今ぞ心の闇も晴れぬる
陽の光の届かない地下の一角。石造りのそこは微量の地下水が滲み出る為か、ジメジメと湿り、窪みの水溜りに松明の灯りが乱反射していた。
ある程度の掃除は成されているのであろうが、こびり付いた糞尿や囚人の垢等の匂いが充満し鼻がひん曲がりそうな異臭で空間は満ちていた。
僅かな間隔で三度、男の絶叫が石造りの地下牢に響いた。
広大な地下牢の彼方此方で凶悪な犯罪者が歓声をあげた。
全身黒づくめの男が1人、迷いの無い足取りで地下牢を歩んで行く。
牢と牢の間の通路を足音無く歩む。
普段は通行する者に野次を飛ばす収監者達だったが、今回は誰1人として声をかける者はいない。
闖入者が濃密な死の気配を漂わせていたからだ。
犯罪者達は大なり小なり身の危険に対する危機管理能力を持ち得ている。
もしくは人の死に浸り、通常よりも身近に死を感じている。
だからこそ、この男に纏わりつく死の気配とそれよりも濃い血の匂いに押し黙っていた。
何処かで水滴が滴る音が反響する中、僅かな衣摺れの音と共に男は周囲を窺う事も道に迷う事もなく歩み続け、一つの牢の前に辿り着いた。
牢には見目麗しい黒髪の若い女が幽閉され、簡易寝台に浅く腰掛けていた。
薄汚れた牢の中、女の美しさや気高さは何一つとして損なわれていなかった。
「………久しぶりだな」
女が口を開いた。
耳に良く馴染むやや低い声音だった。
「……………」
「再会は嬉しいが、この様な形は望んでいなかった。私を見ないでくれ」
だが女の声は常の凛とし、溌剌とした物とは打って変わり深い諦念と悲哀が澱の様に沈んだ陰鬱な声だった。
「手紙を送ったであろう?迎えに来た」
男は一言告げた。
滑らかで艶のある声が地下牢に響いた。
女はぐっと声に詰まり、瞳を僅かに濡らした。
しかし態度には表さず全てを心の内に飲み込んだ。
「………それは、無駄足となったな。一族に迷惑は掛けられない」
「お前は国や一族の為に身を粉にし、挙句名誉のみならずその名と命を失う。これ以上失うものがあるのか?」
「………私は………」
「お前の罪が第一王子の捏造である事が知れた。だが、王が裁定を覆す事はない。罪の所在が明らかになろうともお前は失った名を取り戻す事は出来ないだろう。……十分、お前は苦しんだ。失うのはそこまででいいのでは無いか?」
「………?」
「お前が逃げてしまえば。誰も追う事はない。ミトリアーレは無実の罪でお前を失った事を終生恨み続けるだろう。国王はグレンデルの次期当主の恨みを買うことを望んではいない。国王は裁定を覆す事は出来ない。グレンデルもその上でお前を勘当し、名を奪った事実を覆す事は出来ない。だが、お前さえ逃げてしまえば、これ以上の恨みをグレンデルから買う必要は無くなるのだ」
「……私は」
「名も知れぬ、顔も、民族も、種族すらも判然としない何者かが処刑予定の罪人を連れて逃げる。国王は出来ればこの罪人を処刑したく無い」
「……私は、分からないんだ。何もかも失って。処刑された方が」
「それ以上言うな」
鋭く男が言葉を出す。
「俺から見れば、お前は充分過ぎる程家に尽くした。勿論主にもだ。もう、お前個人の幸せを求めてもいいのでは無いか?」
血濡れた男が幸せなどと言う言葉を使う様は何処か滑稽であった。
「………」
「何処か静かな所に行こう。共に旅をしよう。各地で短剣を集めて飾ろう」
男が落ち着いた声音で語りかけると、囚われの女は身体を丸めて額を膝に付けた。其の肩は小さく震えていた。
「………いいのかな」
「ミトリアーレを護り、グレンデーラを護り、ロボクを征し、最期に全ての汚名を被り引き受けた。誰が文句を言うものか。そんな者がいると言うなら俺が叩き潰してやる。現に此処まで来たでは無いか。文字通り、お前の敵を叩き潰しながら」
「お前はいつでも私の危機に駆け付けてくれるな」
「惚れたか?」
「いや。惚れ直した。本当に、いいのかな」
「お前の前に立ち塞がるなら王子も王も、青鈴軍やミトリアーレですら切り裂いてやろう」
「やめて。……でも、嬉しい。本当は辛かった。張り詰めて、1人で立とうと踏ん張って。少し疲れたから、寄りかからせて貰おうかな……」
「背負う事だって出来る」
女の表情は疲労と後ろめたさに沈んでいたが、その中には確かに、まだ見ぬ先を求める前向きな想いと、未だにくすんではいるものの確かな笑顔があった。
白い石甃に斑点のように血溜まりが広がっている。石甃の繋ぎ目の溝をゆっくりと赤黒い液体が這って伸びて行く。
素早く駆ける2人の人影に行く先を塞ごうとする甲冑の男達が次々と屠られていく。
その後方には100に及ぶ衛兵が集結し2人の後を追っていた。
一方で彼らの最後の障害となるケツァルの西門にも100程度の衛兵が武器を構えて待ち受けていた。
此処に来て200の武装兵士に囲まれる事となったのだ。
待ち受けていた門前の兵士が一斉に武器を構える。
「ケツァル兵の意地を見せろ!命に代えても此処を通すな!」
「ケツァルの門は未だ破られた事の無いクサビナの象徴だ!此処は絶対通さん!」
指揮官2名が気炎を上げて吠えた。
「流石に厳しいか?」
カヤテが駆けながら槍衾を作る前衛を睨む。
シンカは無言で経を練り始める。
練度の高い兵だ。赤鋼兵には劣るが近衛兵よりも全体的に腕が立つ事が構えや呼気、雰囲気に見て取れる。
「来るぞっ!撃て!」
矢が射られ弦がなる音が前方より無数に聞こえた。
立ち止まり土行で壁を作れば足が止まる。
ならば。
カヤテの前に躍り出て駆けながら両の掌を開き、頭上に掲げた。
シンカが扱う素手の武術に名はない。
身体を、経を武器として用いる体術である。
全ての武術の根幹であり、源流である。
或いは武器など通用しない魍魎に対して身体一つで抗するべく渡りの一族が編み出し、数千年に渡り研ぎ澄まして来た技術であった。
その武術の技の一つ、雨傘をシンカは行う。
掌に集中させた経は皮膚を、肉を、骨を硬化させる。
類稀なる動体視力により自分達に向かう矢を見切り、巧みに腕を動かし降り注ぐ矢を弾き始めた。
まるで傘に弾かれる雨粒のようにシンカとカヤテを目掛ける矢は撃ち落とされ、その足を緩めることすら出来なかった。
「な………!?……密集陣形で近寄らせるな!」
統率された兵達は盾を構え、その隙間から槍を突き出す毬栗の様な陣形を組み、その背後から矢を降らせる陣形を模った。
「シキミ様が来るまで持ち堪………」
指揮官が急に指示を止めた。
何事かと思い彼を見やった兵達は頭に矢を立て崩れ落ちる指揮官を目撃することとなった。
兵達が放った矢であった。
放たれた矢を握り掴み、投げ返したのだ。
指揮官の1人が死に戸惑う兵士達に向けてカヤテが右手を振った。
「秋霧!」
カヤテの体から吹き出た経が熱を持ち、火の粉を散らしながら兵士たちに吹き付けた。
「あ、あつっ?!」
「よ、鎧が!あつっ、熱い!」
人を焼くほどの熱は無い。だが鉄を熱し、火傷を負わせる程度の温度は持ち合わせていた。
盾や槍を取り落とし慌てふためく一団にシンカは突撃した。
技の精度を落とし殺傷ではなく戦闘不能にする事に重点を置く。
輪中、揺籠、雨傘。群がるケツァル兵に対し技を駆使し門への道を切り開こうとするが多勢に無勢で、大技の行法を使う余裕も与えられず、軈て勢いも止まってしまい、囲まれながらの立ち回りへと戦闘の形は移り変わった。
「そのまま囲んで押しつぶせ!」
「経を練る隙を与えるな!」
「見合うな!味方が倒されても怯むな!」
怒号を上げて押し寄せる兵士達を2人で捌く。
普段は賑やかなケツァルの一画が兵士の怒号、悲鳴、鎧の軋みで戦場と化している。
直径9尺程の円を保っていたが、時間の経過と共に徐々に範囲が狭まりつつある。
「これまでか……?」
「………」
どれ程闘い続けたか、激しく動き身体が軋み始めている。
流石に息も荒く、肩で息をし始めていた。
カヤテも徐々に技の切れが悪くなりつつある。
「いいぞ!後少しだ!押し切っ」
やや後方で指示を飛ばしていた2人目の指揮官が倒れた。
矢が飛来し、兜と鎧の隙間の首筋に突き立った。
周囲に弓を構えた人影は見えない。
飛来した角度にある建物は遠くの、6町も離れた宿屋の屋根だけである。
あれ程遠くから弓矢を射かけ、兜と鎧の隙間を狙い撃つ事などシンカ自身にすら出来ない芸当だ。
出来るとすれば………
鳥肌が立った。
6町先の高い屋根の上に、身を低くして弓を構える人影が見える。
「なんだっ!?どこから撃って、な、なんだ?何だお前は!?ぐ、あああっ?!」
門に近い位置にいた兵士の腕が宙を舞った。
「て、手練れだっ!鈴剣流剣士だぞ!」
続いて岩が砕かれる音が聞こえる。
門の上部から舞い降りた人影が無骨な斧を門の白い壁に振るい、斧の柄を足場に息を大きく吸い込んだ。
右手が振られ、外套の頭巾に隠れた口部から激しい火炎が吹き出された。
放射される火炎に焼かれ、ケツァル兵士達の絶叫と、焼かれ地に転がり踠く音が騒々しく響いた。
「どういう事だ?味方か?あの斧は……」
危険だから付いて来るなとあれ程念を押したのに。
知らず目尻から流れる涙をシンカは感じていた。
熱い。
肺腑か心臓か、或いは鳩尾なのか。
何か熱いものが腹の底から湧き上がる。
感情が高ぶり気持ちが込み上げ、呼気が乱れた。
ぼんやりとこの高まりが、込み上げるものが一体何なのかを考えた。
熱いものと一緒に経が丹田からこみ上げて来る。
肌が粟立ったまま治らず、身体の中で経が荒れ狂っているのを感じる。
経は気力だ。気とは気持ちであり意思だ。
「おおおおおおおおおおおあああっ!!」
全身を経が薄く覆う。
包囲網の一瞬の緩みを見逃さず身体に雷を纏った。
「寄越せ!」
突き出された槍を掴むと雷が流れた兵士は痙攣して絶命する。
奪い取った槍を担ぎ狙いを定める。
「私も、まだ終わらないぞ!」
カヤテの持つ剣に炎が纏わりつく。
「炎剣だ!炎剣だぞ!」
「赫兵だ!倒せるのか?!」
カヤテの背を弓で狙っていた兵の眉間に矢が突き立つ。
6町先の屋根の上、棚引く頭巾の下から白く鋭利な顎が見えている。
門前で人影が舞い上がる。頭を下にして宙を舞い、適切に急所を突く。
鈴剣流の奥義だ。
斧の上に乗り火炎を吐いていた人影の頭巾が煽られ目が合った。
情け無い。
守らなければならない相手に守られて、自尊心の為に危険に晒している。
挙句、今自分は諦めようとしていた?
200人の兵士が何だ。
紫雷が纏わり付いた槍を投げた。
春槍流 落雷。
放たれた槍は前方の兵士を薙ぎ払い深々と白亜の門に突き立ち周囲に罅を入れた。
ぽっかりと穿たれた兵士達の隙間に滑り込むと、斧を引き抜き降り立ったナウラが罅割れた門扉に振るった。
1000年に渡って硬く王国を閉ざしてきた白亜の石門が打ち砕かれて大きな崩落音と共に崩れ落ちた。
「………門が」
兵士達は唖然と崩れた門の残骸を見つめていた。
そこへ兵士達を掻き分けて人が2人現れた。
1人は30代、波打つ赤毛に白い肌、琥珀色の瞳。
ファブニル一族だろう。
もう1人は20代後半、刈り上げた黒髪に白い肌、花萌葱の瞳。グレンデル一族だ。
「罪人カヤテ」
長髪のファブニル一族の男が口を開く。
「シキミ……」
刈り上げがシキミと言うらしい。
「王国に弓引く行為。所詮はグレンデルか」
「………ザミア殿。彼女は既にグレンデルの名を剥奪されている。我等はカヤテを王国に引き渡している。脱獄に我等が関与していないのは明らか」
「そこの男はグレンデルの手の者なのだろう?」
「……瞳を見ろ。茶色だ。我等の血族では無い。それよりカヤテ。この男の言う通り、お前の行為でグレンデルの立場は危うくなるだろう。大人しく縄につけ」
醜い。
余りにも醜い。
「ねえ。斬ってもいい?」
ユタがシンカの耳元に囁いた。
大人しくする様にと肩を叩いた。
「………私は、もうグレンデルでは無い……その名は剥奪された。知っているだろう?」
「ならばただの人斬りと言うことだ。斬り捨ててくれる」
剣を抜いたシキミをザミアが止めた。
「シキミ。口封じをする気か?説得をするのだ。大人しくしていろ」
シキミ グレンデルは舌打ちをして一歩下がった。
「下らない罪状を幾つも並べ立てていたが、彼女は無実だ。そんな事など王宮にいた汝等なら分かっていた事だろう?身内を庇う事もせず。女1人を犠牲にして何が一族か。名高いグレンデル一族も地に堕ちたものだ」
「………」
シキミは自覚があるのか押し黙った。
そっと、シンカの右手が握られた。
豆が潰れて硬くなった剣士の手だ。忠誠と努力の手だ。
全てを捨てて此処まで来た。そんな彼女の行く先が尽くしていた一族に使い潰されるだけなどあって良い事では無い。
「グレンデルがカヤテを不要と言うのなら、彼女は俺が貰い受ける」
「………彼女には、王宮の兵を殺めた責任を取ってもらう」
「それをやったのは俺だ。俺を。俺を捕らえて見せよ!此れまで充分すぎる程に尽くして来た女に全ての責を負わせずに!汝等に睾丸が付いているなら!女の1人守ってみせろ!………ああ、汝等には出来なかったのだったな。だから俺が救う事にしたのだった」
怒りに、興奮に手が足が震えた。
気を抜けば意識を失いそうな程頭に血が登っている。
「っ」
シキミが剣を構えた。
「では、お前を打ち倒し王宮襲撃の責を取らせよう。恐らくカヤテは身分の剥奪の上流刑となり命は長らえるだろう。だが、そんな事はどうでもいい。我らを侮辱した貴様を俺は許せん。倒し、正体を暴いてくれる!」
「下らん。何が一族か。女を守れぬ者共に繁栄は無い。まあいい。お陰で俺は好いた女を求められるのだからな。汝を倒しこの娘を貰い受ける」
槍を拾い、構えた。
言い訳はさせない。完膚無きまでに打ち砕く。
カヤテを見やった。
シンカをじっと見つめていた。
何を考えているのだろう。
体温が高い。興奮をしている。
脈拍もだ。戦闘によるものとは別だ。
いや、よそう。後で聞けば良いのだ。
意識をシキミ グレンデルに向ける。
僅かに足が震えている。興奮によるものだろう。
彼にとって自分は何か。
一族を危機に陥れる厄災か。
様々な思惑があり、様々な動機によって此処まで状況が悪化した。
それをこの黒づくめと共に持ち去り、全てを焼き捨てる。それがシンカの計画であった。
彼等にとって大切な物は個人では無い。
その価値観を覆す事はできない。彼等にとってはそれが唯一の正義なのだ。
土地と武と名誉。
金も地位も不要だが、脈々と受け継がれて来たグレンデル一族と言う名を最も尊ぶ。
シンカの価値観と合わないからといって責める事は本当はできないのだ。
だがカヤテやダフネ、シャーニ、ウルクが活躍し、次期当主がミトリアーレである様に、女性を尊重して来たからこそ彼等の繁栄があるのでは無いかとシンカには思えてならない。
いや、よそう。
思い直してシンカは槍を構えた。
「千剣仁位・シキミ グレンデル」
「流派、階位、名は名乗れんが」
じり、と靴が石甃を踏み躙る音。緊迫感を孕んでいる様に聞こえる。
「雷光っ」
八相から右足を送りながらの奥義。
グレンデル一族らしい先手必勝の心構えである。
しかし放たれる直前のそれをシンカは槍の穂先を腕の軌道に合わせる事により封じる。
自身が千剣流の奥義を扱えるからこその立ち回りである。
そもそも、奥義とは一体何なのか。
人はそれを追求し続けている。
雷光石火という技がある。
目にも留まらぬ豪速で剣を振り対象を断ち割る。
生半可な防御は通用せず全てを叩き斬る。
では何故このような芸当が可能なのか?
全ての流派、全ての奥義に当てはまる事だがこれは決して特別な芸当では無い。
超常的な現象でも経のなせる技でも無い。
人が出し得る最大の力がある。
しかし普段は無意識に力を抑制し、最大の力を出す事が出来ていない。
奥義とはその力を引き出した結果をいう。
人間が出し得る最大限の力を発揮するための手脚や重心、体勢、足運び。
それら全てを辿る事により発揮される体術に名を付けたものが奥義である。
人間は限界を発揮する方法を奥義という形でしか知らないというだけのことだ。
剣の振り方、手足の動かし方を訓練するのでは限界が見えている。
本当は体の動かし方、使い方を学べばその技は素手であっても、流派の型を辿らなくとも奥義と呼ばれる力を発揮する事は容易いのだ。
だからこそ。目に優れ人の体を知り尽くしたシンカにとって、人一人を相手取る事は児戯に同じだった。
シキミは動きを止められ一瞬の隙間を生じさせていた。
彼が再び構えを取った時には、シンカは既に距離を一歩詰めて槍をつぎ込んでいた。
「ぐ……………」
鳩尾に突き込んだ槍の柄は胸部鎧を陥没させシキミの呼吸を奪っていた。
返し刀で右手の剣を打ち払い武装を解除させた。
「ザミア ファブニル。この女は俺が引き取る。一族を追放された、無罪の憐れな女だ。いくらお前達が言葉を並べ立てて引き止めようと、この女は幸せにはなれない。俺が幸福を与えてみせる。国王にでも伝えよ」
「………カヤテ。………お前は、それで……いいのか?ミト様の、事は………いいのか?」
蹲り腹を抑えながら苦しい表情でシキミはカヤテに問うた。
カヤテは目を閉じてしばし考え込んでいたが、やがて顔を上げ口を開いた。
「ミト様の側にいつまでもお仕えしたい。その気持ちは今でも持っている。だがそれはもう叶わない。無理に戻っても迷惑をお掛けしてしまう」
「そこの男の、言う事は正しい。我々は、お前を………使い潰し、最後は切り捨て……たのだ。お前が個人の、自由を求めるなら……このまま此処を去るべきだろう。此処に、残らなければならぬ……義務は、お前には、もう、無い。だが、お前が勘当された一族のことを、思うのならば………大人しく縄につくべきだろう。お前が脱獄した、事により……我らに降りかかる火の粉の、事を………考えれば」
「………ミト様」
「次期当主に普及する影響も図りしれんだろう。カヤテ。お前は自分を育てた一族を………ん?」
ザミアの言葉の途中1人の兵士が駆けてくる。
手には書状を携えていた。
「ザミア様!」
「なんだ。何事か」
「此方をお読みください!」
膝を突き書状を掲げた兵士からザミアはそれを受け取り目を通した。
「……ふむ。成る程」
書状を暫し見つめていたザミアだったが、懐にしまい込むと口を開いた。
「カヤテ。お前を捕らえる事は諦める。此処より早々に去るが良い。………だが狐面の男よ。お前を裁かぬ訳には行かぬ。お前は兵を殺しすぎた」
周囲の兵が武器を構え直した。
「カヤテ。先に行け」
敵の狙いはシンカだけだ。彼女らが此処に残る意味は無い。
「しかし!これ程の数!いくらお前でも!」
チリチリと虫の羽根が擦れるような音が耳に届く。
「此処からなるべく離れろ。あれらを呼ぶ」
「!先生、本気ですか!?」
反応したのはナウラだった。
「行け!」
叫ぶとナウラとユタが身を翻して駈け去った。
「お前が死ねば、私は幸せにはなれないぞ」
「そうは思わないが、しかし言葉には責任を持つ。行け」
カヤテは掛けて行った。
「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あっ」
声帯を絞り異音を発する。
「者共!掛かれ!」
ザミアの号令に兵士達が動き出す。
チリチリと言う音が大きくなる。
シンカの体に紫の雷が纏わりつく。
駆け寄る兵達を前に雷が身体から放出され、2丈程の半球を象った。
それに触れた兵士は痙攣して倒れ込み、焦げ付いた嫌な臭いを発した。
「周囲を囲め!長くは持たん。法が切れるのを待て!」
ザミアが離れた位置より指示を飛ばす。
地に横たわったシキミが引き摺られて後方に下げられていく。
「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」
「なんだ?気でも狂ったか?」
「気味が悪いぞ。どういうつもりだ?」
「行法か?聞いたこともないが……」
兵士達が警戒し、囲みを広げる。
「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」
「な、何をしている?貴様!?何を企んでいる!?」
「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」
ザミアがシンカを睨み付け、口角から唾を飛ばしながら叫んだ。
その時、シンカの足は微細な振動を感じ取った。
「シキミ グレンデル。俺はグレンデル一族を敬っていた。かつて肩を並べたかの一族の戦士達は勇猛で気高く、その末端兵士に至るまでも土地を愛し、街を愛し、仲間を愛し、家族を愛していた。だがお前や当主は家名だけを愛している。家族を、血族を守らず何を守ろうというのだ?俺には理解が出来ぬ。故に。守るべきは下らぬ利権ではないことを思い返すがいい。その大いなる自然の前に、真に守らなければならぬ物を思い出させてやる。感謝をしろ」
うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ
門の外よりシンカのものよりはるかに大きなく野太い鳴き声が聞こえて来た。
「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あっ」
シンカが喉を鳴らすと共に門の外より地響きが聞こえた。
シンカはひたりと壁に張り付く。
頭上を巨大な影が飛び越えていくのが目に付く。
地響きを立ててその巨体が王都の内部に侵入を果たした。
「も、魍魎?王都に魍魎だと!?」
「け、獣だ!魍魎が出たぞ!」
黒い巨体が5丈近い白亜の壁を乗り越えてその威容を顕にした。
黒箆鹿。
獣の中で五本の指に入る巨体を誇る魍魎である。
特に目につくのは独特な形の巨大な角で、片角だけで優に大人が3人寝ころぶことが出来る。体高は3丈、体長は4丈。好戦的な獣である。
シンカは彼らが仲間を呼ぶ時の声音を真似、呼び寄せたのだ。
東門から1番近い森まで約2里。黒箆鹿の生息区域までは5里もある。
だが、巨大で扁平な独特の角で彼等はそれ以上の距離の音を感知する。
そして強靭な脚で大地を駆け、強靭な角で樹々を薙ぎ倒し、体の倍近い壁を飛び越えてここまで現れたのだ。
「お、お、お前は……一体何者なのだ……」
ザミアが呟いた瞬間魍魎は雄叫びを上げて角を振るった。
兵士達はシンカの事などとうに忘れ、半狂乱で黒い魍魎に打ち掛かって行く。立ち上がったシキミが再び剣を構えて指揮を取り始める。
ザミアは魍魎の巨体を口をあんぐりと開けて見上げていた。
北の方角を見るとヴィダードが退避せずに此方を見ているのが見えた。
手信号で撤退を合図し、シンカも砕いた門を抜けてケツァルから撤退した。
背後では魍魎の咆哮と兵達の絶叫が聞こえる。
暫し走っていると後方にヴィダードが現れた。
南方に王都に向けて一直線に走る巨大な黒い塊が二つ見えた。どうやら3体もの黒箆鹿を呼び寄せる事に成功した様だ。
全ての罪はこの3体の獣が引き受けてくれるだろう。
生きる事は難しい。
ましてや森に囲まれ、強大な自然の力の狭間で生き延びねばならないのだから。
時には人同士で争い、殺さなければならない。
シンカに大切な人がいる様に、戦う相手にも大切な人がいる。
お互いに主張がある。
自分に都合の良い物を正とし、都合の悪い物から目を背ける事は悪ではない。
同時に自分の大切な物を守るために戦う事は善ではない。
シンカはそう考えている。
自分の中の正は相手にとっての正では無いのだから。
カヤテを助ける為に多くを殺した。
その事に後悔はしていない。
しかし、彼等の遺族がシンカの前に立ちふさがった時、シンカは語れる言葉を持たないだろう。
それが戦いであると考えている。
そして何よりも憎まねばならないのが、そうした個人の意思のぶつかり合いにより生じる戦いを、国や地域などの大きな区分に昇華させ、利権や誇りを巡り会う戦争である。
この世に悪霊がいると言うのなら、熱に浮かされ道徳を捨て、正義も善もなく暴力を払う彼処にこそ正にそれがいるのだとシンカは考えていた。
「貴方様?」
「うん?」
「何をお考えですか?」
「……いや、詮無い事だ」
「まさか、ヴィーの事を捨てるなんて、考えてはいませんよねぇ?」
振り返ると空恐ろしい未知の表情で半笑いを浮かべるヴィダードがいた。
「………」
「貴方様私はあの様な女知りません私の知らない女に貴方様は告白を許せない私は色物扱いなのにあの女はこんなきっと捨てられて人間に売られて知らない男の子を孕んでどこかの町の薄汚れた路地裏で病気を貰って身体が腐っていくのそうに違いないのそれでも私は貴方様を愛し続けるしかないのに貴方様はあの女と仲睦まじく子を作り幸せに過ごす許せない精霊の」
「煩い」
ごく軽く肩を叩く。
「お前にそう言う病的な一面があるから一歩引いてしまうのだろうが。俺は穏やかな心持ちで日々を送りたいのだから、お前も協力してくれないと、俺との関係は成り立たないだろうが」
「ひんっ」
「でもな。うん。やっぱりお前達には負けるよ。男は女には勝てない。だがそれでいいと思う。いつの世も女子供が喧しいくらいが平和の証という」
森が見えてくる。
先に向かった3人が待っているだろう。
「うん。ありがとう」
森歴194年春上月、クサビナ王国王都、ケツァルを魍魎3体が襲撃。ケツァル兵に甚大な被害が生じる。
鎮圧に当たった第1王子エメリックは魍魎を前にして逃亡。シキミ グレンデル指揮の元、辛くも討伐を行う。エメリックは臣民の信頼を失う。事態を重く見た国王は王子の継承権を剥奪する。
同年春中月、ロボク王国と内通しクサビナ王国の凋落を企んだとしてカヤテ・グレンデルが処刑される。公開処刑は行われていない。また同罪に関与した疑いがあるとしてザミア・ファブニルが紫財務官位を退き、流刑となる。
編纂されたクサビナ王国史書の記載内容である。
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