これからも
「……あの、ルシアン様」
なるべく見ないふりをしていたフローラだったが、これはさすがに看過できないとため息を吐く。
髪をくしけずっていた手を止めて振り返り、琥珀色の目を向けた。
「おっしゃりたいことがあるなら、どうぞ……」
出かける準備をしている彼女の背後でうろうろそわそわ百面相しつつとにかく行ったり来たりしていた男は、構われるとなぜかぐっと何かを飲み込むような顔になる。
「……何か問題でも?」
最近ようやく少しはまともに発声するようになってきた彼だが、喋り慣れないことには変わりないらしく、自分の声なのにどこか居心地悪そうにする。
フローラはもちろん、ずっと聞いていたいぐらいなのだが――今気にしたいのは彼の声より態度の方である。
「いえ、問題があるのはわたしではなく、ルシアン様のほ――」
「私は! 別に! あなたが出かけても! 気にするような心の狭い男ではないっ」
フローラの言葉に被せる勢いで魔法使いは言った。というか被るどころか中断させていた。
フローラは引きつった微笑みを浮かべつつ、この後の対応に迷う。
ざっくりと経緯を説明すると、イングリッドと話がしたいと手紙を送ったフローラに返事が返ってきて、その後少しやりとりをした結果、女二人で町に買い物に行くことになったのだ。
不安もありつつ、基本的には楽しみでそわそわと準備をしていたフローラだったが、ここで不穏なのがこのルシアンの動向である。
どうにもイングリッドと買い物に行くと決まった瞬間から、何かにつけて反応が渋い。
その割に家事をしているフローラの周りをうろつくし、(ディーヘン人の標準的価値観を持つフローラにとっては)意味もなく腰に手を回してみたりするし、意味もなくキスをする――のはその前から変わらなかった。
とにかく、とてつもなく何か言いたそうなのになぜか言わないという実に歯切れの悪い状況が続いているのだ。
フローラは元来大人しく引っ込み思案な性質である。故に、気になることがあっても基本的には何も言わずモヤモヤした思いを抱えつつ黙っていることが多い。
しかし魔法使いと生活して、ちょっとした事件があって、また魔法使いと暮らす事になってから、少しずつではあるが彼女の精神面も変わってきていた。
「フローラちゃん、いい? 同棲を長く続けるにはね、適度なガス抜きと定期的な自己主張が不可欠よ。男は基本的に自分に都合の悪いことは察しない生き物だから、言わなくてもわかって! は通らないわ。わかってほしいことは口で説明して、それがうまくいかなかったり、それでもわかってくれないなら無言の実力行使よ。こういうのはね、我慢しちゃ駄目よ! 生存は常に戦いよ! 大丈夫、生活全般と惚れた弱みを握ってるんだから勝てるわ! 魔法使い様相手なら楽勝よ!」
と力説したのは近所の主婦である。
ディーヘン人かつ内向的なフローラには大分ハードルの高いアドバイスだったが、一方で我慢するな、と言う点についてはフローラもかなり的確なコメントだと重く受け止めた。
居候の身だった時はなんだかんだルシアンが家主、フローラはいつ追い出されても文句の言えない身であったため、気になることがあってもこちらが言うのは失礼にあたるのでは、という気持ちが大きかった。
しかし、いざここにいてもいいのだ、という意識が自他共に根付いてくると、今までは適当な所で飲み込んでいたことが段々と飲み下せなくなってくる。
単純な話、今までは他人と言うことで遠慮していたお互いの生活ゾーンにお互いに踏み入る機会が出てきて、見えていなかった問題が浮かんできたという点もある。
たとえば、しっかり者のディーヘン人できれい好きなフローラにとって、ルシアンのやったことをそのまま放置していく性質は地味に許しがたい。
これはフローラが小間使いとして働いていて、ルシアンが元(ではなく今もだが)王子という立場のせいもあるだろうが、一度目についてしまうと意識から外せなくなってくる問題だ。
別にルシアンにフローラと同レベルに生活ができるようになってくれとは言わない。というか彼ができないからフローラの存在意義がある所もある。
けれどそれはそれとしても、やっぱり靴下は脱いだまま放置せずちゃんと洗濯籠に入れてほしいのがフローラなのである。
というかフローラの基準では脱いだものは洗い場に持っていくところまでがワンセットなので、家の中に落っこちているとちょっとこう……いくらルシアンがかっこいい男で好きな相手でも、どうなのかなと思ってしまう。
――と、言うようなことを。
たとえばセラに相談してみるだとか、勇気を出してルシアンに言ってみるだとか。
二人で暮らして行くとは、そういうことでもあるのだとフローラは学びつつある。
一方的ではない関係を互いに望むのなら、これは必要な手続きなのだ。
ちなみに靴下の一件については、完全にとは言えないものの努力している様子はうかがえるようになってきた。脱いだ後のものが籠に入ってるときとルシアンのマイルームに置き去りにされているとき、今のところ勝率はちょうど五割と言った所か。
もう二十年染みついてきた生活の癖なのだ、そう簡単には直らないだろうが、それでもまずフローラのために努力してくれている――そういうところが、この人を好きになってよかった、と彼女が思うポイントである。
ともかく。
フローラの方が今まで言わなかったことをちゃんと言葉に出すようになる一方、どうもルシアンは未だにフローラに何か遠慮しているところがあるというか、何か思っているだろうに口にしてくれないだろうな、という行動を示していることがある。今がまさにそうだ。
愛しているとか、そういうことは(石版トークもカウントするとそれこそ飽きるほど)惜しみなく言ってくれるのだが。フローラの自意識の低さを散々見てきたせいか、それとも育ちの良さのおかげで逆に人にそういうことをする機会が今までなかったのか。
少し悩んだ末、フローラは改めてちゃんと身体ごとルシアンに向き直り、すっと息を吸う。
「ルシアン様。お互いに、気になっていることがあったら、ちゃんと言った方がいいと思うのです。わたしに対して何か思う事があるなら、ちゃんと言ってくださった方がいいと思うのです。言ってくださった後で、わたしも落ち込んだり、もしかすると聞けないと思ってしまったりすることはあるかもしれませんが……言いたいことがあるのに言わないのは、なしにした方がいいと思うのです」
これはルシアンにもちょっとぐっさり刺さったようだった。緑色の目が動揺で揺れる。
「何かご不満があるのならおっしゃってください。イングリッドのことでしょう? それともわたしが気がつけていないだけで、他の事でしょうか。ちゃんと教えてください。もう、喋れるんですから」
フローラがじーっと答えを待っていると、彼は咳払いをしてから、実に居心地悪そうに言う。
「……仲の悪かった従姉妹と会うということについて、まず心配している」
「大丈夫です。ルシアン様もセラさんも、他の方々も協力してくださると言ってくださいました。それに、誰よりわたしがしたいと望んだ事です」
フローラが落ち着いて微笑を浮かべつつ返すと、魔法使いは首を振った。
「いや……違うんだ。そう答えると思った。私が気にしているのはそんなことじゃないんだ」
「では、ええと……なんでしょう?」
また、ルシアンは唇を噛みしめて飲み込むような表情になった。しかし今度はそのまま終わらず、えいやっと口を開いた。
「だって、私ともまだ二人で出かけていないのに! ずるいじゃないか! 二人で買い物に行くなんて!」
フローラの目が点になる。
しかしルシアンの顔は至って真剣そのものだった。
すると今度変化が訪れるのはフローラの方、顔にどんどん熱が集まっていくのがわかる。
「そっ……! それは、ええと……あの……」
――要するに。
この人はあれだ、ものすごく大真面目にデートに行きたいと主張していて、自分がそうする前に別の人間とフローラがそのような行動を取ることについて、嫉妬していたということになる。
今度こそコメントできない。
火を吹く勢いの顔で固まり、わなわな震えるフローラの前で、ルシアンがふてくされたようにそっぽを向き、頭を掻く。
「だから言いたくなかったんだ……ちょっとどうかと思うだろう。自分でも自覚がある。でも悔しいものは悔しいんだから、どうしようもないじゃないか」
言いたくなかったわりに態度ではバレバレだったとか。
まさかそんなことで機嫌を傾けられてるとは思わなかっただとか。
いろいろな思考がフローラの頭の中をぐるぐるするが、こんな風に場の空気が微妙になると逃げるようにどこかにいなくなってしまうルシアンの性質はよーく知っている。
出て行こうとする彼の背中に飛びつく形になったのは、ほぼ反射的だった。
大胆な突撃に、ルシアンの身体が跳ねてから固まる。
「……お土産、たくさん買ってきますし、」
いや別にそういうことは気にしてない、と口を開きかけたルシアンだったが、続く言葉に今度こそフリーズした。
「わたしも、お買い物、一緒に行きたいですから……今度ちゃんと、絶対に、行きましょう、ね……」
語尾にかけて消え入るようにしぼんでいく。しかしちゃんと最後まで全部ルシアンの耳に届いた。
彼はくるっとひっくり返って素早くフローラにキスの雨を降らせようかとも考えたが、存外彼女がしっかり背中にへばりついているのと、背中に感じる温もりが案外心地いいことに気がつくと余計な抵抗をやめる。
ローブにうりうりと顔を押しつけるようにするフローラと、そんな彼女の様子をうかがいながらぽんぽんとなだめるように腕を叩くルシアン。
彼らの日常は、このように時折波風立ちながらも、概ね平和に安泰に続いていく。
ちなみにおかげでイングリッドとの待ち合わせに遅刻する嵌めになるのだが。
なんだかんだ怒りつつ、ちゃんと許してくれる従姉妹なのだった。
これにて本作は一区切りとさせていただきます。
長い間お付き合いいただきありがとうございました!
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鳴田るな




