第一章 覇王、世界に背かれる
一万の槍が王ひとりの咳払いで下を向いた。
その王がいま、味方の刃で胸を貫かれている。
空は赤かった。落ちる陽のせいではない。燃える城のせいだ。覇王ヴェルグの足もとには、敗れた敵軍の旗が泥にまみれて広がっていた。風が焼けた肉と鉄の匂いを運んでくる。勝った。今日もまた勝った。世界の四分の三は、もう彼の影の下にある。
高台に据えられた玉座から、ヴェルグは戦場を見下ろした。瞳は冬の湖のように静かで、何の熱もこもっていない。彼にとって勝利とは、朝が来るのと同じだ。当たり前で、誰にも止められず、そして少しも嬉しくない。
「陛下。残党は西へ逃げました。追撃しますか」
背後で声がした。側近のガレスだ。十五年、ヴェルグの剣として働いてきた男。誰よりも忠実で、誰よりも近くにいた。ヴェルグはわずかに首を振った。
「捨て置け。逃げる者まで殺すのは、力の無駄だ」
「は。御意のままに」
ヴェルグはふと、自分でも理由のわからない疲れを感じた。世界を恐怖で従えるのは、難しいことではなかった。強ければいい。圧倒的に強ければ、人は跪く。逆らう者は灰になる。それだけのことだ。だが灰の山の上に立つ王の足もとは、いつも冷えていた。
彼は一度も誰かに笑いかけられたことがない。誰かに名を呼ばれて、駆け寄られたこともない。生まれたときから、彼は世界を統べるための器だった。育ての親はいなかった。教えてくれたのは、より強く、より恐ろしくあれという声だけだった。それでよかった。王に友はいらない。王に愛はいらない。そう信じて、信じきって、ここまで来た。
幼い頃の記憶は、ほとんど残っていない。残っているのは、ただひとつ。まだ自分が膝ほどの背丈だった頃、誰かが自分を抱き上げようと手を伸ばしてきた、その手の温度だ。だが次の記憶では、その誰かはもういなかった。代わりにあったのは、玉座と、跪く影と振るうべき剣だった。温度の記憶はそれきり凍りついて、彼の胸の奥のいちばん深い場所にしまわれた。取り出せば弱くなる。だから、しまった。鍵をかけ、その上に何層もの恐怖を積み上げて、二度と開かないようにした。
強さとは奪うことだ。従えることだ。彼はそう学んだ。求める者は弱く、与える者は愚かだ。世界は支配する側と、される側に分かれている。その単純な物差しで、彼は何もかもを測ってきた。民の顔は覚えなかった。覚える必要がなかった。彼らは数であり、兵であり、収穫だった。一人ひとりに名があり、帰る家があり、待つ者がいる。それをヴェルグは知識としては知っていた。だが感じたことはただの一度もなかった。
背後で、衣擦れの音がした。
次の瞬間、胸に灼けるような熱が走った。
見下ろすと、自分の胸から剣の切先が突き出している。見覚えのある剣だった。ヴェルグ自身が、十五年前にガレスへ与えた剣。
「……ガレス」
名を呼ぶと、背後の男は静かに刃を引き抜いた。血が地に落ち、玉座の石を黒く濡らした。ヴェルグは膝をつかなかった。痛みよりも理解できないという感覚のほうが大きかった。
「なぜだ」
声は驚くほど穏やかに出た。怒りはなかった。あったのはまるで答えのない問いを前にした、子どものような戸惑いだ。
ガレスは血のついた剣を握ったまま、ヴェルグの顔を見なかった。見られなかったのかもしれない。
「あなたは強すぎた」と、男は言った。「強すぎて、誰もあなたに近づけなかった。十五年あなたの隣にいて、私は一度もあなたに必要とされた気がしなかった。あなたは私を駒として使った。剣として振るった。だが人として、見たことは一度もなかった」
ヴェルグは口を開きかけた。何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。
「最後に、ひとつだけ問わせてください」とガレスは続けた。声がかすれていた。「陛下。あなたは生まれてから今日まで、ただの一度でも、誰かに本当に必要とされたことがありましたか」
ヴェルグは答えられなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
膝が崩れた。世界が傾く。赤い空も玉座も灰の山も遠くなっていく。鼻先をかすめた最後の匂いは、焼けた肉でも鉄でもなかった。ガレスの上着に染みついた、生きた人間の汗の匂いだった。それをヴェルグは生まれて初めて、近いと感じた。
近いと感じたときには、もう、すべてが闇に沈んでいた。
闇の底で、彼は落ち続けた。
どれほど落ちたかわからない。時間という言葉が意味を失うほど、長く。やがて、闇の底に、ちらちらと光が滲み始めた。赤くも青くもない、見たことのない種類の光。ぬるい風が頬を撫でた。鉄でも血でもない匂いがした。油と、甘ったるい何かと消毒液の入り混じった、奇妙な匂いだった。
遠くで、機械のような声が同じ言葉を繰り返している。
「いらっしゃいませ。いらっしゃいませ」
ヴェルグは目を開けた。
頬に当たっているのは、冷たく湿ったアスファルトだった。頭上には四角い灯りが規則正しく並んだ、見たことのない天井がある。否、天井ではない。それは庇だった。そして庇の下に、その店はあった。
夜だというのに、その店だけが昼のように明るかった。ガラス越しに、色とりどりの箱が整然と並んでいるのが見える。自動で開く扉。一定の間隔で繰り返される、あの機械の声。世界中が眠る時刻に、そこだけが眠ることを拒んでいた。
ヴェルグは身を起こそうとして、できなかった。手が震えている。覇王の手が。山を砕き海を割いてきたこの手が、いまはその四角い灯りひとつ消すことさえできない。胸の奥に、わずかな熱の残滓があるのを感じる。だがそれは灯火が燃え尽きる前の最後のひと息のように、頼りなく明滅しているだけだった。
力がない。
いや、力そのものは確かにこの体のどこかに眠っている。それはわかる。だがそれは深く沈み、引き出すには時間が要る。今この瞬間、彼にできるのは、震える手で身を起こすことだけだった。
飢えていた。猛烈に。それは王が一度も知らなかった感覚だった。腹が内側から自分を喰おうとしている。世界を従えてきた覇王が、いまは一杯の水とひと欠片のパンを、何よりも欲していた。
寒さも彼を容赦なく責めた。身にまとっているのは、見覚えのない薄い衣だった。黒い布地の、妙に動きやすい服。足には柔らかな履き物。どれも軽く、頼りなく、王の威厳のかけらもない。アスファルトの冷たさが、その薄い布を通して背骨まで這い上がってくる。遠くで、何かが地を擦るような低い音が響いた。あとでそれが人を運ぶ鉄の箱の音だと知ることになる。だが今はただ得体の知れない、世界そのものの唸りに聞こえた。
「……これは夢か」
声に出してみて、ヴェルグは自分の喉のひどい渇きを知った。夢ではない。夢ならば、こんなに惨めではないはずだ。
彼はふらつきながら、ガラスの壁に手をついた。冷たい。指の下で、ガラスがかすかに震えている。中の明るさが外の闇に放り出された彼を、容赦なく照らしていた。
あの男の最後の問いが、闇の底からついてきていた。
誰かに本当に必要とされたことが、ありましたか。
答えはいらない、とヴェルグは思った。王に必要などという言葉は無用だ。必要とされる者は弱い。求める側はいつも、跪く側だ。だから俺は誰も求めなかった。誰にも求められる必要が、なかった。
そう自分に言い聞かせながら、彼の震える手は、無意識に明るい店のほうへ伸びていた。飢えた獣がただ一点の灯りに引き寄せられるように。王の誇りよりも、腹の底の渇望のほうが、このときばかりは正直だった。




