第41話「ぐり」
朝、ネアが戸を開ける前から、外に硬い重さがあった。
◆
俺はポケットの中で、扉の向こうを聞いていた。
昨夜から同じ場所だった。戸口の石板の、少し欠けた端。そこに小さな硬い体が伏せている。呼吸らしき震えは薄い。寝ているのか、待っているのかは分からない。
石喰いだ。
昨日、ネアの後ろに隠れたやつ。
(帰らなかったのか)
念話には出さなかった。
ネアの指が戸の掛け金に触れた。金具が小さく鳴る。いつもなら、外の朝の空気が入ってくるだけの音だった。
今日は違う。
戸が開いた瞬間、石喰いの硬い表面が地面をこすった。
カタ。
逃げる音ではなかった。跳びかかる音でもなかった。ただ、少し身を起こした音。
ネアは動かなかった。
靴の先が、石喰いのすぐ前で止まった。蹴らない。避けない。拾わない。
しばらく、そのままだった。
(お前、そこは玄関だぞ)
もちろん、返事はなかった。
◆
市場へ向かう道で、石喰いは少し後ろを跳ねた。
カタ、カタ。
ネアが止まると、少し遅れて止まる。ネアが歩くと、また跳ねる。昨日より近い。けれど、ネアの足には触れない。俺のいるポケットにも、まだ届かない距離だった。
俺としては、ここが重要だった。
(食う気は、消えてないだろ)
石喰いの体が俺の方を向くたび、硬い振動の角度が少し変わる。目があるわけではない。たぶん。ないはずだ。
でも、分かる。
こいつは俺を覚えている。
道の脇で、籠を運んでいたおばさんの足音が止まった。少し離れたところで、別の足音も止まる。市場の朝は流れていたが、ところどころで引っかかっていた。
誰も声をかけてこない。
聞かなかったことにする足音が、いくつか増えた。
ネアは歩いた。
石喰いも、ついてきた。
◆
「ネア!」
リコの足音が走ってきた。小さい足が石畳を叩く音は、朝から元気だった。途中で、急に乱れた。
「なにそれ」
ネアは止まった。
「石喰い」
「やだ」
「うん」
「うんじゃない」
リコがネアの周りを回った。石喰いはネアの足の影へ入った。昨日と同じ動きだった。隠れている。隠れているくせに、少しだけ外へ硬い端を出している。
リコの足音が、そこで止まった。
「……出てる」
ネアは何も言わなかった。
「怖いのに」
リコの声は、怖がっている時の高さだった。けれど、足は逃げなかった。石喰いの前で少ししゃがむような重さがした。
「名前いる」
唐突だった。
(いや、いるのか)
俺は思った。念話には出さなかった。
リコは少し黙った。市場の奥で誰かが桶を置く音がした。石喰いは動かなかった。ネアも動かなかった。
「ぐり」
リコが言った。
短い音だった。
「ぐり。石、ぐりってするから」
説明になっているようで、なっていない。
石喰いは答えない。
ネアは石喰いを見ているらしかった。足の向きだけで分かる。リコはもう1回、確かめるように言った。
「ぐり」
カタ。
石喰いが、ほんの少しだけ動いた。
「返事した」
「してない」
ネアが短く言った。
リコは笑った。すぐに走り出した。市場の方へ、タロを呼びに行く足音だった。
(まずい)
(増える)
◆
雑貨屋の裏で、ネアは仕分けを始めた。
ぐりは石垣の隙間に入った。
そこは古い壁の下だった。石が1つ抜け、土が少し固まっている。小さな体が横から入り込むには、ちょうどいい幅だった。偶然にしては合いすぎている。
いや、偶然だろう。
たぶん。
カタ、という音を最後に、ぐりの重さが壁の中で止まった。
ネアは追い出さなかった。
俺も何も言わなかった。
言えば、たぶん伝わる。危ない、とか、石を食うやつだぞ、とか。ネアなら聞く。聞いた上で、たぶん何も言わない。
だから言わなかった。
布を畳む音が続いた。薬草の束をほどく音。木箱を寄せる音。市場の向こうでは、リコの声が一度高くなり、タロの足音が乱れた。
来る。
予想より早かった。
◆
「ネア!」
タロの足音が裏手に入ってきた。リコが後ろにいる。もう1人、弟か妹らしい小さい足音も混じっていた。増えている。やっぱり増えた。
「リコが変なこと言ってたぞ。名前つけたって」
「つけた」
リコがタロの後ろから言った。
「ぐり」
「いや、そうじゃなくて」
タロの足が石垣の前で止まった。
ぐりは出てこなかった。壁の中に硬い重さだけがある。呼吸のような震えが、薄く続いている。
「石を食う魔物だろ。街にいていいのか」
その声は、昨日の石様どうこうの声ではなかった。少し低い。怒っているというより、ちゃんと困っている声だった。
ネアの手が止まった。
布の端を持ったまま、足の向きだけが変わる。
石垣へ。
それから、ポケットへ。
俺の方。
また、石垣へ。
答えはなかった。
(俺に聞くな)
そう思った。
念話には出さなかった。
ぐりは俺を食おうとした。今もたぶん、食えるなら食う。危険生物と言えば危険生物だった。
けれど、昨日ネアの足元に隠れた。
今日、戸の外で待っていた。
今は、壁の穴にいる。
街の誰かを襲った音は、まだない。
「ネア」
タロがもう1回呼んだ。
ネアは布を畳み直した。角を合わせる動きだった。いつもの仕事の速度より、少しだけ遅い。
「……今は」
短い声だった。
それだけで終わった。
タロはしばらく黙った。
リコも黙った。小さい足音だけが、石垣の前でそわそわしていた。
「今は、ってなんだよ」
タロが言った。
ネアは答えなかった。
ぐりも答えなかった。
俺も、答えなかった。
◆
そのあと、裏手には何人か来た。
大人は来なかった。来ない代わりに、表の店先で声が少し小さくなった。雑貨屋の戸が開く音、閉まる音。そのたびに、石垣の中のぐりの重さがほんの少し縮む。
子どもは来た。
リコより小さい足音が2つ、石垣の前で止まった。片方が小石を拾った。投げる前の重さだった。
ネアの足が、そちらを向いた。
何も言わない。
でも、小石は落ちた。ころ、と転がって、ぐりのいる隙間の少し手前で止まった。
ぐりは出てこなかった。
ネアは小石を拾わなかった。叱りもしなかった。ただ、仕分けの箱をひとつ、石垣と子どもたちの間へ置いた。
木箱ひとつ分。
それで、子どもたちは走っていった。逃げたというほどでもない。遊び場を変えただけの足音だった。
(柵か)
俺は思った。
念話には出さなかった。
守った、とは少し違う。
入れなかった、に近い。
◆
昼過ぎ、ぐりは少しだけ出てきた。
頭なのか尻なのか分からない硬い端が、石垣の隙間から外に出る。そこから動かない。市場の方角へは行かない。ネアの足音が近い時だけ、ほんの少し出る。
リコがまた来た。
「ぐり」
カタ。
「ほら」
「それ石が当たっただけだろ」
タロも来ていた。来ないと言った足音ではなかった。
「ぐり」
リコがもう1回呼ぶ。
ぐりは、今度は動かなかった。
「返事しない」
「だから、してないって」
タロの声が少し軽くなっていた。
ネアは仕分けを続けた。ぐりを撫でない。食べ物もやらない。名前を呼びもしない。ただ、石垣の隙間の前に置いてあった小さな木片を、足で少し横へずらした。
ぐりが出入りする場所が、少し広くなった。
それだけだった。
(受け入れた、ではない)
(たぶん)
俺は、自分に言い聞かせるように思った。
念話には出さなかった。
◆
夕方、仕事が終わった。
ネアが道具を片付ける。布の山を台に寄せ、空の箱を壁際に戻す。石垣の隙間で、ぐりの重さが動いた。
出てくる。
カタ、カタ。
ぐりはネアの後ろについた。
市場の人たちは、朝より声を出さなかった。見ていないふりが少しうまくなっている。リコだけが遠くから「ぐり」と呼んだ。タロは呼ばなかった。でも、足音は一度だけこちらを向いた。
ネアの家の前で、ぐりは止まった。
戸が開く。
ネアが中へ入る。
ぐりは入らない。
その距離だけは、昨日と同じだった。
ネアも振り返らなかった。閉まりかけた戸の端で、外の空気だけが少し押し返された。ぐりの硬い体は、戸口の石板の上に残った。
カタ。
伏せる音。
朝と同じ場所だった。
◆
夜になっても、ぐりはそこにいた。
ネアは眠っている。家の中はいつもの重さだった。寝息。床板。壁の冷え。俺の周りにある布の匂いまでは分からないが、静かなことだけは分かる。
戸の外に、硬い呼吸がひとつ増えていた。
俺はその音を聞いていた。
石喰い。
ぐり。
名前がついたからといって、何かが変わったわけではない。石を食うやつは、石を食うやつのままだ。俺は石だ。そこはかなり問題だった。
でも、ネアは追い払わなかった。
俺も、言わなかった。
戸の外で、ぐりの体が少しだけ動いた。硬い表面が、こちらを向いたような振動。
(目は、ないはずだ)
ぐり。
「ぐり」
——名前。
俺は、まだ食われる側だと思う。
石だが、少し近い。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「変な石」もよろしく。
また外にいるらしい。
——石より




