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魔王が現代転生してコンビニに就職した ―― 恐怖で世界を統べた覇王が、深夜のレジで"本当の強さ"を知るまで  作者: もしものべりすと


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第二十二章 夜明けのレジ

かつて、一万の槍が王の咳払いで下を向いた。


 いま、ひとつの「おはよう」が、その王を人にした。



 季節が巡った。


 あの騒動から、半年が過ぎていた。


 店は残った。再開発の計画は白紙に戻り、取り壊しの話も消えた。聖は本部を説得し、無人化の方針を見直させた。便利と、温もり。その両方をどう両立させるか。彼はいま、その難しい問いに、玄たちとともに取り組んでいた。かつての宿敵は、奇妙な協力者になっていた。


 真壁も店に、戻ってきた。


 無理はできない。だが半日だけ、レジに立つ。それが医者と交わした、約束だった。彼女は相変わらず、いちばん前で、いちばん汚れる仕事を引き受けた。その背中を玄は今日も見ていた。


 半年のあいだに、店の風景はすっかり玄の一部になっていた。冷蔵ケースの低い唸り。淹れたての珈琲の、香ばしい湯気。揚げ物を保温する箱の、油の匂い。レジ横の機械が、ときおり立てる電子音。かつては得体の知れぬ異界の音だったそれらが、いまは我が家の呼吸のように彼を包んでいた。


 ミンはもう、フライヤーの掃除もコーヒーマシンの洗浄も、玄に教えるほどになっていた。立場はいつのまにか、逆転していた。だが玄はそれを屈辱とは思わなかった。教わり、教える。支え、支えられる。それが対等な仲間の、当たり前の姿だった。


 深夜の勤めを終え、夜が明けようとしていた。


 玄は棚の前に立ち、商品を一つひとつ整えていた。前出し。商品の顔をまっすぐ、客のほうへ。古いものを手前に、新しいものを奥に。先入れ先出し。もう、すっかり、手に馴染んだ作業だった。


 力はもう、ない。


 胸の奥を探っても、覇王の核の熱は、ひとかけらも残っていない。彼は完全に、ただの人間になった。山を砕くことも、軍を率いることも、もうできない。あちらの世界へ、帰ることも。


 だが玄の顔は穏やかだった。


 彼はふと手を止め、窓の外を見た。東の空が白み始めていた。やがて、昇る朝日が店の中を柔らかな光で満たしていく。


 遠い昔のあの朝を、玄は思い出した。


 燃える城。赤い空。泥にまみれた、敵の旗。高台の玉座から、戦場を見下ろした、あの朝。一万の槍が彼の咳払いひとつで下を向いた、あの日。彼は世界の頂点に、立っていた。そして、誰よりも孤独だった。


 あのときの俺は、何を見ていたのだろう。


 あの朝、彼は世界の四分の三を手にしていた。一睨みで軍を伏せ、指先ひとつで国の金庫を動かした。誰もが彼を恐れ、誰もが彼に跪いた。それは誰の目にも完璧な強さだった。


 だがあの玉座は冷たかった。


 彼の隣には誰もいなかった。彼を案じる者も、彼の名を親しげに呼ぶ者も。勝利の朝でさえ、彼はひとりだった。世界を統べる者の孤独を、彼は強さと取り違えていた。


 灰の山。跪く影。恐怖に、歪んだ顔。それらは彼に力を与えた。だが温もりは何ひとつ与えなかった。彼は玉座の上で、凍えていた。世界を従えながら、たったひとりの手の温かさも、知らずに。


 いま、彼は玉座ではなくレジの前に立っている。


 従える民はいない。代わりに、隣にはともに働く仲間がいる。見下ろす戦場は、ない。代わりに、目の前には整えるべき棚と迎えるべき客がいる。


 自動扉が開いた。


 最初の客が入ってきた。朝の早い、仕事帰りらしい男だった。疲れた顔をしている。かつての玄なら、見もしなかった、ひとりの民。だがいまの玄にはその顔の奥にある暮らしが見えた。


 玄は顔を上げた。そして、口を開いた。


「おはようございます」


 その声はかつて一万の槍を伏せさせた声だった。世界を恐怖で、統べた声。だがいま、その声はこれ以上ないほど柔らかく響いた。客を迎える声。誰かの朝をほんの少し温める声。


 男は玄を見て、少し驚いた顔をした。それから、ぼそりと、おはようと返した。たったそれだけの、やりとり。命令でも服従でもない。ただ、対等な者同士の、朝の小さな挨拶。


 玄の胸が温かくなった。


「玄さん、コーヒー、淹れときましたよ」


 ひかりの声がした。彼女はもう、すっかり頼れる先輩の顔をしていた。妹も無事に、進学したという。


「ゲンさん、ハッピャク、ノウヒンきました」


 ミンが伝票を手に、駆けてきた。彼の日本語は少しだけ、上手になっていた。


「玄くん、今日もよろしくね」


 真壁がエプロンの紐を結びながら微笑んだ。


 彼女はすっかり、元気を取り戻していた。半日だけとはいえ、また、この店に立てることが何より嬉しいのだと言った。玄は初めてこの店に倒れ込んだ朝のことを、思い出した。あのとき、何も求めず握り飯を差し出してくれた、この人。毒は入っていないかと問うた玄に、先に一口食べてみせた、この人。彼女が玄を人にした。その始まりだった。


「真壁さん」玄はふと、口を開いた。「あのときの、握り飯。あれがなければ、俺はここにいなかった」


「あら」真壁は目を細めて笑った。「ただの、賄いよ。でもそうね。お腹が空いてる人がいたら、何か食べさせる。それだけのことが、いちばん難しくて、いちばん大事なのよ」


 売れるのと、喜ばれるのは違う。


 その言葉の意味を、玄はいま、心の底からわかった気がした。


 佐々木がいつものように煮物を買いにやってくる。その煮物はいまも棚にある。売れ筋ではない。だがたったひとりの客の楽しみのために、それはそこにある。売れるのと、喜ばれるのは違う。真壁の言葉はいまも店に息づいていた。


 朝日が店内を満たした。


 その朝、佐々木もいつもの時刻にやってきた。


 あの茶色い煮物を、ひとつ、手に取る。玄はそれを丁寧に袋に入れた。初めてレジに立った夜、ぎこちなく釣りを数えた、あの手で。いまはもう迷いなく動く手で。


「兄さん、いつもありがとうな」佐々木はしわだらけの顔で、笑った。「あんたがいてくれて、よかった」


「いや」玄は首を振った。「礼を言うのはこちらのほうだ」


 かつて、感謝という言葉を、持たなかった男だ。命じる言葉。罰する言葉。それしか、知らなかった。だがいまの玄は自然にその言葉を口にできた。ありがとう。たった五文字。それを言えるようになるまでに、彼は世界を一つ失わねばならなかった。だが惜しくはなかった。


 佐々木が店を出ていく。その背中はもう孤独の影をまとってはいなかった。


 黒木玄はレジの前で、その光を浴びていた。力を失い、玉座を失い、帰る場所さえ失った男。だが彼は生まれて初めて、本当の意味で満たされていた。


 誰かに必要とされている。誰かを守れる。対等な仲間と、肩を並べて立っている。それこそが彼がずっと探し求めていた、本当の強さだった。


 恐怖で世界を統べても、得られなかったもの。それがこの小さな店の深夜のレジに、確かにあった。覇王ヴェルグが生涯をかけても掴めなかった答えを、黒木玄は握り飯ひとつから見つけたのだ。


 ガレス。お前の問いに、俺はもう、迷わず答えられる。


 俺は必要とされている。そして、誰かを必要としている。それがこんなにも温かいものだとは、知らなかった。遅すぎたかもしれん。だが俺はようやく、人になれた。


 自動扉がまた、開いた。新しい客が朝の光とともに、入ってくる。


 黒木玄は背筋を伸ばし、いちばん優しい声で、その客を迎えた。


「おはようございます」


 世界を統べた声は、今朝もいちばん優しく響いた。


 その声に応えるように、朝日が店の隅々まで満ちていった。レジも棚も仲間たちの顔も、等しくその光に照らされた。


 かつて世界を統べた覇王は、もう、どこにもいない。ここにいるのは、深夜のレジを守り、夜明けに客を迎えるひとりの店員だった。そして、それで、よかった。


 夜明けのレジに、新しい一日が静かに始まっていた。

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