加奈子の失恋
「マコちゃん、この間は引っ越し手伝ってくれてホントにありがとう。すごく助かっちゃった。高野君も手伝わせちゃってゴメンね。男手が従兄一人だと辛かったからホント助かっちゃったよ」
「ううん、いいのよそんなの。明良なんていくらでもこき使っちゃって」
「マコちゃんてばまたそんなこと言っちゃって。でもホントありがと」
「いや、本当に気にしなくていいぞ。真琴の親友なら俺にとっても長いつきあいになるからな。役に立てて光栄だ」
「ありがと。さ、いっぱい作ったからどんどん食べてね」
結局、加奈子は引っ越しを決めた。
元々、加奈子の両親は二人が勤めている伯父の会社の関係で、四月から自宅を離れることが決まっていた。新店舗の監督の為だ。加奈子は四月以降も自宅に一人で残り、会社勤めをする予定だった。
ちなみに伯父の会社ではない。世間では一流と呼ばれるような企業で、結婚、出産、その後の復帰など、働く女性へのバックアップが手厚いことを謳っているので、賢一郎との結婚を前提にして選択した就職先だった。内定をもらったときは飛び上がって喜んだものだ。でも今は一人で生計を立てていくことを考えたとしても決して悪くない選択だったと思っている。
ただ、自宅から通える範囲で選んだものだから、賢一郎に振られた今となっては、そこに一人で残るのは加奈子には辛すぎた。いきさつを全部知っている近所の人達や、美奈子が絶好を宣言した真理恵ほか塚本家の人達、なにより賢一郎や香苗に一人で対峙し続けるのは、加奈子の精神への負荷が大き過ぎる。だからといって自宅を無人で放置するのもと頭を悩ませていたのだが、それならと従兄夫婦が留守宅を預かってくれることになったのだ。
伯父の一人息子である従兄の要は加奈子より八歳年上で、半年前に最愛の妻と結婚したばかりだが、まだ独身時代のマンションをそのまま借りていて、更新時期も近かったのでちょうどよかった。それに要も年の離れた加奈子のことを昔からそれこそ妹のように可愛がっており、賢一郎に対して怒っていたこともあって快く引き受けてくれた。加奈子の部屋もそのまま残しておくからいつでも戻って来て欲しいと、お嫁さんの春菜も言ってくれ、自身の引っ越しだけでなく、娘の卒業を待って両親が転居した後で慌ただしく整えた加奈子の引っ越しも親身になって手伝ってくれた。
「あのあと、アイツ、なんか言ってきたの?」
今日は新居の部屋も取りあえず片づいて落ち着いた加奈子が真琴達を招いて手料理を振る舞っていた。「久し振りに張り切っちゃった」と言うだけあって、なんとも美味しそうな料理がふんだんに並んでいる。そこに明良が持ち込んだ酒とつまみが加わり、小さなテーブルには載りきらない位だ。デザートとして加奈子が焼いたケーキも冷蔵庫にスタンバイ済みだ。
料理はからっきしの真琴が目を輝かせながら料理に手を伸ばして聞いた。
「ううん、何にもないよ。まあ、お母さんも、真理恵さんに絶交宣言しちゃったし、要兄さんも引っ越し挨拶しに行って、向こうにクギを刺して来たって言ってたから。招待状は来ないと思う」
「なに、要さん、アイツに会ってきたの?」
「ううん、いなくて会えなかったって。でも、お父さんの智宏さんはいたみたい。……秋に挙式だって」
加奈子は賢一郎の名前こそ出さないものの、淡々と説明した。感情を表に出さない様子はかえって哀れを感じたが、真琴は加奈子の気持ちを慮り同情を表に出さないように努めた。だが、加奈子は真琴のその様子にすぐに気付いた。
「ありがと、マコちゃん。わたしは大丈夫だよ。それより高野君。ようやっとだね、長かったねぇ?」
「あぁ、まったくだ。真琴の意地っ張り具合は大したもんだが、そこがまた可愛いからな、仕方ない」
「そうそう! マコちゃんって、ホント、可愛いんだよね! 意地を張りながらも全部顔に出てるとことかね!」
「そうだな。こんなに内心ダダ漏れで大丈夫かと思うこともあるんだが、確かにそこも可愛いんだよなぁ」
「……二人とも、可愛いって言っとけば何言っても許されると思わないでよ」
真琴と明良はようやく、正式につきあい始めていた。あのまますんなりつきあいが始まらなかった原因は、真琴の意地っ張り、これにつきる。ちょっとした切っ掛けで、加奈子に紹介するまでつきあわないと明良に対して啖呵を切ってしまったのだ。真琴自身内心すごく焦ったものだが、明良は慣れたものだった。そういう天の邪鬼なところも好きだよと言わんばかりで、余計に真琴は引っ込みがつかなくなった。
そうして、現実感を取り戻した加奈子が少し落ち着いて周りを見てみたところ、自分よりあわあわした真琴がいたのだった。これがかえって加奈子をさらに立ち直らせた。自分のことで悩むより、人の世話を焼くほうが加奈子の性に合っているのだ。ありのままの真琴は自分では思いもよらない形で加奈子を助けたようだ。
加奈子と真琴は互いに世話を焼きあいながら入社式を迎え、新生活の開始を乗りきった。そして、加奈子の転居が済んでからようやく、真琴と明良はつきあい始めたのだ。
加奈子は内心、つきあう前後で実質的な差はそこまではないんじゃないかと踏んでいた。明良はマメかつ、独占欲の強い男で、ずっと真琴を色々な面できちんとガードしてきたことを知っているからだ。それが堂々と表に出てくるだけの違いだろう。真琴も本当はかなりの甘えたがりなので似合いのカップルだ。実のところ、大学生活後半には何故なかなかくっつかないのかと不思議に思っていた位なのだ。
「次はマコちゃんの引っ越しだね? でもこれで一安心だよ、マコちゃん一人だとロクなもの食べてないんだもん」
「任せてくれ、真琴の面倒はキッチリみるから」
「私一人だって大丈夫なのに」
「うそつけ!!」
最後は加奈子と明良がキッチリハモっていた。
顔を見合わせて三人で声をあげて笑う。笑いあえる友達がいるというのは、それだけでしあわせなことなのだと、加奈子は心から思った。
「ごちそうさまでしたぁ!!」
「マコちゃん、大丈夫? 今日けっこ食べたし飲んだねぇ」
「だいじょうぶ! 今日、おいしかったし、すっごく楽しかった! 加奈が笑っててくれて、すっごく嬉しい!」
「ホント、心配させちゃって。ありがとね」
「倉田さんは今日飲みすぎてないか?」
「うん、おつまみ、すっごく美味しかったからいつもよりちょっと飲んじゃった。でも、ゆっくりだったから大丈夫だよ。高野君はお酒強いねぇ、マコちゃんよりいっぱい飲んでたよね」
飲んだ量からいくと、明良、真琴、越えられない高い壁、加奈子の順だ。
「俺ぁ、おふくろが店やってるからな、けっこう飲み慣れてんだよ。持ってきたつまみもおふくろ直伝だしな」
「おいしかったねえ!」
「ホント、美味しかった! レシピ教えて欲しいくらいだよ」
「ああ、倉田さんなら大丈夫だろ。いいぜ。そうだ、今度真琴と一緒におふくろの店に来ないか? 他にも美味いもん色々あるしな」
「加奈、いっしょにいこうよ! すごいおいしいんだよ! それに明良のお母さん、すごい美人で驚くよ!」
「そうなんだ。でもわたしもいいの?」
「ああ、そんな固く考えないで、軽く飲みに行くみたいな気でいてくれればいいからな」
「誘ってくれてありがとう。是非、ご一緒させてね」
「ありがと! 加奈!」
本当に大分心配を掛けてしまったと、二人の気持ちが嬉しかった。
明良の部屋へ二人で帰るというのでタクシーを呼んだ。明良が付いているので夜も更けていたが安心して送り出せる。
「ふう」
鍵を閉めて一人になった部屋はシンと静まりかえっていた。自分の息遣いまではっきりと聞こえそうだ。
(……なんか沁みるほど寂しい)
意地でも人前で、口にも顔にも出す気はないが、自分に嘘は付けなかった。友達と一緒にいる間は遠ざけていられるし、笑いあっている時に感じる幸福感も誓って本物だ。加奈子は自分は良き友人に恵まれていると思っている。
でも、やはり一人になると虚しさが胸に迫る。一人暮らしなんて初めてだし。それに……仲のいい二人が目に刺さるほどに眩しい。
加奈子の胸元に、もうネックレスは存在しなかった。
真琴にも家族にも内緒だが、実は三月に、賢一郎にメールを送って最後に二人で会って来た。内緒なのは何となくだ。さしたる理由はない。何故言いたくないのか自分でも分からない。誰かに何かを言われるのも言うのも、誰であれ耐えられないからかもしれない。 会ってネックレスを返してきただけ。賢一郎に処分してもらうために。自分では捨てられなかったから。
お互い余計なことは喋らなかった。真理恵から美奈子の様子を聞いただろうに、賢一郎も謝ってきたりはしなかった。謝られてもどうしていいか分からないからそれで良かった。加奈子も、賢一郎を詰ったりはしなかった。
ただ、互いにじゃあと言って別れただけだ。
賢一郎が長年の間、加奈子をどう思っていたのかは、加奈子には分からないまま。
賢一郎が加奈子の長年の気持ちをどう理解していたのかも分からないまま。
今ではもうそれを知る機会も無くなった。
共通の友人達もほとんどは、加奈子に賢一郎の話題を振らないように注意しているようだった。
この世に失恋なんてありふれている。
この世に独り者なんてゴマンといる。
みんなこれを一人で乗り越えているのだ。
(でも、辛いなぁ)
加奈子はひっそりともう一度ため息を吐いた。
……あの指輪はまだ処分出来ていなかった。今は従兄夫婦が住んでいる自宅の自室の机の中に、鍵を掛けて見ない振りで放ってあった。
平成二十七年二月二十七日『加奈子の失恋』完結しました。ありがとうございました。