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魔王が現代転生してコンビニに就職した ―― 恐怖で世界を統べた覇王が、深夜のレジで"本当の強さ"を知るまで  作者: もしものべりすと


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第二章 無一文の覇王

目を覚ますと、王は段ボールの上にいた。


 指を鳴らせば山も砕けるのに、自販機ひとつ動かせない。



 最初の夜をヴェルグは店の裏手でやり過ごした。明るい店の中へ踏み込む前に、彼の中の何かが踏みとどまった。誇りだったのかもしれないし、警戒だったのかもしれない。見知らぬ世界に、いきなり丸腰で飛び込む愚は、王たる者の犯すものではない。彼は店の裏の、室外機の温風が漏れる物陰に身を寄せ、夜が明けるのを待った。


 夜が明けても世界はまるで彼を歓迎しなかった。


 朝の光の中で見る街は、奇怪だった。鉄と硝子で組み上げられた塔が空を刺し、人々は鉄の箱に乗って音もなく滑っていく。誰もが手のひらほどの光る板を握り、それを覗き込んだまま歩いていた。誰ひとり、ヴェルグを見なかった。覇王の威に打たれて道を空ける者も、跪く者も震える者もいない。彼はこの世界で、ただの一個の影だった。


 その無視こそが、何よりも彼を打ちのめした。


 恐れられないということが、これほど寄る辺ないものだとは知らなかった。彼の存在は世界に何の波紋も立てない。石を投げても沈まない、底の見えない水のような街。ヴェルグは生まれて初めて、自分が世界にとって不要であるという感覚を味わった。


 飢えは刻一刻と彼を蝕んだ。


 道の角に、光る箱が立っていた。中に、色とりどりの缶や瓶が並んでいる。硝子越しに見えるそれは、明らかに飲み物だった。ヴェルグは箱に近づき、当然のように手を伸ばした。硝子は固く、びくともしない。箱の表面には数字の書かれた小さな札と、いくつかの穴があった。


「開け」


 低く命じた。世界を従えてきた声で。


 箱は何の反応も示さなかった。


 ヴェルグは眉をひそめた。胸の奥の、わずかな熱に意識を集めた。これを引き出せれば、こんな箱は紙のように裂ける。彼は指先に力を込めた。胸の底で、火種がじりっと熱を持つ。次の瞬間――頭の芯に、焼けるような痛みが走った。世界が白く明滅し、彼は思わず膝をついた。


 近くの街灯がぱぢっと音を立てて弾けた。硝子の破片が朝の歩道に散った。


「……っ」


 わずかに引き出しただけで、これだ。力はまだ、この体に馴染んでいない。無理に使えば、体のほうが先に壊れる。そして引き出した力は、狙った箱ではなく、的外れな街灯を砕いただけ。制御がまるで効かない。


 通りすがりの女が、弾けた街灯を見上げ、それから膝をつくヴェルグを一瞥した。眉をひそめ、足早に去っていく。憐れみでも恐れでもない。関わりたくない、という顔だった。


 ヴェルグは荒い息を整えながら、地に手をついた。屈辱が飢えと同じくらい喉を焼いた。かつて一睨みで一万の槍を伏せた男が、いまは飲み物の箱ひとつ開けられず、通りすがりの女に憐れまれている。


 彼は力の使い方を根本から見誤っていたのだと、このとき少しだけ悟った。あちらの世界では、力は鍵だった。あらゆる扉を力ずくでこじ開けてきた。だがこの世界の扉は、力では開かない。別の鍵がいる。その鍵が何なのか、ヴェルグはまだ知らなかった。


 日が高く昇ると、街にはいっそう人が増えた。ヴェルグは試しに、行き交う人の流れの中央に立ち、最も威厳のある声で命じてみた。


「そこの者。食い物を出せ」


 誰も止まらなかった。


 肩がぶつかった若い男は、舌打ちをして、光る板から目も上げずに通り過ぎた。次の女はヴェルグを見もしない。まるで街灯か電柱でも避けるように、半歩だけ進路を曲げた。覇王の威。世界の四分の三を従えた、その圧倒的な存在感は、この街では一片も通用しなかった。


 彼らはヴェルグを恐れていない。憎んでもいない。ただ、見ていないのだ。存在しないものとして扱っている。それは刃で胸を貫かれるより、ある意味で深く彼を刺した。恐怖は少なくとも関係だった。恐れる者と恐れられる者は、確かに繋がっていた。だがこの無関心には、繋がりすらない。彼はこの世界で、誰とも繋がっていない、宙に浮いた一個の点だった。


 ガレスの言葉が、また耳の底でうずいた。あなたは私を人として見たことが一度もなかった。今、その同じ無視を、世界の側から返されている。彼は奇妙な目眩を覚えた。皮肉という言葉を、ヴェルグはこのときまだ知らなかった。だが胸の奥に、苦い水がじわりと滲むのを感じた。


 昼が過ぎ、また夜が来た。


 飢えはもはや痛みを超えて、思考を鈍らせ始めていた。視界の端がときおり黒くにじんだ。立ち上がるたびに、地面がゆっくりと回った。ヴェルグは壁伝いに街をさまよった。手のひらに触れる壁の冷たさだけが、かろうじて彼を現実につなぎとめていた。空腹とはこんなにも人を惨めにするものなのか。玉座にいた頃、彼は飢えを知らなかった。食事は運ばれてくるものであり、味わうものですらなかった。今になって、ひと欠片のパンの重みを、彼は初めて想像していた。


 人の捨てた紙袋が、道の端に転がっていた。中から、食べ残しらしき匂いがした。ヴェルグはそれに手を伸ばそうとして――できなかった。胸の奥の凍った誇りが、最後の一線として残っていた。王は地を這う者の残飯を漁らない。たとえ、それで飢え死にするとしても。


 馬鹿げている、と彼は自分を嗤った。誇りなど、腹の足しにもならない。だがその誇りこそが、彼という存在の最後の骨格だった。それを失えば、彼はもう、ヴェルグですらなくなる。ただの飢えた獣だ。


 ふらつく足がまた、あの明るい店の前へと彼を運んでいた。


 二日前、闇から這い出た、あの店。夜の街でただひとつ、眠ることを拒む灯り。自動の扉が近づく人影を察して、するすると音もなく開く。中から、温かな空気と、複雑な匂いが流れ出してきた。揚げ物の脂の匂い。炊いた米の匂い。何かを淹れた、香ばしい湯気の匂い。


 ヴェルグの胃が、痛いほど鳴った。


 彼は硝子の壁越しに、店の中を覗いた。明るい光の下、若い女がひとり、棚の前に立っていた。商品を一つひとつ手に取り、向きを揃え、奥から手前へと丁寧に引き出している。その手つきには、奇妙な静けさがあった。誰に見られているわけでもないのに、まるで祈るように、整然と棚を整えていく。何のためにそんなことをするのか、ヴェルグにはわからなかった。


 別の客が入ってきて、女に何か尋ねた。女は顔を上げ、笑った。明るく、屈託のない笑顔だった。客にも笑みが返り、二人は短く言葉を交わした。


 その光景をヴェルグは食い入るように見つめた。


 あれは何だ。命令でも服従でもない。恐れでも憎しみでもない。ただ、言葉と笑みが二人のあいだを軽やかに行き来している。彼が一度も持ったことのない種類の、何か。胸の奥の凍った場所が、見ているだけで、わけもなくうずいた。羨ましい、という感情をヴェルグはまだ言葉にできなかった。ただ、ガラス一枚を隔てた向こうの温かさが、こちらの夜の寒さをいっそう際立たせていた。


 扉の前に立つと、機械の声が彼を迎えた。


「いらっしゃいませ」


 誰の声でもない、その平坦な声に、ヴェルグはなぜか足を止めた。この世界で、彼に向けられた最初の言葉。意味はわからない。だが拒絶ではないことだけは、わかった。


 彼は誇りと飢えの最後の天秤を、胸の中で揺らした。王として死ぬか。それとも王であることを一度脇に置いて、生き延びるか。誇りは骨であり、飢えは血だった。骨だけでは立てない。血だけでも立てない。彼は初めて、そのどちらをも手放さずに済む道を、本気で探していた。


 そして、その明るい城の中へ、一歩を踏み出した。

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