第43話「言わなくてもいい」
翌日の朝。市場の音が、戻りはじめていた。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
行商人の荷車の音は、もうなかった。街道の方に、輪の音は、残っていなかった。
ふだんの朝の音だった。籠を運ぶ音、皿を片付ける音、子どもの声、犬の足音。けれど、地脈の振動の中に、ふだんとは違う重さが、まだ薄く散っていた。粒の細かい塩、薄手の陶器、城下町の木綿。家の棚や台の下に、それぞれが、止まっていた。
市場の方の足音は、ふだんよりも、ほんの少しだけ、忙しかった。新しい物の話をしているらしい声が、薄く混じっていた。話の中身までは、地脈の振動には、届かなかった。
ネアの足音が、雑貨屋の裏手に向かった。仕分けの仕事の場所だった。ぐりは、雑貨屋の壁の石垣の隙間に潜り込んでいた。地脈の振動で、ぐりの硬い表面が、石垣の中で止まった。今日も、昨日と同じ位置だった。
◆
雑貨屋の裏手に、人は、まだ来ていなかった。
ネアの足音が、布の山の前で止まった。地脈の振動で、ネアの手が、布をひと束、抱え上げた。それから、別の山に、置いた。仕分けの手の動きは、ふだんと同じリズムだった。
しばらく、その音だけだった。布が動く音、台にこすれる音、ネアの呼吸。地脈の振動の中で、ふだんの朝の重さが、ゆっくりと流れていた。
台のいちばん下に、城下町の木綿がまだひと巻き、混じっていた。ヴェラがネアにくれたものだった。ネアの手は、その木綿には触れなかった。ふだんの仕分けの布だけを、抱え上げていた。
ふと、ネアの手の動きが、止まった。
「……廃都、変わってきたな」
短い声だった。
誰に向けたわけでも、なかった。地脈の振動で、ネアの顔の向きは、布の山の方だった。俺の方ではなかった。雑貨屋の方でも、なかった。ただ、布の山の上の、空に近いどこかだった。
ネアの手が、また動き始めた。布をもうひと束、抱え上げた。台の上に、置いた。仕分けの手の動きは、すぐに、ふだんのリズムに戻った。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。ネアは、聞かれていることに、気づいていない、らしかった。気づいていないというより、気にしていなかった。
念話には、出さなかった。
◆
昼が近かった。
雑貨屋の裏手にも、人の声が混じり始めた。住民の足音が、ふだんの市場の昼の気配で、流れていた。地脈の振動で、ヴェラのパン屋の方から、ふだんの朝のパンの薄い層が、薄く流れてきた。
ヴェラの足音が、雑貨屋の裏手に近づいてきた。
「ネア、ちょっと、これ」
ヴェラの声だった。地脈の振動で、ヴェラの手の中に、布の包みがあった。中身は、パンだった。ふだんよりも、ひとつ多かった。
ネアの足音が、止まった。
「……ありがと」
ネアの手が、布の包みを受け取った。地脈の振動で、布の包みの上から、パンの重さがふだんよりも、増えていた。何も、言わなかった。
ヴェラの足音は、長くは止まらなかった。「いい朝だね」を半分だけ言って、また、パン屋の方に戻っていった。
ネアの足音が、雑貨屋の裏手の隅に、動いた。それから、布の包みを、開けた。
ふだんなら、すぐに、食べた。
今日は、しばらく、手の動きが、止まっていた。地脈の振動で、ネアの指が、パンの端に、薄く触れた。それから、また、止まった。パンの重さがネアの手の上で、ふだんよりも長く止まっていた。
ネアの口が動いた音は、地脈の振動には、届かなかった。それから、ようやく、ネアがひと口、パンを口に運んだ。ふだんの噛む音だった。けれど、噛む音と噛む音の間が、ふだんよりも、長かった。
◆
夕方が近かった。
ネアの仕事が、終わった。布の山が、台に並んでいた。ネアの足音が、雑貨屋の裏手から、家の方に向かった。地脈の振動で、ぐりが石垣の隙間から出てきた。少し遅れて、跳ねていた。
家の前で、ネアの足音が、止まった。
ぐりも、止まった。少し遅れた距離で、跳ねる音が、止まった。ふだんと、同じ位置だった。
ネアが、扉を開けて、中に入った。ぐりは、扉の中までは、入ってこなかった。
家の中の地脈の振動は、ふだんと同じだった。土間の硬さ、寝床の藁の柔らかさ、棚の木の重さ。台の下の、城下町の木綿の、ひと巻き。
ネアの足音が、寝床の縁に座った。地脈の振動で、ネアの呼吸が、ふだんよりもほんの少しだけ深かった。寝床の藁が、ネアの肩の重さで、薄く沈んでいた。
しばらく、ネアの足音は、動かなかった。指の動く音もなかった。家の中の地脈の振動の中で、ネアの呼吸だけが、続いていた。
「……お母さんも、見てるかな」
短い声だった。地脈の振動で、ネアの呼吸の音と、声の音が、ずれた高さで重なっていた。ふだんの返答の声とは違う、低い種類の声だった。
誰に向けた声でも、なかった。地脈の振動で、ネアの顔の向きは、棚の方でも、扉の方でもなかった。寝床の藁の上の、どこか低い位置だった。
しばらく、ネアの足音は、動かなかった。地脈の振動で、ネアの指は、寝床の藁の端を、薄く撫でていた。それから、止まった。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
俺の地脈の振動が、揺れた。それから、戻った。
(聞こえてるぞ)
念話には、出さなかった。
ネアの足音が、また、動き始めた。寝床の縁から、土間に降りた。火を起こす音が、ふだんのリズムで、続いた。
ネアは、聞かれていることに、気づいていない、らしかった。
◆
夜。
ネアが、寝床に入った。地脈の振動で、藁の重さが、ネアの肩の位置で、止まった。家の中の音は、ふだんよりも、少しだけ、静かだった。
扉の外には、ぐりが、伏せていた。地脈の振動で、ぐりの呼吸らしき音が、ふだんの動きで、続いていた。半年ぶりに、扉の外には、何かが、いた。それは、もう、何日かが過ぎていた。
ネアの呼吸が、ゆっくり、整った。眠る前の呼吸だった。
「……イシルが、来てから」
短い声だった。地脈の振動で、ネアの顔の向きは、扉の方でも俺の方でもなかった。寝床の中の、暗いどこかだった。ぐりの方でも、なかった。
ネアの呼吸が、ふだんより、長く止まった。それから、また、動いた。
「……なんか、変わった気がする」
地脈の振動で、ネアの呼吸が、止まった。それから、また、戻った。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
俺の地脈の振動が、もう一度、揺れた。それから、戻らなかった。少しの間、揺れたままだった。1度目の揺れよりも、深かった。それから、ゆっくり、戻った。
(聞こえてるぞ)
念話には、出さなかった。
ネアは、聞かれていることに、気づいていない、らしかった。
◆
ネアの呼吸が、寝息に変わった。地脈の振動で、寝床の藁の重さが、ふだんの夜の重さに戻った。家の中の音は、ふだんの夜の音だった。けれど、家の中の重さが、ネアの声の分だけ、ふだんよりも深かった。
扉の外で、ぐりの呼吸らしき音が、薄く続いていた。ネアの寝息と、ふだんよりも深く重なっていた。揺れが、ふだんと同じ位置で、止まっていた。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
ネアの声が、地脈の振動の中に、薄く、残っていた。仕分けの仕事の場所、家の中の寝床、夜の暗い位置。どれも、誰に向けたわけでも、なかった。けれど、俺は、聞いていた。
ネアは、たぶん、知らない。
◆
(言わなくてもいい)
ネアが、独り言を言うらしい。
俺は、聞いていた。
でも、聞いてないことに、しておく。
石だが。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
タロが、何か、言うらしい。
——石より




