り返る。さっき通ったはずの道は、もう同じ形をしていなかった。布屋の前には別の客が立ち、靴屋の入口には荷が積まれ、走っていった子どもの青い飾りはどこにもない。焼き菓子の匂いは弱くなり、代わりに湯を捨てた湿った匂いが残っている。


目印は消えていない。


増えたまま、並び替わっていた。


ネアは袋の上から俺を押さえた。確認するみたいに、二度、指を置く。


「いた」


いる。


ここでだけ、ネアの手は迷わなかった。青い札も、パンの匂いもしない方角も、布屋の横も、全部すぐに形を変える。だが袋の中の石だけは、重くて、動かなくて、彼女の腕の中にある。


俺はその重さを使って何かを解決できない。ただ置かれているだけだ。水を動かすことも、空気を澄ませることも、ここではしない。しないまま、ネアが扉へ手を伸ばすのを待つ。


軒下の影で、小さな石をこする音がした。


ネアが横を見たときには、何もいなかった。桶の水面だけが少し揺れ、通りの向こうから誰かの笑い声が来て、その揺れをすぐに見えにくくした。


「……ぐり?」


返事はなかった。


ネアはしばらく桶を見て、それから扉を叩いた。中から足音が近づく。ひとつ、ふたつ、途中で別の足音が重なり、どちらが扉へ来ているのか、袋の中の俺にはわからなくなる。


戸が開く前に、通りの向こうでまた青い布が揺れた。


石畳の下で、途切れた温度の端だけが、まだ少し揺れていた。


SAGA2の最初は、門の向こうをさらに進む回にしました。街は賑やかなのに、ネアが頼れる目印はなかなか増えません。今回の核は「広いのに孤独」です。廃都の話が外で少しだけ口にされたので、次からその声がどう近づくかも見ていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ