目印が多すぎて
三本目の細い道は、細いまま続かなかった。
ネアが真剣に選んだその道は、最初だけ樽と壁のあいだを通り、すぐに干した布の下へ入って、曲がった先で別の通りに混ざった。足元の石は小さくなったり大きくなったりして、袋の中の俺は、右へ傾いたと思うと次には左へ戻される。ネアの腕はずっと袋を抱えていたが、進むたびに人の肩や荷車の角を避けるから、俺の位置も落ち着かない。
「……ここ、さっきの道?」
違う、とは言えない。合っている、とも言えない。
さっき焼き串の匂いがした。今も焼いた肉の匂いがする。けれど同じ店かどうかはわからない。廃都なら、井戸の石、倒れた柱、リコの家の壁、坂道の家が、それぞれ違う沈黙を持っていた。ここでは、焼けた脂の上に甘い湯気が重なり、その上から濡れた布と油を拭いた木の匂いが流れてくる。どれも濃いのに、どれもすぐ別のものに押される。
「あ、白い火」
ネアが足を止めた。白い火は、すぐ青い火の横へ消えたらしい。
「……ちがう白い火」
それは目印にならない。
俺は地脈を広げなかった。通りの下を拾えば、石畳の継ぎ目や水路の曲がり方ぐらいはわかるかもしれない。門で途切れた細い温度の端を探せば、廃都へ戻る線の残りも少しは触れられるかもしれない。だが、それをここで使えば、ネアの足が選んでいる迷いを、俺の便利な輪郭で上書きしてしまう。
動けない石が、道を決めるわけにはいかない。
「こっち、あつい」
ネアは熱い方へ行きかけて、すぐに戻った。そこは店の裏だったらしく、木箱を抱えた男が横歩きで出てきて、ネアの前をふさいだ。男は「ごめんよ」と言い、ネアは袋を胸に押しつけて、壁際へ一歩寄った。
壁際にも、道はなかった。
壁から突き出した棚に小さな皿が並び、皿の上には赤い粉と黄色い粒が盛られていた。ネアの肩が棚に触れそうになり、彼女はまた通りの方へ戻る。戻った先で、今度は前から水桶を持った女が来て、ネアは足の置き場を探すみたいに、つま先だけを何度も動かした。
「通っていいよ」
女が笑って、少しだけ桶を持ち上げた。
「……はい」
ネアは頭を下げて、そのすきまを抜けた。抜けた先には、別の火と、別の声と、別の匂いがあった。
◆
通りは朝になっても静かにならなかった。
どこかの二階から水が落ち、下の石を濡らした。木戸が開き、粉を払う音がして、まだ眠そうな声が値段を言う。夜の火が消えた場所には、朝の白い布が張られ、布の下に並んだ皿や籠がまた新しい目印になった。けれど、ネアがひとつ覚える前に、別の人がその前に立つ。
ネアは壁のくぼみに座って、膝の上の袋を押さえたまま、通りを見ていた。眠ったというより、まばたきの長い時間が何度かあっただけだった。俺は袋の底で、彼女の体温が薄くなるたびに、地脈の方へ逃げかける感覚を戻した。
広げない。
「……朝も、人いる」
廃都の朝は、最初に鳥の声がして、それから誰かの戸が開いた。ここでは、戸が開く音がどこから来たのかを聞く前に、別の戸が鳴り、荷車の車輪が石を叩き、誰かが「焼けたよ」と呼ぶ。音の順番が、手の中でそろわない。
ネアは袋の上から、俺の位置を確かめるように指を置いた。
「イシル、いる?」
いる。
返事はできない。けれど、ネアの指はすぐ離れなかった。布越しの力が少しだけ強くなり、それから通りへ戻る。人の足が近くを通るたび、彼女の膝が袋を守る角度になる。
「パン、ある」
昨日の門の近くで見た白いパンとは違うらしい。今日のパンは細長いのか、ネアの視線が横へ動いた。すぐ隣で小さな器に入った汁が湯気を上げ、その湯気に干した魚の匂いが混ざる。廃都で食べたものの名前を探すより早く、通りの奥から甘い焼き菓子の匂いが来て、ネアは顔をそちらへ向けた。
「……多い」
その言葉は昨日も聞いた。
昨日より、少し小さかった。
「お嬢ちゃん、宿を探してるのかい」
近くの露店の女が声をかけた。ネアはすぐ立たなかった。袋を抱え直し、相手の顔を見て、それから通りの奥を見た。宿、という言葉がどの建物に結びつくのか、まだ見つけていない。
「やど」
「泊まるところだよ。ひとりかい?」
ネアは俺の入った袋を見た。
「……石と」
女は一度だけ袋を見て、笑ったのか、咳をしたのか、短く口元を動かした。からかった声ではなかった。だが、その声の後ろを荷車が通り、木の車輪の音が会話の端を削った。
「石も泊めるなら、角の青い札の家だね。ほら、あっち。布屋の横」
女が指した方には、青いものが三つあった。吊るされた青い魔石、青く染めた布、青い札。
ネアは三つを順番に見て、最後に袋を抱えた。
「……青、いっぱい」
女は今度ははっきり笑った。
「そうだねえ。じゃあ、パンの匂いがしない方の青」
パンの匂いは、どこからでもした。
◆
ネアは青い札の家へ向かった。
向かったはずだった。
最初の青は、布屋の軒先だった。布は風で揺れ、青い面がふくらんだり細くなったりするから、見失うたびに別の青へ目が移る。二つ目の青い魔石は、店の灯りではなく、子どもの首から下がった小さな飾りだった。子どもは走っていった。ネアはその青を一歩だけ追いかけ、すぐに止まった。
「違う」
三つ目の青い札は、店の入口にあった。だがそこには靴が並び、宿の匂いではなく革と油の匂いがした。中の男が「子ども用なら奥だ」と言い、ネアは「違いました」と小さく答えて、また外へ出た。
俺は何もできない。
できることがあるとすれば、地面の奥へ触れることだ。水が通る低い震え、人がよく歩く石の沈み、建物の柱がどこで深く刺さっているか。そういうものを拾えば、道らしいものは見つかるかもしれない。けれど宿の青い札は、地脈の中にない。ネアの目の前にある。
俺は広げないまま、袋の中で揺れた。
「石、重い?」
誰かの声が近くで言った。ネアより少し年上の子どもかもしれない。足音が軽く、すぐ近づいて、すぐ離れない。
ネアは袋を抱え直した。
「重い」
「売るの?」
「売らない」
返事は早かった。通りの音に消されないくらい、短く置かれた。
相手は「ふうん」と言って、また別の方へ走った。足音が遠くなる途中で、露店の男たちの声が重なった。
「あの廃都、動いてるって話、聞いたか」
「また噂か。水が戻っただの、子どもが増えただの」
「行商のやつが言ってたんだよ」
その声は、肉を返す音にすぐ隠れた。
ネアの足が止まった。
袋の布が、彼女の指で少しだけ沈む。俺は地脈を広げなかった。広げても、その声の持ち主の顔はわからない。言葉の先も拾えない。ここで廃都の方へ意識を伸ばせば、門で途切れた温度の端に触れてしまう。
触れない。
ネアは振り返らなかった。けれど、袋を持つ手だけが、いつもより胸に近くなった。
「……青い札」
彼女は自分でそう言って、前を向いた。
戻りたいとは言わなかった。戻らないとも言わなかった。ただ、今探しているものの名前をもう一度口にして、足元の石を見た。
◆
青い札の家は、布屋の横ではなく、布屋の横の細い通りを一本入った先にあった。
札は青かった。けれど、煤で端が黒く、朝の光では緑にも見えた。扉の前には小さな水桶が置かれ、誰かが洗ったばかりの布が手すりにかかっている。ネアは札を見上げ、桶を見て、扉を見て、最後に袋を見た。
「ここ?」
答えられない。
ネアはすぐ入らなかった。扉の横に寄り、通りを振り返る。さっき通ったはずの道は、もう同じ形をしていなかった。布屋の前には別の客が立ち、靴屋の入口には荷が積まれ、走っていった子どもの青い飾りはどこにもない。焼き菓子の匂いは弱くなり、代わりに湯を捨てた湿った匂いが残っている。
目印は消えていない。
増えたまま、並び替わっていた。
ネアは袋の上から俺を押さえた。確認するみたいに、二度、指を置く。
「いた」
いる。
ここでだけ、ネアの手は迷わなかった。青い札も、パンの匂いもしない方角も、布屋の横も、全部すぐに形を変える。だが袋の中の石だけは、重くて、動かなくて、彼女の腕の中にある。
俺はその重さを使って何かを解決できない。ただ置かれているだけだ。水を動かすことも、空気を澄ませることも、ここではしない。しないまま、ネアが扉へ手を伸ばすのを待つ。
軒下の影で、小さな石をこする音がした。
ネアが横を見たときには、何もいなかった。桶の水面だけが少し揺れ、通りの向こうから誰かの笑い声が来て、その揺れをすぐに見えにくくした。
「……ぐり?」
返事はなかった。
ネアはしばらく桶を見て、それから扉を叩いた。中から足音が近づく。ひとつ、ふたつ、途中で別の足音が重なり、どちらが扉へ来ているのか、袋の中の俺にはわからなくなる。
戸が開く前に、通りの向こうでまた青い布が揺れた。
石畳の下で、途切れた温度の端だけが、まだ少し揺れていた。
SAGA2の最初は、門の向こうをさらに進む回にしました。街は賑やかなのに、ネアが頼れる目印はなかなか増えません。今回の核は「広いのに孤独」です。廃都の話が外で少しだけ口にされたので、次からその声がどう近づくかも見ていきます。




