第十一章 勇者もまた、転生せり
「お前と私は同じだ」
勇者はそう言って笑った。覇王の、最も認めたくない言葉で。
オムニグリッドの店は、瞬く間に、街に馴染んでいった。
客は増えていった。無人の店は二十四時間、店員を待たせない。並ばずに、機械にかざすだけで、支払いが終わる。話しかけられることもない。気を使うことも、ない。便利だった。そして、何より、楽だった。
玄はその様子を、向かいの店から苦々しく見ていた。
ある夜、玄の店に、ひとりの老婆が駆け込んできた。佐々木と同じくらいの歳の、小柄な女だった。彼女は息を切らし、困りきった顔をしていた。
「あの、向かいのお店ね。お金が払えなくて」老婆は言った。「機械にかざせって言うんだけど、わたし、そのやり方がわからなくて。誰も教えてくれる人が、いなくて」
玄は事情を察した。無人の店には客を助ける者がいない。機械の操作に戸惑う者は、ただ、置き去りにされる。便利はそれを使いこなせる者にとっての便利でしかない。機械に不慣れな者にとって、その青い灯りは、冷たく閉ざされた扉だった。
「ここで、買えばいい」玄は静かに言った。「うちは人が応対する」
老婆はほっとした顔で、欲しかった品を玄に告げた。玄はそれを揃え、丁寧に袋へ入れた。会計のあいだ、老婆は堰を切ったように、世間話を始めた。孫のこと。膝の痛み。昨日見た、夢のこと。玄はただ、相槌を打った。
老婆が帰った後、ひかりが玄に言った。
「あのお客さん、たぶん品物より、玄さんと喋りたかったんですよ」
玄はその言葉を胸の奥で、何度も転がした。喋りたかった。人と。たったそれだけのために、人は店に来る。それは機械には決して果たせぬ役目だった。
数日後の夜、聖が再び、玄の店を訪れた。客としてではなかった。彼は商品を一つも手に取らず、まっすぐレジの玄のところへ来た。
「少し、話さないか」聖は言った。「昔のよしみだ」
休憩室で、二人は向かい合って座った。覇王と、勇者。かつて、世界の覇権を賭けて争った、宿敵同士。それが紙のカップの茶を挟んで、向かい合っている。奇妙な光景だった。
「お前は覚えているか」聖が口を開いた。「あちらの世界で、最後に、お前が斃れたときのことを」
「忘れるものか」玄は答えた。「貴様の剣は俺の胸を確かに貫いた」
「あのとき、世界はついに救われたと、誰もが思った」聖は茶を見つめた。「魔王さえ斃れれば、世界は平和になる。長年お前と戦ってきた私も、そう信じていた」
玄は黙って、聞いていた。
「だがお前が斃れた後、何が起きたと思う」聖の声が低くなった。「魔王のいなくなった世界で、人々はすぐに、争いを始めた。土地を巡って。富を巡って。信仰を巡って。共通の敵を失った人間は、こぞって、互いを敵に回した。救われたはずの世界は、お前がいた頃より、ずっと醜くなった」
「……」
「私は悟ったよ」聖は玄を見た。「悪はお前ではなかった。人間そのものが、愚かなのだ。間違え、争い、奪い合う。人の手に世界を委ねる限り、悲劇は終わらない」
玄はその言葉の底にある絶望を感じ取った。
この男はかつて、誰よりも人間を信じていた。だからこそ、その信頼が裏切られたとき、誰よりも深く絶望したのだ。光が強かったぶん、影も濃い。勇者の正義はいま、人間そのものへの深い不信へと、姿を変えていた。
「だから、私は決めた」聖は続けた。「人の手から、世界を取り上げる。すべてを間違えぬ仕組みに委ねる。感情のない、機械に。そうすれば、もう、誰も争わない。誰も飢えない。誰も傷つかない。完璧な、静かな世界だ」
「お前は何もわかっていない」玄は声を絞り出した。「先日、ひとりの老人が、倒れた。誰にも気づかれず、ひとりで。だが店の人間が彼を見つけ、助けたのだ。お前の店なら、どうだ。機械は倒れた客を見つけられるか。心配して、探しに行くか」
聖はわずかに口をつぐんだ。だがすぐに、冷ややかな笑みを取り戻した。
「ひとりの老人のために、店の効率を犠牲にするのか」聖は言った。「感傷だな。その甘さがいずれお前を滅ぼす。数で考えろ、ヴェルグ。ひとりを救うより、万人を間違えずに捌くほうが、尊い。それが為政者の論理だ。お前もかつてはそう生きていたはずだ」
玄は奥歯を噛んだ。確かに、かつての自分は、そう生きていた。一兵を惜しまず、大局だけを見ていた。だがいまは違う。あのひとりの老人のしわだらけの笑顔を知ってしまった以上、彼はもう、それを数には戻せなかった。
「それは」玄は続けた。「それは世界ではない。墓場だ」
「墓場、か」聖は薄く笑った。「同じことだよ。争いのない墓場と、争いに満ちた生。どちらがまし、だと思う」
玄は答えられなかった。
かつての玄なら、聖の言葉に、深く頷いていただろう。人は愚かだ。だから、強い者が力で統べねばならない。それが覇王の信条だった。聖の言うことは、形を変えた、玄自身の哲学でもあった。
だからこそ、聖は言ったのだ。
「お前と私は同じだよ、ヴェルグ」聖は立ち上がった。「人を信じていない。人を見下している。違うか。お前は力で人を従えた。私は仕組みで人を管理する。やり方が違うだけだ。根は同じだ」
玄はその言葉に、胸を深くえぐられた。
同じ。最も認めたくない言葉だった。だが否定できなかった。つい先日まで、玄はまさにその通りの男だったからだ。
「だが」玄は震える声で、言い返した。「俺は変わった」
「変わった、だと」聖は嘲るように、笑った。「コンビニで、握り飯を売って、変わったつもりか。お前はただ、牙を抜かれただけだ。腑抜けたのだ。覇王が聞いて呆れる」
「黙れ」
「いいか、ヴェルグ」聖の目が冷たく光った。「お前がその温もりとやらにしがみつくほど、お前は失うものを増やすだけだ。守るものがある者は、弱い。失うものがない私が、最強だ。それをお前はじきに、思い知ることになる」
聖は休憩室を出ていった。
残された玄は長いこと、動けなかった。冷めた茶のカップを、両手で、握りしめていた。
守るものがある者は、弱い。
かつての玄もそう信じていた。だからこそ、彼は何も持たなかった。誰も愛さず、何も守らなかった。そうすれば、何も失わずに済むからだ。聖の言葉は正しい。守るものができた今の玄は、確かにあの頃より、弱くなった。
だがと玄は思った。
あの頃の俺は強くて、そして空っぽだった。何ひとつ失わない代わりに、何ひとつ、持っていなかった。誰にも必要とされず、誰のことも必要としない。それは本当に、強さだったのか。
彼は窓の外の、向かいの青い灯りを見た。
あの灯りの奥に、聖はひとりでいる。誰も愛さず、誰にも愛されず、完璧な孤独の中で。それはかつての玄自身の、姿だった。
ぞっとするほど、似ていた。だからこそ玄は、あの男にだけはなりたくないと、強く思った。
だが同時に、玄は恐れてもいた。
聖の言葉が正しいかもしれない、という恐れだ。守るものがある者は、弱い。それはただの脅しではなかった。事実だった。玄はもう、ひかりやミンや真壁や佐々木を、失いたくないと思っている。その思いこそが、聖につけ込まれる、最大の弱点になりうる。
かつての玄なら、その弱点を迷わず切り捨てただろう。守るものなど、持たぬのが最も強い。だがいまの玄にはそれができなかった。たとえ弱くなるとしても、彼はもう、空っぽの強さには戻れなかった。
窓の外で、向かいの青い灯りが、音もなく輝き続けていた。客のいない時間も、店員のいない店は、ただ機械として稼働し続ける。そこには世間話も相槌も、ありがとうもない。完璧で静かで、そしてどこまでも空虚だった。
玄は自分の店の温かい灯りを見渡した。
守ると、決めた。この、不器用で非効率な、温かい灯りを。たとえ、それが自分の弱さになるとしても。覇王は生まれて初めて、失うことを恐れるその心を、抱きしめた。




