63 手招きドラゴン ②
縦に細長い瞳孔が向くのは、去り行く人間の後ろ姿。
手招きドラゴンは冒険者達の殿――最後のパーティから関心をそらせば、次にちょこんと現れた幼き者を視界に入れた。
突き出るドラゴンの顎。
その口は、馬程度なら簡単に食らいつけるサイズ感である。
ならば、眼下の幼女など噛み砕くまでもなくひと飲みできるというもの。
――鼻先にココアを見据えながら、ドラゴンは喉を鳴らす。
閉じ込める空気がゆっくりと漏れ出すような度合いでの重い唸り声。
威嚇のような重圧的なものではなかったにしろ、巨躯を目の前にそれをやられては身の毛もよだつというものだ。
もっとも世の中例外はつきもののようで……。
――ココアに至っては、動じる様子をうかがえそうにない。
それどころか、平然と見上げたたずむままで、ドラゴン相手に何か声をかける始末だ。
これは幼きゆえの感性からだろうか。
いいや、ココアの元来の性格もしくは危機感の無さとしたほうが妥当か。
ともあれ、結果的に救われている面もあったようだ。
ココアに対して、今は静観を決め込むドラゴン。
この状況が生まれたのは、その存在がこれまでの冒険者と異なるからだろう。
不可思議であるほど、警戒心も強くなるというもの。
くわえて、敵対的にも映らないはず……。
――とにもかくにも、ドラゴンから襲われずに済んでいるココアであった。
そんな幸運な幼女の背後へ、慌ただしい気配がぐんぐん迫る。
「うわああああー、うきゃああああー」
悲鳴なのかどうなのか。声音も高い雄叫びとともに、給仕服の少女が全力疾走だ。
ココアへ一目散のエリ。
さすれば、がしっと目的のもの――ココアを後ろから抱き抱える。
「きゃー、きゃー、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
間近で見るドラゴンの姿に戦慄を走らせてすぐ、エリはココアをかっさらうようにして脱兎のごとくである。
岩陰まで走りっきったエリの足が止まる。
「ぷはあ~。私の十六年の人生で、大一番の勝負だったよお……」
気の抜けた物言いにある勝負――”己を奮い立たせて、ドラゴンの前からココアを救う”には、打ち勝つことができたようだ。
そして、勝利者エリの腕の中で、
「どらごーん、ココアとお話してくれなかった……なんでだろう?」
ココアが子供らしい無邪気な感想を述べていた。
そのような少女らであったが、このまま”一息つく”というわけにもいかない。
――ドラゴンの脅威、そのすべてから逃れたわけではないからだ。
ちろり、のぞくようにしてエリが振り返る。
「う……。ドラゴンさんと目が合った気がする私です……」
ドラゴンは……じっとしたまま。動きはない。
ただし、先が霞むほど広い空間とはいえ、この脅威はここからさほど遠くもないところにある。
はたまた大きなドラゴンからすると、エリ達が避難したところまでかなり近い感覚なのではとも思える。
なので、焦燥感もたっぷりにエリが行動を起こす。
矛先は――大の字で寝転がるアレク。
「ねえ、ねえ、早く起きてっ。ねえっ、アレクってばっ」
――ゆさゆさ、ゆさゆさ。
ずっしり身体を両手で一生懸命揺さぶる。
願うように、助けを求めるように。
――ゆさゆさ、ゆさゆさ。ゆささささっ。
しっかり揺さぶった結果……のんきに膨らます鼻ちょうちんがパチンと割れたくらいなものだった。
「もう……。きっと、キノコを一度にいっぱい食べたから……うう~」
エリが泣きそうな顔で口元をへの字にする。
普段のアレクの寝起き具合はさておき、ここまで深い眠りならネムネム茸のおかげとしか考えられない。
「だったら……仕方がないよね。うん、仕方がないよ」
すく、とエリが立ち上がる。
それからアレクの腹部に跨ると、ぺたんと馬乗りになった。
「ごめんね、アレク」
すう、と上がった平手が急降下。
響きも良く『パシンっ』と頬が打たれる。
その衝撃はアレクが首の向きを変える……が、それでも。
「起きないね。ぽっぺたバチンされても、アレクはお眠なのだー」
ココアの言う通り、頬をほんのり赤くしてもアレクは目覚めない。
「これでも、起きてくれないんだね……。ほんと……どうしよう」
「――そうだった。エリのお姉ちゃん、エリのお姉ちゃん」
困り果てた様子のエリに、明るい声が差し向けられる。
「ココア、こういう時どうするか知ってる。チューだよ。起きないアレクはチューで目が覚めるのー」
「ふえ?」
濁す返事の向こうには、にひひーと微笑むココア。
『だから大丈夫!』と胸を張る態度――の理由は、エリにも思い当たる。
ただ、思い当たろうともそれはおとぎ話でのことだ。
大陸の有名な物語の一つに、ずっと眠ったままの王子が少女の口づけで目覚めるものがある。
おそらくそれを……。
「お話のことだから……私がアレクに……そんなことしても……」
じーと見つめたそこにあった口元。
一拍を置いて、エリがハッと気づく。
覆いかぶさるようにして上から眺める自分の顔とアレクの顔が、意図せず接近していたことに。
顔を赤らめたのは、この気づきが引き金のようだ。
「私、私はアレクなんかと絶対ちゅーなんてしないもんっ」
――パシン。
がばっと頭を上げたエリが、アレクの頬を遠慮なく平手打ち。
再びビンタをかます行為自体は謎だが、行動原理はいわゆる乙女の照れ隠し――だと思われる。
「エリのお姉ちゃん、チューしないの?」
「しないよ。しないしない」
――パシン、パシパシン。
物事を断る時や拒否を示す仕草で、立てた手をブンブン左右に振る場合がある。
それを思い起こすようなビンタは、返す手の甲も使った三連撃。
「心配しなくても、ちゅ、ちゅーなんてしなくてもっ、アレクはきっとこれで起きてくれるから、私は平気だから」
――パシパシパシパシンっ。
なかなか冷めない火照った頬の熱を振り払うようなそれは、一段と速さと器用さを増すようだ。
アレクからそむけたい眼差しをココアに向けつつも、往復ビンタが滞ることはない。
「だいたいアレクは、王子様でもなんでもないしね。そうだよね、ただのアレクだもんっ」
――パシパシパシパシパシパシパシパシっ
「くはっ。なんだ!? クサコが俺のブペペペペペペ――」
「はっ!?」
エリが短く声を発したのと同時だった。
パシパシパシパシパシパシ――と続いてたビンタがピタリと止む。
「良かったあ……アレクがやっと起きて、へ?」
エリの顔スレスレの位置には、アレクの太い指先。
手は中指弾装填済みの”デコぴん”の構え。
「ぎゃふんっ」
その威力を物語るように、エリは仰け反る頭ごと体を持って行かれる。
すなわち、アレクの上から退くようにして吹っ飛ぶのだった。
「お前が元からわけのわからんクサコだということは知っているが、あまりにもわけがわからんっ。さらには、メシを食っていたはずの俺が、なぜ地面に横たわっているのかもわからん」
アレクがむくりと起き上がり、のそりと立ち上がる。
「だが、まあ、それもいいだろう」
アレクは早々に、周りのエリとココア以外の気配に勘づく。
ぎろりとドラゴンのほうを見やる。
「ほうほう、なかなかに強そうな感じではないか」
しゅるるる……と腰のロングソードが抜かれた。
さすれば、別人のような勇ましい顔つき。
アレクの戦士たる凄みは、辺りをひりつかせた。
そして、エリにも容易く感じ取れたその雰囲気を、あちらも敏感に察したようだ。
――ズズズシン、ズズズシン……。
唸り声をひとつ上げれば、ドラゴンの四肢が歩みを始める。
徐々にではあるが、明らかにこちらへ向かって進んでくる。
「アレク」
エリが口にした名の戦士は、こう応える。
羽織るマントをひらり歩み出せば、悠々と待ち構えた。
いかにも当然のように――。
いかにもこちらが強者だといわんばかりに――。




