糸を手繰る
自宅では居間卓でナウラが薬を調合していた。
帰宅したシンカを見とめて梟のように首だけこちらに向ける。
「遅か……何があったのですか?」
ナウラはシンカの顔を見て直ぐに何かに気が付いた様だった。
「……すまん。少し1人にさせて欲しい」
何時もと様子の違うシンカを見てカヤテも眉をひそませた。
近寄るヴィダードとナウラを両腕で強く抱きしめる。
何も変わりない。
変わらず愛しく感じる。
「蚰蜒眉女の匂いがするわぁ」
ヴィダードはちょっと嬉しそうにしながらも限界まで目を見開きシンカを見つめるという器用な芸当をしてのけた。
「………」
ナウラは何も語らない。
兎角自分がどの様な選択をするべきなのか、それを考えなくてはならない。
自分の分の夕餉は不要だと告げて部屋へ篭った。
閂をかけると暫くヴィダードがかりかり扉を引っ掻く音が聞こえていたが暫くして誰かが居間に引きずっていき、静かになった。
自分の気持ちを考える。
確かにリンファを自分の手の内に取り戻せると言うのなら。それは望外の喜びだと感じられた。
況してや誰のものともならず、自分を待っていたという事なら憐憫の情すらも湧いてくる。
リンレイ一家の皆もそれを望んでいる。
だが一方で離れていた期間が長すぎ元の鞘に収まるとしてもどうすれば良いのかが分からなかった。
そして一番大切な要素として、シンカには既に4人も心を繋いだ伴侶がいるという事実がある。
彼女らを疎かにする事はあり得ない。
リンファは5人目でいいのだという。
だが彼女達が殆ど初対面のリンファを受け入れるかといえば中々難しいだろう。
いや、受け入れる受け入れないの問題ではない。
不誠実極まり無い選択なのだ。
延々と悩む内、気付けば夜も更けていた。
部屋に明かりはなく、今夜は月光も無い。
それに気付いてもシンカは寝台にかけたまま身動ぎ一つせずに額に手を当て、時折苦悩に呻きをあげた。
全てを投げ捨て、1人旅立てばどれ程楽かとも考える。
だがそうはいかない。それが結婚をするという事だ。シンカは所帯を持つのだ。
扉が2度叩かれた。
柔らかい土の様な良い香りを嗅ぎ取れる。ナウラの匂いだった。
「シンカ。開けてください。開けないのなら叩き割ります」
扉の向こうからくぐもった声が聞こえた。
立ち上がり扉に向かう。
窓に張り付いて吊り布の隙間から様子を窺うヴィダードには気付かなかった事にして閂を開けた。
軽食を榎の盆に乗せナウラが立っている。
盆をシンカの胸元に差し出しながらナウラはシンカの部屋に押し入ってきた。
吊り布の隙間に縦に並ぶヴィダードの瞳をさっと隠し机に盆を置いた。
昔と比べナウラには遠慮が無くなった。
それはとても良い事だ。遠慮がないという事は相手がそれを許してくれると信じているという事だからだ。
「何を悩んでいるのか、私は敢えて聞きません。どうせシンカは数日待てば話してくれるでしょうから。ですから今のうちに答えておきます。答えは是です」
何も聞かずに答えなど出すべきではない。
シンカはそう口に出そうとしたが、ナウラは手振りでシンカが話すのを止めた。
「私達に害となる事をシンカが悩む筈が有りません。その様なものすぐに断るでしょう。私達は貴方に付いて行く。そう言っているではありませんか」
「しかしな」
「喧しいですね。……そう言えば、前にこの様に悩んでいたのは戦争に行く前でしたか」
ナウラはシンカに座る様に促し自身も隣に腰掛けた。
ナウラが持ち込んだ長灯石の灯りが2人を照らし大きな影を作っている。
「シンカはしたい事をすれば良い。そこに私達が共にいる余地があるのなら共にしましょう。確と考えて下さるのはとても嬉しいですが健康を損なう様な悩み方は不必要です」
ナウラはシンカの頬を両手で挟むと唇を重ねた。
「では、食事を取ってください」
ナウラは後ろ手に扉を閉めて出て行った。
シンカは溜息を吐く。
女性は強い。矢張り敵わない。
全て見通して諭してくれたのだろう。
ナウラは今年漸く20になった。そんな1番若い彼女が包み込む様に支えてくれる様を何処か可笑しく感じてしまった。
だがけじめは付けなければならない。
彼女達に許可を求めては駄目だ。それは人に責任をなすりつける行為だ。
責任は全て自分が持たなければならない。
自分の行動は全て自分で責任を取り、自分で決断するのだ。
許可を取るのではなく、赦しを得るのがシンカの成すべき事だ。
翌朝シンカは1番に目を覚まし、シンカの部屋の前で丸まって眠るヴィダードを抱えて自分の寝台に寝かせ、朝食を作り始めた。
赤茄子の汁物と麺麭を半寸の厚さに切り焼く。
初めに起きてきたのはカヤテだった。
「おはよう。もう大丈夫なのか?旦那様よ」
「うん。まあ、これからだな」
カヤテとお互いの頬に口付けをし合う。
「夜中に厠に行ったらヴィーが其方の部屋の前で寝ていたぞ?起こしても無駄だと思い起こさなかったが」
食事を人数分よそいヴィダードを起こしに向かう。
カヤテはナウラを起こしに向かった。
ヴィダードの頭髪に指を差し入れて小振りな頭をゆっくり撫でた。
彼女はシンカの態度に何を思ったのだろう。
置いて行かれるとでも思ったのだろうか?
そんな訳は無いのに。
頭を撫でながらそんな事をシンカは考えていた。
人と人の関係は難しい。
改めてシンカは思った。
彼女達も不誠実な行いを繰り返していれば、いつかは心離れていくかもしれないのだ。
かっと目を見開いたヴィダードがシンカの首に腕を巻き付け、足は身体を挟み込む。シンカに下からしがみ付くと僅か一寸の距離から瞳を見つめてくる。
「離れなさい」
引き剥がそうとするが外れない。
諦めたシンカは幼子を抱く様にそのまま居間に戻った。
食卓に座り待っていたユタが大きな欠伸を一つする。
カヤテはヴィダードの様を見て片眉を上げるがそれ以外の反応はしなかった。
ナウラはいつもの澄まし顔で汁物に肉が入っているかを掻き混ぜて探している。
食事を終えて一息つく。茶を淹れて皆に振る舞うと満を持してシンカは口を開いた。
虚飾はしない。
「リンファを5人目の妻として迎えたいと思う。お前達に許可を貰いたい」
単刀直入に結論を述べた。
反応は其々だった。
ユタはなんの反応もせず茶に息を吹きかけて冷ましていた。
カヤテはふむ、と短く声を発して足を組み替える。
ナウラはわずかに口角をひくつかせた。
問題のヴィダードは目をカッと見開き歯軋りをした。
「………僕は何も言う権利は無いな……。リンファは僕より強いからね」
価値基準は常軌を逸しているが、ユタの思考は納得出来た。理解はできないが。
自分より戦闘力が高い者には従う必要があると考えているのだろう。
「ナウラは昨日俺の選択を是とすると言ってくれたな。感謝する。あれで決心する事が出来た」
「は……い。それは。はい」
余計な事を、と言うふうにヴィダードがナウラを睨み付けた。
カヤテが無言でナウラの肩をねぎらう様に叩いた。
ナウラはその手を暫し無言で見つめた。
シンカはその様子に疑問を持ったが今は残る2人の考えを確認しなければならない。
「カヤテ。いいだろうか?」
シンカはカヤテに尋ねた。
「良いも悪いも決めたのだろう?思う所は有るが、反対しても仕方ない。ただ、其方の事を振ったのだろう?いいのか?」
「実はな?聞いて欲しいのだが、俺を振ったのは嘘だったらしいのだ。色々理由は聞いたのだが良く分からん」
「嘘……?」
「別の男が好きになったと言われて振られたのだが、翌日には其れは嘘だったと告げるつもりだったらしい。俺は打ちのめされて翌日には里を出てしまったのだが、以来11年俺の帰りを待っていたらしい。嘘では無いことは分かるが、理解できん」
カヤテはふんふんと頷いて口を開く。
「其れは……あれだな!駆け引きという奴だ。以前シャーニが同じ失敗をしていた。男が自分に気持ちがある事を確かめたのだ」
「俺の気持ちは当時リンファに有った。他の女と不用意に会う事も避けていたし気持ちを伝える事も疎かにしたことはなかった」
「ふむ。まあ、其方ならそうするだろうな。だが理屈では無いのだ。悪気は無かった筈だ。嫉妬深い女という事だな」
カヤテは溜息をつきじとりとした目でシンカを見た。
嫉妬深い女という言葉を聞きヴィダードを見遣る。
瞬きせずによく目を開け続けられるものだと変な所で感心した。
「……アラもイゴールにおんなじ事してた。イゴールが縋って来て可愛いって言ってたよ?」
アラとイゴールが誰かは知らないが珍しいことでは無いのだろうか?という気分になってくる。
「でも11年は凄いね。そんなに待てる人って少ないと思うな」
「私は待てるわぁ!」
「何を言いますか。待てていれば今頃ヴィーは砂漠を彷徨っていた可能性もありますよ」
3人の会話を聞きながら思案する。
「ヴィー。来てくれ」
隠す事なく怒り狂っているヴィダードを手招きする。
狂気とも言える怒りはそのままにヴィダードはシンカの膝に向かい合う形で腰掛けた。
「迷惑をかけるな」
「………蚰蜒眉は貴方様の事を自分から手離すと話したのでしょお?一度捨てたものをまた手に入れようなんて都合が良すぎるわぁ」
白目を血走らせつつあるヴィダードの背に手を当てあやす。
「そうかも知れん。それでも俺は彼奴と再び縁を結びたいと思ってしまった。此れは最早彼奴がどう望んだという話ではなく、俺の問題なのだ」
「ヴィーは貴方様を不要などとは死んでも言わないわぁ。だってそうでしょぉ?貴方様が居なくなるくらいならヴィーが死ぬからぁ。自分に困る事を自分で言う筈ないでしょぉ?」
ヴィダードの述べる事は正しい。シンカですらリンファに対して同じ様に考えている。
「彼奴には復縁が適わぬなら確と言えと、そう言われている。俺は彼奴ともう一度やり直したい。そしてそれはお前達に許して貰わねば叶わんのだ。だから、何度でも頼む」
「嫌。絶対に嫌よぉ」
ヴィダードは頑なに拒んだ。
カヤテとユタを迎えた時、ヴィダードは納得をしてくれた。
リンファとの違いを考える。
ヴィダードはリンファが一度シンカを傷付けた事で、彼女をシンカの伴侶、御導き相手として認められないのだろう。
お導き相手なら仕方なく我慢もするが、リンファは其れには値しない。
そう言う事なのだろう。
「頼む」
ヴィダードに向けて、だが彼女だけでは無く残る3人にも改めて頭を下げた。
自分の頭程度では本来なら許すはずも無い。
ヴィダードは首を振り拒絶する。
「ヴィー。其方の気持ちも分かるが、自分の亭主が本気で頭を下げているのだぞ。余り無下にするべきでは無い。シンカは易々と人に頭を下げる男では無い」
「でも!」
カヤテが諭そうとするがそれでも頑なに拒絶した。
ナウラはその様子を黙って見遣っている。
ユタは自分にはなにかを言う権利は無いと思っているのか赤茄子の汁物を注ぎ足し飲み始めている。
ナウラが、ヴィダードが、カヤテがと、そう誰かを引き合いに出すつもりはない。
最終的にヴィダードが飲み込めなければ、シンカはリンファを諦めるしかないだろう。
だがヴィダードの所為でと言うつもりはない。
ヴィダードを捨ててリンファを選ばないのであれば、それもシンカの選択なのだ。
「ヴィー。頼む」
シンカが下げる頭をヴィダードは必死で持ち上げようとする。シンカはそれに抗い頭を下げ続けた。それしかできる事はない。
そう思っていた。
ふと、何故自分はこんな事をしているのだろうかとシンカは考えた。
5人の妻を迎え、沢山の子供に囲まれ、父の様に暮らす。
里を出て数年してそんな夢を持つに至った。
そしてそう思うに至ったそもそもの原因の女を迎えるべくこうして頭を下げている。それは不思議な感覚だった。
「この選択がお前達を少なからず傷付けるであろう事は分かっていた。分かっていて尚、俺はこの選択をした。俺は我儘な人間だ。お前達も、そして嘗て失った筈の女も全て欲しかった。………ずっと、苦しかった。自分は劣っている。だから恋人に切られた。そう考えていた。乗り換えた先の男に俺は劣っている。その事実に苦しんできた。そんな時にお前達と出会ったのだ。お前達はそんな俺が良いと言い何処までも付いてきてくれた。そこから少しづつ、己への自信を回復することが出来た。これで俺は全てを取り返せる。嘗て負った傷を漸く完治させられる。これはリンファの為だけの選択では無いのだ」
汁を啜っていたユタが器を置いた。
その木と木が触れ合う小さな音が聞こえた。
「……成る程ね。シンカ、里に帰りたく無いんだなって、僕ずっと思ってた。シンカはすっごく傷ついてたんだね」
ぼそぼそとユタは話す。
「僕みたいに相手を憎めたら、きっともっと違う気持ちなのかもね。でも分かるよ?僕は次に進む為にどうしても彼奴らを殺さなくちゃ駄目だった。シンカはこうしないと進めないんだね。………ねぇヴィー。このままだとシンカは自分の故郷にいたく無くなっちゃうと思うよ?僕でさえ故郷に帰りたくないなんて思わないのに。ヴィーだって最初はシンカの事殺そうとしてたんでしょ?カヤテだってシンカを手駒にして戦争に使おうとしてたみたいだし、僕だって復讐の為に利用してた。人の事言っちゃ駄目だよ……」
「ぐうっ!?」
思わぬ攻撃だったのかカヤテが唸った。
「ヴィー。普通の人は自分を殺そうとしてきた人の事は好きにならないんだよ?シンカが優しいからヴィーはシンカのお嫁さんになれるんだよ?……その優しさが他の人に向く事を怒っちゃ、駄目だと思うな」
「……………」
ヴィダードが押し黙った。
「その理屈で言えば私は抗っても良いわけですね?」
今まで黙っていたナウラが口を開いた。
「ナウラ。今僕、真面目な話ししてるんだよ?巫山戯るのは止めて」
「………・」
気付けば全員がユタに制圧されていた。
「それにランジューの胡獱だって1番強い雄が100匹以上の雌を従えるんだから。シンカに5人なんて少な過ぎて不自然だよ」
ユタは到頭人間を逸脱した超野生的な理論を展開し始めた。
「……………でもぉ」
ヴィダードは最後に小さく漏らすと額をシンカの肩口に擦り付け始めた。
それを見てナウラがやれやれと無表情で首を振った。
この仕草だけは何度見ても苛立つ。表情が無いのがいけない。
「……はぁ。仕方がありませんね。ヴィーは私達の中では我儘な末妹ですから。………シンカ。ヴィーはもう頭では納得しています。こんな時間から何ですが、後は心を溶かしてあげて下さい。………構って貰えば満足するでしょう」
ナウラは何時もの無表情で親指を立てた。
この仕草は精霊の民が性行為を揶揄する卑猥な仕草だった。
そうして2人は部屋に篭った。
ねちねちと責められたヴィダードが許しを出したのは1半刻後の事であった。
こういう形での決着は望んでいなかった。酒や雰囲気で流してできる話ではない。そう考えていた。
しかし時には身体を合わせる事も必要という事なのだろう。
翌日の夕刻シンカはヤカを飛ばした。
5人で夕餉を取った後、自室の椅子に掛けて物思いに耽た。
特に意味もなくシンカの部屋にやって来て空丸と曲剣・三日月丸の手入れを始めたユタに声をかける。
「昨日は助かった。有り難う。お前にも迷惑をかける」
剣に油を塗っていたユタが惚けた表情で顔を上げた。
「……なに?僕なんかした?」
「説得を助けてくれただろう?」
「……うーん。別に思った事言っただけだよ。それに僕もみんなもシンカには沢山色んなもの貰ってるもん。シンカの珍しい我儘くらい聞いてあげないと。迷惑なんて思ってないよ?」
「お前はそうかもしれんがな。ヴィーもナウラも、俺などにお導きとやらが下った所為で不憫だ。同胞に導かれていれば一夫一妻で幸せになれた筈なのにな」
シンカの言葉を聞いてユタは眉を顰めた。
「それ、2人が聞いたら怒ると思うよ?絶対言っちゃ駄目。……でもお導きって不思議だね。シンカが2人に暴力振るっても2人はずっとシンカの事愛してるのかな?……流石に僕もカヤテも酷い事されたら付いていけないと思うけど……」
「分からんな。試してみる気も起きん」
窓の外は日が暮れていた。
紫色の空が群青色に変わり始めていた。
「では、迎えに行ってくる」
「うん。僕はリンファの事、賑やかで嫌いじゃないよ。カヤテは分からないけど、ナウラとヴィーはきっと時間掛かると思うな」
「だろうな」
ユタの頭をひと撫でしてシンカは部屋を出た。
居間ではナウラが1人で磨り減った編上げ靴の底を張り替えている。
足元で子狼のバラカが丸まって眠っている。
ちらと視線を合わせたナウラに手を上げて家を出た。
外は肌寒い。秋の夜に加えてここの標高はかなり高い。
夏でも汗をかくのは秋中月くらいのものだ。
橙色の灯りに照らされる階段を降りて長々と降りて里を歩く。
闇に沈んだ小川の畔を流れに沿って進み、森の中に入る。
所々で長灯石を手に里の者が冬籠りの支度をしている。
しかし川の側にも木立の側にも人は居ない。
木立の中に足を進めると枝葉に僅かな光も遮られ経を網膜に纏わり付かせて暗視を始める。
程無く長灯石の灯りが木立の中に見え出した。
森鶫を肩に乗せたリンファが一昨日会話した場所に佇んでいた。
リンファは随分とすっきりした顔付きだった。
シンカの姿を認めたヤカがリンファから飛び移って来る。
労う様にヤカの頬を親指と人差し指て挟み、耳孔辺りをかいてやった。
2人は暫く話す事もなく僅かに星明かりを照らす川面を見詰めていた。
リンファはまるで処刑を待つかの様に黙して語らなかった。
彼女はそんな性格ではなかった。
いつでもはっきりと感情を表し良し悪しを口に出す。
或いはその考え無しであった部分を恥じて成長したのかもしれなかった。
2人が今こうして言葉を紡ぎあえないのも考え無しに感情に流されて言葉を発した事が原因だ。
それは成長なのだろうか。良い所を失ったのか。シンカにはどちらか分からなかった。
「………俺は、矢張りお前の事が好きだ。また、やり直したいと思っている」
口に出した瞬間、横目に見えるリンファの顔がくしゃりと歪んだ。
「………断られるって………思ってた………」
泣いているリンファを見てもシンカは手を伸ばす事が出来なかった。
11年前なら声を掛けて肩を抱いたのだろう。涙を拭ってやり口付けをしただろう。
今のシンカはどうすれば良いか分からなかった。
「ごめんね、本当に。愛してる。あんたの事愛してる」
泣きながらリンファは何度もシンカに愛を囁いた。
確かに2人は11年という長い年月を体だけでなく心までも離して過ごして来た。
直ぐには元どおりにはならないだろう。
それでも2人が生きていて触れ合い声を掛け合う距離にいるのなら、何れは元に戻るのだろう。
シンカは恐る恐るリンファに手を伸ばし背中に手を回した。
リンファはすがりつく様に抱き返し、幼子の様に泣きじゃくった。
断られると思っていた。リンファはそう述べていた。
シンカがリンファの考えを読めなかった様に彼女もシンカの心の内など分からない。
世界には壊れない物など何一つない。どんなに親しくとも選択を誤ればそれらは砂で出来た城の様に崩れ落ちる。
だが崩れ落ちた砂がまだそこにあれば、また積み上げることはできる。
2人はそうして暫く抱き合っていた。
それは決して恋人がする甘い抱擁では無い。だが確かに互いへの愛情は残っていた。
随分と時間が経ち、気付けば水面には満月が照らされていた。
「直ぐに別れる前の様に戻るのは難しいが、少しづつ」
「……うん」
「帰る。お前も来い」
そう言ってリンファの頭を撫でた。
一度泣き止みかけていたリンファが再び啜り泣き始める。
無言で頷くのが肩越しの顎の動きで分かった。
身体を離し歩き出すがリンファは動かなかった。
どうすれば良いのか分からないのかもしれない。
小さな頃から姉だ何だと年上ぶってあれこれよく口を出してきたリンファだったが、その上下関係が変わってしまったのかもしれない。
或いは旅を続けてきたシンカが成長したのだろう。
リンファの手を引いた。
木立から出ると正面に聳える千穴壁を見上げる。
長灯石に所々照らされた崖は幻想的に見えた。
目の前にずっと掛かっていた薄膜が取り払われたかの如くその光景は鮮明に映った。シンカの中で何かが変わったのかもしれない。
生まれてから18まで毎日の様に見てきたこの光景に感慨を持つなど、自分も随分と年を経たものだと薄く笑った。
自分の転機がいつなのか、シンカは考えてみた。
親を無くしリンレイに引き取られ暖かい家庭で育つ事ができた。
修行し、経験を積み、リンファと恋人となった。
十指に選ばれ、リンファに振られ、里を出て彷徨った。
其処からはあまり良く無い日々だった。
放浪し時に村や町に居着き、恋人を作ったり商売女を抱いたり。
今から思えば随分と不毛な時間を過ごしていた。
そしてカヤテに出会った。
カヤテは物語などに登場する運命の女だ。
男の命運を捻じ曲げ破滅させる。
シンカでなければ疾うに死んでいただろう。
恐らく其処だ。其処を境にシンカは大切な者を得るに至り、到頭嘗ての恋人迄も取り戻したのだ。
シンカはしおらしいリンファを見遣る。
今は大人しいがその内息を吹き返し煩くなるだろう。
「ねえ。……大丈夫なの?」
抽象的に尋ねられる。
意図は直ぐに分かった。
「大変だった」
「………駄目ってこと?」
「一応納得はしてもらった。4人とも癖が強い。……お前も同じか。だが性根の悪い女と縁を結んだつもりは無い。後はお前に努力してもらうしか無い」
「気が重いわね」
リンファの立場からすればそうだろう。
「お前が余計な事をしなければ今頃2、3人子供を産ませて過ごしていたかもしれんな」
「……やめて。嫌味言わないでよ」
月光がげんなりした顔を浮かび上がらせている。
「だが俺が里を出ていなければカヤテもナウラもユタも死んでいただろう。お前にとっては複雑だろうが、これで良かったのだとも思っている」
「よくあんなに変わった女ばっかり集めたわよね?」
「だから、お前が言うな。しかし笑えるな。リンファがそれ程俺を好いていたとは。普通2、3年で別の相手を探すだろう?ちと重くないか?」
「そんなこと分かってるわよ。来年こそはきっと帰ってくる。誰かが連れて帰って来るって信じてたのよ。可愛いでしょ?」
シンカが茶化しているとリンファは少しづつ本来の調子を取り戻していった。
「特にそうは思わなんだ。そう言う根拠の無い物事を当てにしたり自身に跳ね返る不用意な発言をする者のことを馬鹿と言うのだ」
「……あーあ。昔は可愛い弟分だったのに立場が逆転しちゃった」
「それは幻想だ。俺がお前の尻拭いをして来た事実を捻じ曲げるな。たとえば長老の家の前の柿の木に」
「ちょっと!そればれたら不味いやつでしょ!?こんな所で話さないでよ!」
長老の家の前に今や柿の木は無い。そう言うことだ。
リンファは周囲の様子を暫く伺っていた。
「お前は歳上ぶっているが、幼い頃から俺に迷惑ばかりかけて来て、この歳になっても俺の世話になるわけだからな。俺が死ぬまではまた尻拭いをしてやると言っているんだ」
リンファは不思議なものでも見るかの様な顔付きで暫く無言でいた。
「………本当、あんたって。なんか褒めるのも癪だけど、男らしいわ。………本当」
軈て崖に刻まれた階段を登りきり家に辿り着いた。
リンファは身体を緊張させていた。
「あんたの家に入るのがこんなに緊張するなんてね。昔は此処で……」
2人が恋人同士だった時、人気の絶えないリンレイの家を避け、この家で逢瀬を重ねていたものだ。
シンカはそのまま扉を開けて家に踏み入った。
玄関から僅かに見える居間の卓にカヤテが突っ伏して眠っていた。
それをナウラが見下ろしている。
「何をしている?」
「目の細かい眠り粉を調合しました。さしもの赫兵も薬には勝てないという事です。気付かずに眠るとは修行が足りませんね」
そう言ってカヤテの髪を幼い女児がする両側頭部での三つ編みに加工し始めた。
「あのー、これから宜しくね?」
挨拶をしたリンファにナウラはぐるりと首だけで振り返る。
「ナウラです。此方こそ。お酒の席では是非、一度放り捨てたものを再び手にしたら5分の1しか得られなかった時の気分をお伺いしたいですね」
「凄い辛辣!」
シンカは遠慮のかけらもないナウラを褒めるべきか諌めるべきか少しばかり悩み、取り敢えず黒麦の蒸留酒を飲むことにした。
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