祝福の宴
シンカは居間の机で書き物をしていた。
書館に納める研究書である。
イーヴァルンとエンディラの民の文化と特性について纏め、御導きの原理を解き明かし記すのが最終的な目標であるが、それは結婚式で2つの里に赴いてからとなる。
分厚い青桐の年輪を指でなぞっていると家の外から人が走る音が聞こえてきて合図も無しに扉が開いた。
でろでろに顔を汚したリンファだった。
「お前、泣いてばかりだな」
直に30になるリンファだが、溜め込んでいた雨水が決壊するかの様に頻繁に物事に1番寛容なユタが引く程よく泣いた。
目尻に小皺ができない様気をつけるべき年頃に激しく泣くのは宜しくないと思うシンカだが、勿論其れを口にする事はない。
女性との生活は罠に満ち溢れている。不用意な発言がどこで引火しどこで暴発するかなど男には分かり得ないのだ。
そしてこのシンカ家に爆発物は5つ存在している。
荊の茂みの中を風船を持って歩こうというところで周囲の蔦を蹴る様な行為は控えるべきなのだ。
泣き喚きながら突撃して来たリンファは何かを途切れ途切れに話したが然しものシンカにも理解ができない。
仕方無しに立ち上がり身体を抱くと更に鳴き声が大きくなった。
解せない。
他の4人が巣から外の様子を窺う大立ち栗鼠の様に此方を伺っていた。無機質な目が怖い。
軈て落ち着いたリンファが口を開く。
「か、母さん達が、宴を開くって………」
その言葉を聞いた瞬間4人は散り散りに自室に戻りごそごそと何やら始めた。
シンカは大量の水を飲んでは吐きを繰り返し胃を拡張し酔い止め薬を飲む。
宴は戦いである。
事前準備を怠った者が敗れる。
支度を終えたナウラ達はそれぞれ正装をしていた。
ナウラは砂色の生地の筒布を腰に巻き、同色の胸当てで大きな乳房を覆っている。滑らかな褐色の肌が隠される事なく晒されている。
頭には被り布を被り背に長く垂らしている。生え際から少し純白の髪が垣間見える。
生地は同じ色の糸で細かく刺繍が施され、裾に向かうにつれて茶の刺繍を入れ、配分を増やしている。
右の揉み上げにシンカが与えた赤鼈甲の髪飾りを付けている。
健康的な色気に満ちていた。
「それがナウラの里の正装か。綺麗だ。よく似合っている」
小鼻を膨らませて喜ぶナウラを抱き締める。胸板で大きく柔らかい乳房が潰れた。
腰に乗った女特有の脂肪を摩る。
ナウラはくすぐったがってシンカから離れた。
ナウラの次にやって来たのはカヤテだった。
夜の帳の様な藤鼠色の式典用婦人服で、しかも胸元から上が全て剥き出しだった。
白い肌が目に眩しい。
薄い生地を重ね合わせた腰から下の部分は踝まで真っ直ぐ落ち、清楚さを感じさせる。
高い踵の靴と芯の通った背筋で見る者を惹き付ける。
黒く艶やかな長髪は頭の後ろで丸く纏められ、ほっそりとした首筋が晒されている。
「おおぉ………」
グレンデーラでカヤテとナウラと食事をした時、カヤテは自分の為にこの様に着飾ってくれた。
あの時もとても美しいと思ったが、カヤテに手を伸ばす事は出来なかった。身分が違い過ぎたのだ。
だが今は触れる事が出来る。
白磁の頬を撫でた。
「そうか。言葉が無いか」
カヤテは満足そうに微笑む。
薄っすらと口紅と頬紅が差され、目の周りも黒く縁取られて意思の強そうな目が更に引き立てられている。
「俺には勿体無い気がする」
言うとカヤテにど突かれた。
「馬鹿。其方が駄目なら私は生涯独身だぞ。尤も、勿体無いと思うなら大切にするのだぞ?」
堂々と言い放ったつもりなのだろうが大分顔が赤らんでいる。
次に部屋から出て来たのはユタだった。
コブシ式の札仕立ての鎧を着込んでいた。
偶にこそこそと里の仕立て場に通っていると思えば無駄な物を作っている。
そも鈴剣流にコブシ式やクサビナ式の鎧は合わない。
カヤテが溜息をついてユタを引きずっていった。
「ちょっとなんでみんなそんなに気合入ってるの?」
リンファがそわそわとした様子で尋ねた。
「夫の実家で祝いの席に呼ばれるのです。リンファにとっては実家でしょうから気にならないのは分かりますが、私達にとってはそうはいきません。正装の一つ、芸の一つも無ければ恥でしょう」
ナウラの目が意地悪そうに細められたのが分かった。
言外に貴女が何もせずに目立たなくても知りません。と言っている。
リンファはそれに気付かない。
そうこうしているうちにヴィダードが自室から現れた。
赤地に細かい装飾の入った民族衣装を着込んでいる。
装飾は濃紺と金色で、足元まで隠れる長衣だったが同じ色合いの帯で腰を締め上げておりヴィダードの腰の細さが服の上からでも分かった。
麦穂色の眩い髪は丁寧に編み込まれ帽子の中に収められている。
右の揉み上げにヴィダードも髪飾りを付けている。
谷稚児車の空色の髪飾りだ。
美しいという言葉が似合うヴィダードだが、不思議と清楚で愛らしく見えた。
「どぉですかぁ?」
妖しく微笑する。
「可愛い」
短く感想を言うとヴィダードは照れて顔を赤くした。
ナウラが髪一本分瞳を大きく開き、照れるヴィダードを唖然と見つめた。
側から見ればただ見つめている様にしか見えないだろうが、そこには確かに驚愕があった。
ヴィダードは可愛いと褒められる事に免疫がない。
或いは彼女の事を可愛いと感じる人間がただ1人しかいないと言う事なのかもしれない。
シンカにとって限界まで見開かれ血走った目で見つめられる事も、気付けば扉の隙間から片目がのぞいている事も、窓に張り付き中の様子を窺われる事も、さして気にするべき事柄では無かった。
執着されている事に心地よささえ覚える。
或いはそれは一度リンファに突然振られ傷付いた事による反動なのかもしれない。
「ヴィーはリンファにお礼を言った方がいいな」
「何故っ?!」
普通の人間ならヴィダードは恐怖の対象にしかならない可能性もある。
シンカはヴィダードの仕草を可愛らしい、或いは面白いと感じており奇跡的に帳尻が合っていたのだった。
瞳の色に近い青黄玉の首飾りを3つ首にかけ、それをいじいじと弄っている様子を見たナウラは何時もの様に揶揄おうとして口を噤んだ。
そして到頭ユタが現れた。
ランジューの装いで現れると思っていたシンカは驚いた。
丈の長い前合わせの衣を羽織り帯で締めたコブシの訪問着であった。
若芽色の下地に薄い色の小花を散らせており、淑やかに見える。
剣を抜いて涎を垂らす女にはとても見えない。
髪は頭頂やや下で丸くカヤテの様にまとめてあり、頭の小ささが際立った。
ユタはほんのり淡く微笑んでシンカを見つめた。
「か、可憐……」
リンファが愕然として思わずと言った風に言葉が口を突いた。
「ランジューの装いではなくコブシ、鈴紀社か?」
「うん。僕は2回死んだんだよ。1回目は狩幡で。僕の殆どは鈴紀社での日々が入っていたんだ。2回目はエシナで。君が居なかったら僕はいない。だからもう僕は君の物なんだよ、シンカ」
抽象的だが言わんとする事は分かる。
「さて、行こうか」
シンカは六弦琴を手に家を出た。
六弦琴片手に気を引き締めて頬を叩いた。
「あんた、何で殺気立ってるのよ?!何考えてるわけ!?」
「分かっていないなお前は。此れは戦争だ。前回と違い奴等に遠慮はもう無い。俺たちを潰しに来るぞ」
崖の下で森渡り達が宴会を開いている。
臼を用意して酔っ払い達が餅つきをしている。
それも餅をつく事より臼を破壊する事に主軸を置いている。
シンカの優れた視力は搗かれ過ぎてほぼ糊と変わらぬ状態となった憐れな餅米を確認できた。
遠くで数人が此方を指差している。
おめでとう、という叫び声が風に乗って届いた。
酔っ払い達が此方に火行法を放った。火綱渡りや炎弾が飛来した。
シンカは仕返しに両手を握りあわせる。周囲の雪が溶け崖下に大量の水が勢いよく噴出された。
水行法・鉄砲水である。
結果を他所にシンカは妻達と階段を降りていった。
其々異なる民族衣装を纏った女達は側から見れば違和感しかなかっただろう。
そうしてシンカ達はリンレイ家の前に立った。扉の前から既に中での騒動が予想できた。
リンファが戸を開ける。瞬間爆音が屋内から風圧と共に迫った。
「………酷い………」
度重なる爆発音に打楽器を打ち鳴らす音、素っ頓狂な囃子に雄叫び。
奥から負けじとクウルとリクファの怒声が聞こえてくる。
「楽しそう……」
ユタが柔らかく笑う。
一瞬頭に何か虫でも湧いているのではと考えたが、よく考えれば何時もユタはそんな感じだ。
偶にまともな事を言うからシンカ自身洗脳されつつあった様だ。危ないところであった。
ナウラが鼻をひくつかせている。
大好きな酒の匂いを嗅ぎ取ったに違いない。
ここの所酒を皆で控えていたので、そろそろ手が震える頃合いだろう。
そんな事を考えていると察知したのか小突かれた。
家に入ると大柄な角の生えた女性を引きずりながらリンブがやって来た。
「兄さん!俺は信じてたよ!俺は!俺は!ひょぉぉぉぉぉおおおおおおっ!」
驚いた事にリンブからは酒の匂いを嗅ぎ取れなかった。
素面でこれらしい。
「アレタだったか。何が起こっている?」
ダゴタの民のアレタはリンブの妻である。
「お義兄さんとお義姉さんが指輪を交換したからって」
よく分からなかった。
「兄さん!この前は本当に済まなかったっ!全部馬鹿な姉さんが悪かったのにっ!俺は馬鹿だっ!」
「おい」
リンファが涙を流すリンブの顔を鷲掴みにして眼を飛ばした。
リンブはへらへら笑う。
「よかった姉さん。行き遅れて、薹が立って、1人寂しく婆様になるんじゃっ………ぶうぇっ」
瞳孔が開いたリンファに鳩尾を抉られリンブは悶絶した。
「………・な、何でぇ………俺は心配……して………うぇっ、うぇっ」
蹲って涙を流すリンブの襟首を掴みアレタは去っていった。
「……みんな、あたしの事やっぱりそういう風に見てたわけ……?」
「当たり前でしょ?」
次に現れたのはリンドウであった。
リンファは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あんたはどっか行ってなさいよ!」
「酷い姉さん……。兄さん、ファ姉さんが私の事虐めるの……」
すすり泣いてシンカに近寄ろうとするリンドウをヴィダードが風流陣で弾いた。
「あぁん、私は兄さんに甘える事も出来ないの?」
「雌の匂いがするのよねぇ。次に私の許可無くシンカ様に触れたら乳首を切り取るわぁ」
さしものリンドウも震え上がった。ヴィダードの目は本気だった。
「………姉さんより絶対私の方が胸の張りも締まりも良いはずなのにっ!若さは正義なのにっ!」
リンドウは小走りで去っていった。
「……あいつ、母親の悪い影響を受けているな」
「酷すぎる」
ぼそぼそとリンファと会話しながら卓に着いた。
「里を出る前はあどけない可愛らしい子供だったのだが………」
「厠に行きやすいように下着に全て穴を開けて怒られていたわよね?」
「ああ。夏場は全裸で外出しようとしていた。それがこんな女に……」
「兄さん、姉さん、2人にとってのあどけない可愛らしい子供って……?」
リンスイがやって来て尋ねた。
「子供なんてみんな似たようなもんでしょ?」
「お前とて小さな頃は」
「待って兄さん!旦那もいるの!そういうのは怪我しかし無いからもう辞めて!」
シンカは大人しく口を噤んだ。沈黙は金なり。
格言である。
「へえ!彼女の子供の頃の話、聞きたいですね!」
好青年風のリンスイの夫ハンケンが長男を抱いたまま身を乗り出した。
「止めて貴方!私の記憶に無い失敗が幾らでも出て来そうだから!兄さんお願い。この前兄さんを責めたこと、本当に後悔してるの。御免なさい。だからお願い。何も言わないで」
黙って頷くとリンスイは乳飲み子の長女を抱えたまま胸を撫で下ろした。
隣でハンケンは残念そうな顔をした。
「いやあ、先日は中々時間が取れませんでしたが、森渡りの歴史上最も優秀と名高いお義兄さんと話が出来て嬉しいです!」
「………そう言う人は居るが、よく分からん」
同席している5人の妻達が表情は変えずとも何処か誇らしそうでシンカはほっこりした。
「そうなんですね。では1人で倒したと言う黒隈龍の話を聞かせて貰えませんか?」
ハンケンが言うと周囲の弟妹の伴侶達が一斉に近くに集まった。
気を利かせたシャラが酒樽をえっちらおっちら運んできてどんと置いた。
そもそも龍とは爬の一類であるが、軒並み体が大きく空を飛び高い生命力を持つ。
竜は基本的に陸上で活動し、小型から大型まで幅広い種類を持つ。
飛行する種もあるが、体の構造は一目瞭然である。
龍の身体は蛇のように細長く、飛竜とは異なりかなり自在に飛行が可能である。
経の使用はせず特異な能力を使う事例が多い。
黒隈龍は全身が黒い鱗に覆われた龍だが、部位によりその濃さには濃淡がある。
隈だ。
加えて眼の周りにも隈取りがあり二つを持って黒隈の名を冠する。
シンカが黒隈龍と遭遇したのは17歳の秋中月の事だった。
白山脈の北連山、東斜面を冬季装備で里へ向かっている時だった。
危険な魍魎の生息が無い隙間を通り白山脈の背骨とも言うべき峰を超えて灰色の岩と疎らに残る硬い雪の二色の色合いの中を歩んでいた。
下山していると巨大な糞を発見した。
シンカの背丈はあろうかと言う巨大な糞の山だ。
大きさと臭い、乾燥具合で爬の龍か竜のどちらかである事は直ぐに判った。
この峰は多くの里の者が使う。糞の主を倒しておかなければ誰かが死ぬ。
雪面や岩肌に残る足跡や擦り傷で胴が長く四つ足でも腹を擦る龍であるとすぐに知れた。
岩の削れ具合から鱗は相当硬く、体が大きい事も直ぐに判った。
慎重に周囲を調査してシンカは崖の窪みでとぐろを巻く巨大な黒龍を発見した。
シンカは匂いも消し去り、装備は周囲と同化する色合いで、更に距離を取り慎重を期していた。
だが黒隈龍はシンカに気付き、大きな頭をもたげてこちらに縦長の瞳孔の金色の目を向けた。
予定外であった。
更に経験を積んだ今なら、あの時何故に気付かれたか予想できる。
爬に類する蛇は鼻腔の脇にある器官で熱を感知する。
黒隈龍にはその器官が有り、そしてその感知範囲が異様に広かったのだろう。
黒隈龍はシンカを見とめて背に生える大きく薄い黒い翼を広げた。
龍の鱗や骨が軽量だとしても巨体を浮かせる為には体以上の大きな翼とそれを動かす筋肉が必要となる。
羽音と共に周囲の石を吹き飛ばしつつ飛び立った黒隈龍は太陽を背に長大な翼で天を覆うかの如くシンカの頭上に舞い上がった。
そして大きく咆哮を上げた。
それはシンカを吹き飛ばさんとする程で、耳孔に経を充填させ耳からの音を遮断したが、後ろに踏鞴を踏む程の衝撃が体を襲った。
骨伝導により塞いだ鼓膜からも音が伝わる。それ程大きな咆哮だった。
シンカは羽ばたく龍を白い菅笠の下から鋭く見上げた。
手持ちの剣である棘竜の背鰭骨の剣では鱗に負けるだろう。
毒針の毒もこの巨体では意味を成さないだろう。
黒隈龍が突如急降下した。
甲高い雄叫びと共にシンカ目掛けて襲い来る。
脚の力だけで横に向けて飛び、上下一回転して急襲から逃れた。
硬く凍った雪面に足を着く頃には背から砥木の弓を取り出し構え終わっていた。
黒隈龍は透かさずその長い尾を体の動きと合わせて横薙ぎにする。太い尾を後方に回転しながら飛び躱し、短弓を射た。
放たれた矢は異音と共に雷の様に早く進み、振り返った龍の鼻面に突き立った。
龍が絶叫を上げた。
遠くの峰で雪崩が起こった。
その後シンカは龍の攻撃を躱しながら矢を放ち続け、黒隈龍の頭が針鼠になるまで延々と3刻戦い続け、日が落ちかけた頃漸くその巨体の動きを止めた。
そんな話を皆に披露した。
「それ程の大きさ……あの珠の大きさである程度想像はつきますが……全長10丈……よく無傷で……」
「逆だ。傷を負った時は死ぬ時だ」
その時のシンカはまだそれ以上の災厄が有るとは知る由もなかった。
口々にシンカを誉めそやす若い男達を見てナウラとヴィダードが誇らしそうにした。
我が事の様に感じている様は本当に愛おしく感じる。
そうこうしているうちに支度が整い母達が娘達に料理を運ばせ、次々に酒が注がれて杯が満たされた。
満を時してリンレイが立ち上がり皆が静まった。
「今年は良いことばかりだ」
男達が一斉に雄叫びを上げた。
「長く帰らなかったシンカがお嫁さんを連れて帰り、失恋していたリンファも無事その一員として到頭婚約が成った。喜ばしいよ」
「父さん!なんで泣いてるの!?やめてよ!」
目尻が涙に光る。
リンファが指摘した直後リンレイの目から滝の様に涙が流れ出た。
リンレイの背後でカイナが両手を握り合わせていた。
「カイナ母さん!馬鹿にするのやめてよ!」
「えぇえ?」
にやにやと笑いながら惚けるカイナの頭をクウルが叩いた。
「馬鹿やってないであんたは大人しくしなさい!」
そんな騒動にリンレイは表情一つ変えなかった。
昔は分かっていなかった。矢張りこの人も何処か可笑しいのかもしれないとシンカは改めて思った。
「これからの森渡りは3000年の停滞を乗り越え漸く前を向く。戦争を僕はそう解釈している。そしてその革新の前に僕達の長兄が家族を新しく作る。これは……」
「父さん?その話まだ続くの?」
硬い話を続けるリンレイに対しリンドウが気怠げに口を挟んだ。
「……皆んなお酒を早く飲みたくて手が震えているね。分かった。でも一つだけ。次の作戦に向けて家長を代替わりする。これからは家長はリンブだ。リンブ」
クサビナの内戦へ参戦するにあたりリンレイは六頭としてグレンデーラに滞在する計画である。
リン家を束ねる者が別に必要だ。
「えっと………」
酒の小瓶を片手に携えリンブは立ち上がり襟足を掻いた。
アレタがその様を見て頭を抱えた。
「なんか………そういうことなんで、俺の言う事、聞いてくれよ?」
リンブの言葉の内容はどうでもよかったらしく皆が大声で相槌を打った。
既にナウラは酒から、ユタは目の前のマルカ風乾麺料理から視線が離れない。
「兄さん!姉さん!ナウラさん!ヴィダードさん!カヤテさん!ユタさん!婚約、結婚おめでとう!姉さんはもう嘘つくなよ!乾杯!」
リンファがギリ、と歯軋りをしたがそれは歓声に掻き消された。
錫製の杯があちこちでうち合わさり酒が飛沫を上げた。
「ちょっとリンファ!」
シンカ達の元にやって来た5人の母達が目を剥いてリンファを見た。
クウルが声を上げる。
「リンファが良いならいいんだけどね。貴女、女の闘いに負けてるわよ?」
カイナはリンファの着る普段着を摘んで言う。
「え!?」
闘いとはナウラ達の正装を指すのだろう。
「馬鹿ね。実家だからって。努力しないと飽きられるわよ?貴女はもう来年で三十路なのよ?」
「そんな事無いわよ!……無いわよね?シンカ?」
「うん?」
シンカはナウラと一杯目を飲み干しており話を聞いていなかった。
「ほらリンファ、来なさい」
センコウに手を引かれてリンファは家の奥に消えていった。
そして空いた席にシャラが座った。
早速リンドがムスクアナの太鼓を手で叩き、リンカがそれに合わせて歌を歌い始めている。
曲に合わせリンリとリンヒという若い女子が踊っている。
だがシンカはそんな周囲の陽気さとは裏腹に緊張に固唾を飲んだ。
時は至れり。酒は戦。シャラは酒乱だ。
「あら?シンカさんもナウラさんももう飲んじゃったの?じゃあ私も……」
シャラは手に持っていた杯を空けた。
「母君、お注ぎします」
カヤテがシャラの杯に麦酒を注いだ。
「あら?親切にありがとうございます。では私も。……あら?まだ残ってるわね。混ざってしまうわ?」
「うぇ?今空けます!」
シャラはにこやかに微笑みながら瓶を持ち待機している。
カヤテは自分の杯を空けた。
この手口はナウラも得意としている。にこやかか無表情かの差でしか無い。
カヤテはもう駄目だろう。完全に捕まった。
嘗て何度もシャラには酒で潰されて来た。今日こそ打ち勝つ時だろう。
シンカはユタ、ヴィダード、ナウラに目配せをした。ユタは食事に夢中で此方を見ていなかったのでナウラが小突く。
シンカはシャラの背後に葡萄酒の樽を持って立った。
シンカの背後に更にナウラ、ヴィダード、ユタが並ぶ。
「シャラ」
カヤテと2杯目の乾杯を終えたシャラの肩を叩く。
「あら?シンカさんどうしたの?」
シンカは無言でシャラの杯に葡萄酒を注いだ。
「あらあら。どうもありがとう。では私もお返しに」
シンカに注がれたのは麦酒。葡萄酒とは酒精の度数に差がある。
杯を合わせ、2人は酒を飲み干した。
シンカが退けると次はナウラだ。
ナウラがシャラの杯に葡萄酒を注ぎ、シャラが麦酒を返す。そしてシンカは杯と樽を手にユタの背後に並び直した。
ヴィダードは2杯で離脱し、代わりにカヤテが参戦して3巡目でシャラを打ち倒した。シャラが突っ伏した卓にはその後誰も近づかなかった。
「兄さん!」
顔を赤らめたリンブが角族のアレタと共にやってくる。
「俺は、俺はぁぁぁ!」
言葉を続ける事なく瓶の中身をシンカにかけた。
シンカはお返しに水行法で葡萄酒をリンブの鼻から侵入させた。
悶絶するリンブを尻目にこそこそと樽に何かを混ぜ込んでいるリンドウの元まで向かうとにこやかに微笑んでその酒樽を手に取った。
「リンドウ。今日は祝ってくれてありがとう。俺からの礼だ」
「え?あ、私は麦酒が飲みたいなぁ」
「何を言う!飲みたそうに見つめていたでは無いか。さあ、杯を!……なに?直接がいいか?!よし、口を開けろ!」
「はい。ごめんなさい」
注がれた酒を飲んだリンドウは半刻後に自室に消えていった。
シンカが膨れに膨れた腹の中身を厠で吐き戻して戻ると、リンファが戻って来ていた。
見事なラクサス式の夜会衣装だった。
静音露草の花弁で染めた美しい衣装はざっくりと胸元が開いておりリンファの豊満な乳房の谷間が見せつけられていた。
括れた腰と健康な子を産みそうな丸い尻に思わず視線を注ぎ、カヤテに背後から小突かれた。
暫くするとリンドが演奏を止めて食べ物を食べ始めると三女のリンゼイがやってきた。
「兄さん、久し振りに兄さんの演奏が聞きたいな」
彼女達が幼い頃、シンカはよく六弦琴を弾きあやしていた。
楽器を取り出すとリンゼイは脳裏に残る大輪の花が咲くような笑みを浮かべた。
リンゼイに手を引かれて正面に立つとヴィダードが漏れなく付いてきた。
「ヴィダードさんの歌が聴きたい!」
「私も!」
「また聞かせてください!」
何人かの子女が声を上げた。
「兄さんの六弦でヴィダードさんが歌えばいいんじゃないかな!」
リンゼイの笑顔はいつも明るい。
彼女が結婚した男もコウホと言うよく笑う明るい男だった。
シンカは椅子にかけると六弦の弦を調整する。
ヴィダードはシンカの隣に立ちやる気満々だ。
曲はマルカ出身の吟遊詩人とメルソリアのアシルでユタ救出後に出会い、彼の故郷の音楽として教わったものだ。
シンカは演奏を覚え、ヴィダードは歌を覚えた。
前奏を奏で始める。
大陸中央でもあまり聞かぬ独特の前奏で、静かだが移り変わりの激しい演奏で、シンカの技術の高さを感じられるものだった。
見付けて。そこにあるわ、あなたの花は。
見落とさないで。そこで咲いているから。
例えばあなたが気づかなくても
ひっそりといつだって花は咲いているの。
忘れられても踏まれても咲いているの。
だからいつかは見付けて見つめて。
歌詞が少なく鼻歌や唸りが半分以上を占める。
それだけにかえってヴィダードの声の美しさ、歌の上手さが如実に現れた。
この歌は本当の幸せは身近にある。それを見失わないでと言う意味だが、隠された意味として私なら貴方を幸せにできると言う女の愛情を表している。
シンカも低音を歌い、整った曲に仕上げる事が出来たと思う。
女達は矢張り感じ入ったのか僅かだが涙を流している。
耳から頭に染み込むようなヴィダードの歌声は人の感情を揺さぶるのかもしれない。
拍手が起こり、それは暫し止むことが無かった。
シンカはヴィダードと視線を合わせる。
止まぬ拍手はもう一曲演奏を求める合図である。
シンカもヴィダードも満更でもない気持ちで次の曲を考えた。
二曲目はエリンドゥイラの民謡に決める。
曲の始まりは同時だ。
巷の大道芸人であれば合図無しでは合わせられない。
だがシンカとヴィダードは違う。
瞬きや呼気、身体が知らずに出す様々な仕草で何を考えているか、何をしようとしているかが分かる。
それに加えてお互いの事を理解し合っている。高々音楽の始まり程度でずれる事はないのだ。
全くぶれることなくヴィダードが歌い出し、シンカが弦を弾いた。
私の慕う貴方、如何して去ってしまったの
これ程心で思っても伝わらない
碧い森、彼の人を隠さないで
碧い森、彼の人を遮らないで
碧い森、彼の人の声を聞かせて
碧い森、彼の人の姿を見せて
何故いないの、貴方が望むなら全てを投げ出すのに
私はいつでも貴方を愛しているのに
碧い森、私の方が彼の人を愛しているのに
碧い森、私はそれでも彼の人を愛しているのに
ヴィダードは一曲目と歌い方を変えた。
先は低めの声で深く染みるような声音だったが二曲目は抜けるように透き通り耳に馴染んだ。
失恋の歌だからなのだろうか、リンファが号泣していた。
「ヴィダードさん!また今度歌ってください!」
「義姉さん!素敵です!」
「兄さんの演奏久し振りだな。昔弾いて貰ったの思い出したよ」
口々に声をかけられながら2人で席に戻った。
「凄いな2人とも!………私は、剣だけ振って生きてきたからな……誇れる芸は無いのだ。後悔は無いが、寂しいものだな……」
「何でお祝いの席でそんなに暗いのよ……」
寂しげな表情のカヤテにリンファが突っ込んだ。
酒が進んだリン家の面々は更に騒がしさを増した。
シンカは厠で嘔吐を繰り返し酒精を身体が取り込まないように気を付けて兄弟達の攻撃を凌いでいた。
全ては技術だ。シンカは視界がぼやけて真っ直ぐ歩けない程に追い込まれたが、それでも酒で潰そうと企む弟達や親族達を沈めるに至った。
そもそもアガド人の血が混ざったシンカはシメーリア人と比べて酒に強い。
加えて各地で飲み歩き時に失敗をしてきたシンカの技術を合わせれば20数人の猛攻を耐え忍び注ぎ返して飲ませ、潰す事も可能なのであった。
ふらつきながら厠に向かい水気たっぷりの嘔吐を終えると檸檬水を飲み漸く人心地ついた。
リンレイ家の居間は死屍累々の有様だった。
シンカの妻もナウラは床で白髪を蜘蛛の巣のように広げて倒れ、カヤテは椅子の脚を抱き締めながら啜り泣いている。
ユタは服の上からでもぱんぱんに膨れているのが分かる腹を撫でながら呻いており、リンファは人目を憚らず長椅子にかけるシンカの膝に頭を置き甘え倒していた。
ヴィダードはいつも通り隣で甲斐甲斐しくシンカに世話を焼いていた。
宴会が始まり3刻、騒ぐ者が潰れて漸くしっとりとした場になった。
シンカはちびちびと乾酪を蜂蜜に浸けてつまみとしながら林檎酒を飲んでいた。
「兄さん、どうして姉さんとよりを戻す事にしたの?」
目元を赤らめたリンスイが夫のハンケンと共に再びシンカの前に掛けた。
2人は底の深い木彫りの杯に氷と梅の果実酒を入れてゆっくり味わっている。
長灯石の橙色の光に杯が当たり、細長い影が二つ伸びた。
影は重なり合い何となしに2人の仲睦まじさを示している様に感じられた。
幼い頃から素直で、だが芯の強かった、小さなリンスイが艶っぽい表情で酒を嗜んでいる様子が違和感として映る。
それだけ長く里を空けていたという事だ。戻って来て2月以上経ったがまだ慣れない。
膝元を見ると幸せそうな笑みを浮かべたままリンファは寝入っていた。
10年、どうして他の男に走らなかったのか全く分からなかった。
確かに自分は武芸の腕が立つ。一対一であればどんな者にも負けない自負もある。
だがそれだけだ。
話せば面白い男、見目の良い男、性格の良い優しい男。自分より上の物を持つ男など限が無い。それでもリンファは自分が良かったのだ。
それは或いはただの執着だったのやもしれない。
鳥の雛が初めに見た物を親と認識するような、刷り込みだったのかもしれない。
不憫なものだと思った。それでもシンカは良いと思った。
そのお陰で全てを手に入れることができたのだから。
リンコ、リンナ、リンカの3人の妹とリンメイが耳聡く聞き付けて杯を持ったまま同じ卓にやって来た。
「………妹にする話でも無いな」
「酷い!減るもんじゃ無いでしょ!」
リンメイが頬を膨らませて不満を表した。
「俺の精神が擦り減る。……だが、揶揄う事が無いと約束出来るなら話しても良い」
離れたところでじっと此方の様子を窺うリンドウに、シンカは爛心木の実を炒った摘みを指弾で飛ばした。
燕が飛ぶ程度の速さで飛来した其れをリンドウは掴み取ったが、シンカは初弾に隠れるように次弾を弾いていた。
無駄に高い技術で当てられた炒り木の実はリンドウの額に当たり、ぱっくりと薄い殻を割り落として中身は5つに砕けた。
リンドウは額に赤い跡を残して白目を剥いて倒れた。
「凄い!指だけで影追いを!」
ハンケンは技術に興奮したが妹達は見向きもしなかった。
「教えてよ兄さん!」
リンコが興味に目を輝かせている。
「……俺にも未練が残っていた。今から思えば未練が無くなった時点で里に帰っていたのだろうと思う。帰れなかったという事は心中で想いを断ち切れていなかったという事なのだ」
「へえ、兄さんはファ姉さんの事そんなに好きだったんだね」
悪戯っぽくリンナが笑う。
「リンナ。次に茶化すような事を言ったら5刻通しで稽古を付けるからな」
言葉を聞いてリンナはにやけたまま凍りついた。
「兄さんは姉さんのどんな所が好きなの?」
リンスイが杯を両手で挟みながら尋ねる。
「……そもそも付き合いが長いからな。そういう意味で愛着がある」
「うわっ、俺の女って事?!やだ!」
「ぉおおいっ!」
茶化すリンメイに向けて指弾で木の実を弾く。
リンメイは才媛だけあり初弾を指で挟みとり、影追いの次弾を躱そうとするがシンカがこっそり別の手で弾いた木の実が跳弾して次弾に当たり、弾かれたそれがしっかりとリンメイの額に当たった。
同時に予備で弾いたもう一発が床に当たって跳弾し、鼻の穴に突き刺さった。
「俺を揶揄おうなど、5年早いわ」
悶絶するリンメイは捨て置いた。
「あっという間に両手で2発づつ!凄い!」
はしゃぐハンケンは矢張り妹達に無視された。
「他には無いの?兄さん。正直姉さんって、美人だけど性格は、その……こんな事もあった訳だし……」
リンスイは酒のせいか普段なら口にしない姉の欠点を半ば溢れさせた。
「確かに強引な所はあるな。我が強いし自分の意見を通したがる所もある。だが道理は弁えているし話が通じない訳でも無い。納得できれば付き合うし納得できなければ受け入れない。それだけだ」
「それが言えるのは兄さんだけだよ………」
妹達に取って長女のリンファは王者なのかもしれない。
ぼそりとリンコが呟いた。
「……これでも可愛い所も多い。お前達に弱い所など見せるまいよ。守らなければと思って来たはずだ。そうして張った気を俺の前では緩めるという事なのだろう。……自分の前でだけ弱い姿を見せる。そういうのは悪くない」
女達がほぉと頷き、ハンケンはうんうんと頷いた。
シンカの視界は酔いで滲み、口も大分軽くなっていた。
真っ直ぐ歩く事は出来ないだろう。
「成る程、顔とか身体とかじゃ無いの?」
リンカが尋ねる。既に大分失礼な領域に入っていたが、シンカは気付かなかった。
「馬鹿だな、お前達は。好きな女の顔や身体を好きになるのだろうが。………駄目だ、頭が痛い……もう無理だ。ヴィー、帰ろう」
シンカは両肩にリンファとナウラを担ぎカヤテを起こすとふらつきながらリンレイ家から去った。
楽しい宴だった。
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近々既投稿内容を分割して1話あたりの文章量を落とそうと考えています。
話数が著しく増えていても内容が変わるわけでは御座いません。
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