第九章 迷子と、コーヒーマシン
覇王を最も苦しめた敵は、強盗ではなかった。
コーヒーマシンの、洗浄手順だった。
強盗の一件から、数日が過ぎた。
店の灯りはすべて新しいものに替えられた。玄の起こした「停電」は、落雷による故障ということで処理された。真壁は何も問わなかった。ただ、玄の肩をぽんと叩いただけだった。あんたの事情は聞かない。その態度は変わらなかった。
その日、玄は新たな試練に挑んでいた。
コーヒーマシンの洗浄である。
淹れたての珈琲を客に出すこの機械は、毎日、決まった手順で洗わねばならない。豆の粉が通る管に、汚れがたまるからだ。放っておけば、味が落ち、衛生も保てない。手順は紙に細かく書かれていた。玄はその紙を睨みつけた。
「……なぜ、こうも手順が多い」
覇王の頭脳は十万の軍勢を動かせた。だがこの機械の洗浄手順は奇妙に込み入っていて、彼を手こずらせた。蓋を開け、部品を外し、湯ですすぐ。それから別の部品をはめ直す。順番を一つ誤ると、機械は動かなくなった。
「ちがいますって、玄さん。そこ、先に外しちゃだめです」ひかりが笑いをこらえながら言った。「強盗は一睨みなのに、コーヒーマシンには勝てないんですね」
「黙れ」
玄はむっつりと手を動かした。
ところが組み直したマシンの試運転で、事件が起きた。手順を一つ飛ばしたせいで、抽出口から、勢いよく湯が噴き出したのだ。覇王はとっさに、それを手で防ごうとした。だが熱湯である。
「あつっ」
覇王が間の抜けた声を上げた。世界を統べた男が、コーヒーマシンの湯にうろたえ、後ろへ飛びのいた。その拍子に、背後の菓子の棚に肩がぶつかり、商品がばらばらと床に散らばった。
ひかりがついに、こらえきれずに噴き出した。
「ふっ……あはははっ。玄さん、それ、最強の魔王の姿じゃないですよ」
「……笑うな」
玄は耳まで赤くして、散らばった菓子を拾った。だがその口元がほんのわずか緩んでいた。怒りでも屈辱でもない。誰かに笑われて、それを嫌だと思わない。そんな自分が玄にはまだ、信じられなかった。あちらの世界で、彼を笑える者など、ひとりもいなかった。笑えば、首が飛んだからだ。だがここでは笑いは刃ではなかった。それは距離が近いことの、しるしだった。
その隣ではミンがフライヤーの掃除をしていた。フライヤーとは、揚げ物を作る、油の機械だ。鶏の唐揚げや、芋の揚げ物がここで作られる。油は毎日漉して、汚れを取る。古くなれば、すべて交換する。これも味と安全のための、欠かせぬ手間だった。
「ゲンさん、コレ、ムズカシイね」ミンが慰めるように言った。「ボクもサイショ、ゼンゼンだめだった」
覇王と、留学生が並んで機械と格闘している。玉座にいた頃の自分が見たら、何と言うだろう、と玄は思った。だが不思議と、惨めではなかった。むしろ、誰かと並んで同じことに苦労する時間が、彼には妙に心地よかった。
その、平和な午後に、それは起きた。
自動扉が開き、ひとりの女が血相を変えて駆け込んできた。
「すみませんっ、子どもっ。うちの子、見ませんでしたかっ」
女は半狂乱だった。三歳ほどの男の子と、店の前ではぐれた。少し目を離した、ほんの一瞬の隙に、子どもの姿が消えたという。雑踏の中。たくさんの道。子どもの足では、どこへでも行けてしまう。
ひかりがすぐに店の外へ出た。真壁も奥から飛び出してきた。だが夜の街は広い。あてもなく走り回っても、見つかる保証はなかった。
女はその場に崩れ落ちそうだった。
玄はその光景を見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。子を失いかけた、母の顔。それは彼の知らない種類の、必死さだった。誰かを命がけで、求める顔。
彼は決断した。
店の裏手へ回り、人気のない物陰で、彼は目を閉じた。胸の核に、意識を集める。先日の代償を思えば、使うべきではない。頭がまた割れるように痛むだろう。だがいま、それを惜しむ場面ではなかった。
覇王の力には気配を探る術もあった。
彼は意識を街全体へと薄く広げた。生き物の、命の気配。小さな、心細い、ひとつの灯。それを探す。こめかみに、焼けるような痛みが走った。鼻の奥に、血の味がした。それでも玄は意識を広げ続けた。
――いた。
店から、二筋ほど離れた、小さな公園。その隅の、滑り台の下。小さな命の灯が、心細く、震えていた。
玄は目を開け、駆け出した。痛む頭を振り切るように。
公園の滑り台の下に、その子はいた。膝を抱え、しゃくり上げていた。玄が近づくと、子どもはびくっと身をすくめた。見知らぬ、強面の男。怖がるのも無理はなかった。
玄はその場に、片膝をついた。覇王が幼子と、同じ目の高さに。
「泣くな」玄はできるかぎり、声を和らげた。「母がお前を探しておる。連れて行ってやろう」
子どもは玄の顔をじっと見た。それから、おずおずと、小さな手を伸ばした。玄はその手をそっと握った。壊れ物を扱うように。小さく、柔らかく、温かい手だった。
母のもとへ戻った子どもは、わっと泣いて、母に抱きついた。女は子を抱きしめ、玄に何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございますっ、本当に、ありがとうございますっ」
玄はまた、その言葉を受け取った。頭の痛みはひどかった。だが母と子の姿を見ていると、その痛みすらどこか遠くに感じられた。
そのとき、玄の目が公園の片隅のある一点に留まった。
ベンチの陰に、人のようなものが横たわっていた。
玄は近づいた。そして、息を呑んだ。
それは老人だった。痩せた、小柄な老人。地面に倒れ、ぴくりとも動かない。その手には見覚えのある茶色い煮物のパックが握られていた。
「佐々木さん……っ」
いつのまにか追いついてきた真壁が、悲鳴のような声を上げた。
真壁は老人のそばに膝をつき、その肩を揺すった。佐々木はかすかに、うめいた。息はある。顔は土気色で、唇は乾き、ひどく衰弱していた。何日もまともに食べていない者の顔だった。
「ミン、救急っ。電話っ」真壁が叫んだ。ミンが震える手で、電話をかけた。
玄は老人の握りしめた煮物のパックを、見つめた。
佐々木は店へ来ようとしていたのだ。いつものように、あの煮物を買いに。だがその途中で、力尽きて倒れた。誰にも気づかれず、この公園の片隅で、何日も。握りしめたパックは、家にあった、買い置きの最後のひとつだったのだろう。それを支えに、彼はまた店へ来ようとした。
玄の胸が激しく、痛んだ。
たかが煮物だと、彼は思っていた。死に筋の、地味な惣菜。切り捨てて当然の、数字にならない品。だがこの老人にとって、それはただの食い物ではなかった。それは生きる理由だった。世界と、まだ繋がっているという、たったひとつの細い糸だった。その糸がいま、切れかけている。
遠くで、救急車の音が近づいてきた。
玄は倒れた老人の痩せた手を、そっと握った。冷たい手だった。だがその指はまだ、かすかに煮物のパックを離さずにいた。
「離すな」玄は低く言った。「まだ、離すな。お前の席はまだ、店にある」
佐々木の指が玄の言葉に応えるように、ほんの少し動いた気がした。
その夜、玄は防犯カメラの記録を見返した。倒れる前の佐々木が、店の前まで来て引き返していく姿が、何度か映っていた。混んでいる時間を避けていたのだ。誰かの邪魔になるのを、恐れるように。その遠慮深い背中を見て、玄はまた、胸を締めつけられた。煮物ひとつのために、ここまで人を遠ざける。その孤独の深さが、かつての自分に、どこか重なって見えた。誰にも必要とされぬまま、ひっそりと消えていく。それは玄がいちばん恐れていた最期の形だった。




