22 ある日のぱんだ亭 ③
「いつも大人しいのに、どうしたのかね」
「ヨーコさん、私ハナコとハナゾーの様子を見てきますね」
エリが店の納屋へ繋ぎ留めている馬達を気に掛けると、通り雨がすっと止むかのような急速さで、酒場の喧騒が収まった。
理由は分かりきっていた。
毛むくじゃらの大きな黒い塊が酒場の出入口の木柱を軋ませ強引に侵入してくるからだ。
思いもよらない光景に、酒場の誰もが息を呑み恐怖で身を硬くする。
まるで時間が静止しているかのような状況下で、ゆっくりとモンスターの全身がさらけ出されてゆく。
ずんぐりむっくり。
鋭い爪が生える四肢を床に着く丸まる姿であっても、その巨躯は優に人の高さを越えていた。
「ひっ……日暮れグマ」
誰がつぶやいたのかは定かでない。
だが、この上なく明白で正しい発言だった。
加えて、山林で生息する凶暴なモンスター日暮れグマが何故目の前に現れているのか。即座に理解できている者などいない。
しかし、異質だと気づく者は多いようだ。
カウンター奥の壁へ、華奢な体を押し付けていたエリとヨーコも”おかしさ”に気づいたようで怪訝な表情となる。
「あ、あの、ヨーコさん。なんだかあの日暮れグマ」
「そうさね、手足を引きずってこっちへ向かって来るわね」
酒場の客達を壁際へ追いやり、テーブルや椅子を倒しながらエリやヨーコへずりずり近づいて行く日暮れグマは、”歩いている”ではなく”動いている”と形容すべきだろう。
カウンターの前まで移動すれば、その下腹部の毛むくじゃらがモゾモゾと動きそこから戦士風の若い男が姿を現す。
「おいヨーコ。腹が減った。俺になんか食わせろ」
「……はあ。まったく、何から物申そうか悩んじまうよ」
ヨーコの安堵が混ざる溜息を他所に、アレクは担いでいた日暮れぐまを無造作に放る。
毛むくじゃらの大きな体が鈍い音を立て床へ横たわり、突起のある口と生気のない目を持つ獣の顔が天井を仰ぎ見た。
「そいつはなんだい。ウチにモンスターとの同伴はお断りなんてルールはないけどさ、そんなの連れて来られてもこっちは困りもんさね」
「俺もできればこんな邪魔臭いヤツを連れ回したくはない。しかし、ジジイ会の白髪爺がモンスターをやっつけた証がないと金を払えんと言うのでな。ぶっ倒した中で一番強そうなのを持って来たのだ」
「特徴のある爪なり毛皮を剥ぐなりして持ってくればいいだけだろうさ。アタイの方が間違ってるのかね……。会長さんも、まるまる一匹持って来られるとは思ってないだろうに」
「ジジイの好みなんぞ俺が知ったことか。それより早くメシを作れ。日暮れグマのヤツは次から次へと仲間を呼んで襲ってくるモンスターだったからな。夕方から何も食べてない俺の腹はぺこぺこなのだ」
「そんなに腹が減ってるなら、自分が担いでた日暮れグマの肉でも食べれば良かったんだよ」
「コイツらは駄目だ。試しにカジってみたが、とても不味かった」
「……あんた相手じゃ、下手な冗談も言えやしない」
ヨーコは肩を竦め、やれやれと左右へ首を振る。
「お願いだから、モンスターをかじるなんてのはもうおよしよ。あんたが腹壊すのは勝手だけどさ、アタイが変な物食べさせているなんて、ラティスから思われたかないからね」
「ぬおおおいこら、ヨーコっ。しれっと気持ち悪いヤツのことを話に持ち出してくるなっ」
がんっと、穴が空いてしまいそうな勢いで拳が叩きつけられたカウンターテーブル。
「相変わらずだね。ま、手紙が来たってだけでもしばらくここに寄りつかなくなるくらいだからね」
「ぬむっ」
「そういえばあの時は……ヤギ月だったかね? まだ寒い頃だっていうのに今と似たような格好で山に籠ってたんだから、ふふふ、筋金入りだよあんたのラティス嫌いは」
「そうかそうか。どうやらヨーコは店の風通しを良くしたいらしい。よかろうっ。俺が今すぐにでも暴れて――と、なんだ? これは」
トン、と葡萄酒が並々と注がれた木製のコップが置かれる。
「ちょいとからかいが過ぎたと思ってね。お詫びの酒さね。それと料理ができるまで口が寂しいだろうと思ってさ。待たしちゃって、すまないね」
「ほう。ヨーコにしてはなかなか気が利くではないか」
「今夜は酔い潰れてもらった方が都合がいい気がするからね。どんどん飲みな」
「……なるほど、そういうことか」
尖る白い歯を見せつけるようにアレクの口角が上がる。
「言っておくが、俺はヨーコごときの魂胆なんぞ既に読めているからな。大方俺の日暮れグマを狙っているのであろう。が、甘いな。ミンミン蜂のハチミツより甘い。たとえ酒樽だったとしても俺がこんな安い酒で酔い潰れるわけがなかろうがっ、だあはははは」
酒場中へ響く豪快な笑い声。
不快さを示す者がほとんどであったが、これが良き合図となった。
モンスターの脅威がないこととアレクが暴れそうにないことが分かれば、ぱんだ亭は普段の装いを取り戻そうと動き出す。
アレクが連れた日暮れグマの被害である散らばった酒や料理を、エリがペコペコと頭を下げながら片付ける。
客達は慣れた手つきで倒れたテーブルや椅子を起こす。腕力に自慢のある者が集まり、日暮れグマを酒場の端へと寄せる。
稀に見る傍若無人な戦士が贔屓とする酒場では、これらも日常の光景であった。
こうしてうら若き少女エリが働き始めて三巡目の水の日も、何事もなかったように団欒が始まり、いつものように騒がしくしながら夜を深めてゆくのである……が。
「ヨーコさん、いいんですか? アレクなんかにあんな高いお酒を出して。もったいないですよう」
「腹が膨れたら膨れたで自治会長さんのところに行くだろうし、それじゃあ日暮れグマが街中を徘徊してしまうから大騒ぎになるさね。なら、ここはアタイが一肌脱ごうじゃないかってね」
この日のぱんだ亭では、値が張る強い酒が多く振る舞われた。
その甲斐あってか。
日暮れグマが騒動を引き起こすこともなく夜が明けたのであった。
魔王辞典:「竜王、賢王、覇王」
大陸には魔王と呼ばれる三人の魔族の王がいる。
竜王、賢王、覇王は人間側が与えた称号である。