番外編⑤ 彼パーカー
引っ越してきて、まだそれほど経っていない頃。
苺依の荷物は、必要最低限しかなかった。
家具も、日用品も、少しずつ揃えている途中。
当然、服だってそうだった。
何着かは持ってきたものの、毎日着替えていればすぐに足りなくなる。
その日も、朝から洗濯をしていたのだが……。
「……乾いてない」
クローゼットを開けても、着られる服がほとんどない。
「どうしよう……」
苺依はしばらく考えた。
そして。
視線が、洗濯前のカゴへ向く。
そこにはTOMAの服がある。
「…………」
見てはいけない。
分かっている。
これはTOMAさんの服で。
勝手に服を借りるなんて、とんでもない。
ましてや相手は自分の推し。
そんな人の服を着るなんて……。
「……無理無理無理」
一度は視線を逸らした。
けれど、もう一度見る。
黒いパーカー。
シンプルなデザインで、少し大きめ。
「……一回だけ」
誰に言うでもなく、苺依は小さく呟いた。
「帰ってくる前に返せば……」
そっと手を伸ばす。
「……ごめんなさい」
誰もいない部屋で、なぜか謝りながら。
パーカーに手を伸ばした。
袖を通すと当然、ぶかぶかだった。
手がすっぽり隠れる。
裾も長くて、膝丈のワンピースのよう。
鏡を見る。
「…………」
顔が熱くなった。
(TOMAさんの服……)
「…………だめ」
これ以上着てたら死ぬ。
苺依は慌てて脱ごうとした。
そのときだった。
ガチャ……!
玄関のドアが開く音。
「ただいま」
「…………え」
苺依の動きが止まった。
聞き間違いじゃない。
TOMAさんの声だった。
「……嘘」
帰ってきた……!
こんな早く!
苺依の顔から、さっと血の気が引く。
「どうしよう……」
着替える時間なんてない。
「いちご?」
足音が近づいてくる。
「いるのか?」
ガラッ!
「…………!」
終わった。
「いちご?」
脱衣所の入り口から、TOMAが顔を覗かせる。
そして。
苺依と目が合った。
数秒の沈黙が流れる。
TOMAの視線が、苺依の顔から。
肩へ。
袖へ。
そして、パーカー全体へ。
ゆっくり下りていく。
「…………」
苺依は固まった。
TOMAも固まった。
「……なんで俺の服着てんの?」
「…………っ!」
それは、あまりにも正論だった。
「ち、違うんです!」
「何が?」
「これは、その……!」
苺依は慌てて袖を握る。
「たまたまです!」
「たまたま?」
「はい!」
「俺の服なのに?」
「…………」
詰んだ。
「……えっと」
「うん」
「……その」
TOMAは何も言わずに見ている。
苺依の顔がどんどん赤くなる。
「……ご、ごめんなさい……」
とうとう観念した。
「勝手に……借りました……」
声が小さくなる。
「今日、着る服がなくて……」
「……」
「引っ越してきたとき、あんまり服を持ってきてなくて……」
「……うん」
「だから……その……」
苺依は俯いた。
「一回だけなら……いいかなって……」
「……」
「すぐ返すつもりだったんです」
「……そう」
「ほんとに、ごめんなさい……」
耳まで真っ赤だった。
TOMAは黙って苺依を見る。
そして。
ふい、と顔を逸らした。
「……別に」
「え?」
「それくらい、いい」
「……いいんですか?」
「ああ」
TOMAは上着を脱ぎながら平然とした声で言う。
「そのまま着てれば」
「……え」
「今から着替える必要ないだろ」
「でも……」
「いいって。着とけ」
「…………」
苺依は驚いたようにTOMAを見る。
「……ありがとうございます」
「うん」
TOMAはそれだけ言う。
表情も、声も、いつも通り。
まるで何も気にしていないように。
だが。
苺依から見えない角度で。
TOMAの耳が、ほんの少し赤くなっていた。
(……やば)
冷静を装ってはいるが、本音を言うと動揺しまくっていた。
自分の服を着た苺依が顔を真っ赤にしていて……。
自分の服なのに、まるで別のものみたいに見えた。
正直。
めちゃくちゃ可愛かった。
でもそんなこと、絶対に言えるわけがない。
「……TOMAさん?」
「ん?」
「怒ってないですか?」
「そんなんで怒らねぇよ」
「よかった……」
苺依がほっとしたように笑う。
TOMAは誤魔化すように首を掻いた。
「あー……コーヒーでも飲むか?」
「はい。飲みたいです」
「ん、分かった」
いつも通り。
何もなかったみたいに。
コーヒーを淹れる。
苺依はその後ろ姿を見ながら、少しだけ首を傾げた。
「……?」
なんとなく。
いつもより、TOMAの耳が赤い気がする。
「TOMAさん」
「ん?」
「……顔、赤くないですか?」
「気のせいだろ」
即答だった。
「でも……」
「気のせい」
「……はい」
苺依が引き下がる。
TOMAは心の中で、盛大に息を吐いた。
(……危な)
そして、ふと振り返る。
そこにはやっぱり、自分のパーカーを着た苺依がいて。
大きすぎる袖から、小さな手だけが出ている。
「…………」
また見てしまった。
「TOMAさん?」
「……なんでもない」
慌てて目を逸らす。
(あぁ、クソッ…………可愛い)
ものすごく可愛い。
本音を隠しTOMAは、いつも通りの顔をしてコーヒーを差し出した。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
苺依がカップを受け取る。
そして、少し嬉しそうに笑う。
「……この服、暖かいし、いい匂いですね」
「……そう、か?」
「TOMAさんのだからかな。スンスン……」
「……」
「TOMAさんの匂いでいっぱいですね」
「っ……………」
(その言い方は…………ないだろ)
TOMAは何でもない顔でキッチンへ戻った。
「気に入ったなら、そのまま着てれば」
「いいんですか?」
「ああ」
「……ありがとうございます」
嬉しそうな苺依の声。
その姿を見ながら、TOMAは小さく息を吐いた。
そして誰にも聞こえないくらいの声で。
「……可愛いすぎんだろ」
呟いた。
Fin




