2.不気味な救世主
店主の目の色が変わった。
見開かれた目、わななく唇、そして耳に届く強烈な音。
「おめえ、何言ってんだよ。頭大丈夫か? 今すぐここから立ち去れ。そんで二度と来んな」
明らかに態度を変えたその者の威圧で体が言うことを聞かない。
互いに睨み合う時間が続いた。
(逃げたい。でも足がすくんで動けない)
目を背けたくなるほど細い脚がどんどん震えだす。
誰かに指で軽く押されたら倒れてしまうほどに体が硬くなっているのを感じる。
俺が押しのけた人々はただならぬ雰囲気にちりちりと離れていった。
道端にいる歩行人、商店の店員もこちらを不安そうに見つめている。
「いい加減にしろよ! てめえさっきから睨みやがって!」
対峙していた男が次の瞬間、凄まじい速さで握りこぶしを飛ばしてきた。
血管の浮き出たその手が目前に迫る。
俺は咄嗟にそれを避けた。いや避けたというより運よくかわせたと言う方が正しい。
こぶしが俺の顔面に当たるより前に転倒したのだ。
薬舗の店主は対象者が突然倒れたことでバランスを崩し、前に躓いた。
なんとか地面に手をつき頭を打つことは防げたようだが、膝を負傷したのか鈍い顔をしている。
(なんとか助かった……)
ただ安心したのも束の間だった。昨夜の降雨で地面が泥だらけだということを忘れていたんだ。自分の着物に目を落とすと案の定、泥にまみれていた。
これから起こることを想像するだけで冷や汗が出てくる。殴られなかったことに対する安堵感なんてもうどこかに行ってしまった。店主の形相以上に怖い者がこの世にいるからだ。
(どうしよう。父さんと母さんに怒られる……!)
収まったはずの震えがまた再開し、なにかいい言い訳がないかを考えながら視線を上げた。
すると、薬舗の隣にある醤油屋の店員―――最近、二週間前から見かけることが増えた―――が、射るように俺を見下ろしている。
すぐに目を逸らし、足元を眺めながらポツリとつぶやいた。
「なんだよ、俺が何したっていうんだよ……」
頭を垂れていると、側で男の立ち上がる音が聞こえる。
「おいガキ……よくも着物を汚してくれたな。これな一等品なんだよ、どうしてくれんだ?」
「あ、いや……」
これ以上ここにいたくないのに、男の態度が恐ろしくて下を向くことしかできない。
「てめえ家どこだ?」
「え?」
「家はどこだって聞いてんだよ!てめえの親から金むしり取ってやる!」
「そ、そんな! 俺んちに金なんて―――」
「うるせえ! いいから教えろ!」
その商人が着物の衿を強引につかみ唾を飛ばしながら怒鳴った。
体を揺らされ気分が悪くなってきた。それにさっきから耳に響く音が頭痛を催す。この音の正体が分からないまま、どんどんと心身消耗していく。
(怖いよ! 誰か助けて!)
周りにいる人は俺たちに関わらないよう足音をなるべく立てずに通り過ぎる。
立ち止まって見物している者も何やらコソコソ話をするだけで、助けようとする素振りもない。
やっぱり俺って必要ない人間なんだ……と半ば投げやりになりながら涙をこらえる。
でももう糸がプツンと切れそうで、そしたら止まらなくなりそうだった。
「おいやめないか」
男の声がした。涙が溜まり始めた目でその人を見上げる。
それは醤油屋の店員だった。
「あ? 今度は誰だよ! 俺たちは今大事な話してんだからどっか行け!」
薬舗の店主が邪魔者に対する嫌悪感を隠そうともせずに悪態を付き、それにまた俺の体がビクッと反応した。その反動で潤んだ目から涙が一つ零れ落ちた。
「……いいから手を離せ」
「あ? なんだてめ―――ひっ!」
店主の言葉が途切れた。
今までの威勢はどこにいったのか嘘のように態度を変え、俺の衿を掴んでいた手で自分の顔を隠した。相手を不気味な何かだと思い込んでいるようなそんな恐怖心を露わにしている。さっきまで聞いていた音と違い、心の底からの悲鳴のような響きも耳に届く。
醤油屋の店員がその店主を睨みながら俺にこう言った。
「五分だけ待っていろ、話がある」




