第53話 「プール特訓」
六月の日曜日。自転車を漕ぎ僕が目指していたのは市民プール。
この時期だからピークに比べれば少ないけど、それでも日曜日だから多くの人が訪れていた。
「よし……」
自転車を止めお金を払い中へ入る。
なぜ一人でプールへ来ているのか。それはもうすぐ体育でプールの授業が始まるから。実は僕は泳げないんだ……。
去年は泳げないままで終わってしまった。だから今年こそ泳げるようになるんだ!
「よおし」
着替えて準備体操を終える。今日のために泳ぎ方をたくさん勉強してきた。準備はばっちり。
プールへ入りゴーグルをつける。そして覚えたクロールの泳法で泳いでみる……けれど……。
「がぼごぼ……! ……ぷはあっ!!」
なぜだろう……泳ぎ始めるとすぐに体が沈んでいっちゃう。全然前に進まないや……。なんでかまったく分からない、だって泳ぎ方は間違ってないはずなのに。
「はあ、はあ……もう一回!」
息を吸い込みもう一度挑戦してみる。だけど結果は同じ。その後何回も挑戦してみたけど全く泳げない。ただただ体力がなくなっていくだけで全く進歩しないんだ。
何も変わらないまま時間だけが過ぎていった。
「どうしてだろう……」
少し休憩しよう。そう思いいったんプールから上がると、不意に誰かにぶつかってしまった。
「「あ、すいませ――」」
僕の目の前にいたのはスポーティな紺色の競泳水着とパーカーを身に着けた先輩だった……。
思わぬ遭遇に二人して目を丸くしてしまう。
「せ、先輩!」
「一ノ瀬君!?」
まさかここで出会うなんて何という偶然……。
二人で並んでプールサイドに腰掛ける。
「どうしてここに?」
「私は趣味みたいなものだよ。水泳は体に余計な負担がかからないし」
そうなんだ。でも考えてみれば先輩はプロのスポーツ選手なんだもの、水泳はトレーニングにうってつけなのかもしれない。
「君は?」
「……実は……」
正直に話すのはちょっと恥ずかしいけど、嘘をつくような必要もない。
僕は素直に理由を話す。泳げないこと、体育の授業のために練習しに来たこと。
「……というわけなんです」
「そうだったのか」
「はい」
僕は静かに頷いた。高校二年生にもなって泳げないなんて普通なら馬鹿にされてもおかしくない。そうならないために練習しに来たのにな……。いかんせん少しも進歩しないし……。
いったい何が原因なのかな。
「僕運動は全然駄目で……」
「なら、私が指導しようか?」
「えっ? でも……」
「大丈夫。どうせ一人だし、ただ泳ぎに来ただけだったから」
そう言うと先輩は着ていたパーカーを脱ぎベンチへ置く。中から体のラインが浮き出る競泳水着が露わになった。僕は直視できず思わず目を逸らしてしまう。だって……。
「じゃあ、まずは一度泳いでみてくれるかな」
「は、はい!」
僕はまず自力で泳いでみせた。
当然この数分で急に泳げるようになるわけがなく、さっきまでと同様全く前に進まず沈んでしまう。すぐに僕は苦しくなり泳ぐのを中止した。
「ぶは! はあ、はあ……!」
「ふむ……」
「こ、こんな感じで全然泳げなくて……」
僕の泳ぎ――とも言えないような一連の行動を見ていた先輩はしばらく考え込んでいた。そして何かに気が付いたように僕に近づく。
「一ノ瀬君、まずは浮くことから初めてみよう」
「浮く……ですか?」
「ああ」
言われるがままにうつ伏せに浮かんでみる。それなら僕にも難なくできた。
「その感覚を忘れないで。そのまま……」
すると先輩は僕のお腹を手で支える。当然沈むことはなく、浮かんだまま。
これはいったい?
「先輩?」
「さっきの感じ、君は無駄に力が入りすぎている。もっと力を抜く必要があるな」
「そ、そっか……!」
無駄な力か……。言われてみるまで気が付かなかった。けど今思えば泳ごう泳ごうという気持ちが先走りしすぎてムキになっていたのかもしれない。
お腹を支えてくれているおかげで今はリラックスして浮かんでいられる。
「このままバタ足してみよう。力を入れすぎないように」
「は、はい」
言われた通りバタ足をしてみる。できる限り力を抜いて。
そうか、この感じなのか。さっきよりもよっぽどそれらしい形になっているような気がする。
「よし! 今の感じを忘れないように!」
なんとなくだけど少し自信がついてきたように思えた。
「じゃあ一段階レベルアップしようか」
「はい」
次に何をするかというと、先輩は僕の手を引く。そのまま先ほどのように僕はバタ足してみるというものだった。
実際に泳ぐ動きにかなり近い形になる。
「いいかい? さっきの感じを忘れずに!」
「は、はい」
息を落ち着かせまずは浮かんでみる。力を抜いて、楽に……。
「よし、いこう!」
「はい!」
そのまま足を動かしていく。大丈夫、ここまではうまくいっているんだ。このままいけば泳げるようになるはず!
そんな時だった。
「――」
とある声が耳に入り気になってしまった僕はつい足を止めてしまう。
「どうした?」
「いや、ちょっと……気になっちゃって……」
これだけの人がいれば話し声くらい聞こえてくるのはおかしくない。けれど今のは明らかに……。
今もこうして耳を傾ければ聞こえてくる。
「姉弟かな? かわい~」
「俺より年上なのに泳げないんだ」
「お母さん、あの人泳げないの?」
「こら!」
そんな声がどうしても耳に入ってきてしまう。いつもならこんなこと気にならないんだけどな……。泳げないのがいっそう羞恥心を強めているのかも。
それにこの間までも視線を感じていたことはあったけど、あの時は教室の中くらいだった。けどここはそれより多くの人がいる市民プール。環境が拍車をかけているのか、まるで全員が僕を笑っているように……。もちろんそんなわけはないのは分かってる。誰もが悪意を持っているわけではないんだって。
でもこんな状況ではさすがに……。僕だけが笑われる分にはまだいいけど、そこに先輩を巻き込んでしまうのが僕は耐えられない。
先輩には申し訳ないけど、あとは僕一人で別の日にでも練習しよう……。その方が迷惑もかからないよね……。
「……あ、あの、先ぱ――」
断りを入れようとした瞬間、先輩は俯く僕の頬に両手で挟むようにしてくる。そして強制的に視線を僕の方へ向けた。痛くはないけどあまりにも突然のことで……。
先輩はそんな僕の目をしっかりと見つめている。
「せ、先輩……?」
「余計なことは考えず、私だけに集中するんだ」
その真っすぐな瞳に僕は圧倒されている。頬にふれる先輩の手の感覚は胸をじんわりと熱くさせた。
「私のことだけ見ていれば、自ずと雑音や戯言は聞こえなくなる」
「……」
僕を笑う周りの人達の話し声を戯言と言ってのける姿はかっこよくて、でも僕にはできなくて。けれど何だか胸の奥から元気が湧き上がってきたように感じたんだ。
やっぱり僕はこの人に憧れてるんだ。その真っすぐさに、そのかっこよさに、そしてその強さに。
「大丈夫」
先輩はふと微笑む。それは温かさや優しさを包んだ笑顔だった。
「例えこのプールにいる全ての人が君を笑っても、私だけは君を笑わない。だから私だけを見ているんだ」
「先輩……はい!!」
もう周りに気を取られない。少なくとも今だけは……先輩だけを見ている。
意を決し再び泳ぎ始める。今度はずっと先輩を見ていた。すると本当に周りの人達の声は耳に入ってこない。これなら……!
「よし、、そのまま!」
「はあ、はあ……!」
元々体力のない僕がバタ足を続けていれば当然体力が削られていく。段々疲れてきて苦しくなってきた……。
も、もう、だめ……。
「自分に負けるな! 私が……私が付いてるから!」
その言葉を受けた僕は最後の力を振り絞る。大丈夫、今は先輩がいてくれる!
「はあ、はあ……!!」
さすがに限界が訪れ体勢が崩れる。息も荒く疲れも物凄い。こんなに疲れたのはいつ以来だろう。
……で、いったいどのくらい進んだのかな? 息を荒くしたまま振り返ってみる。すると……。
「……こ、こんなに……」
僕が元いた場所から五、六メートルは進んでいた。先輩が手伝ってくれたとはいえこんなに泳げたんだ……!
嬉しさにちょっと感動していた瞬間、先輩が僕を勢いよく抱き寄せた。
「一ノ瀬君! やったじゃないか!!」
「せ、先輩!」
「あ……す、すまない……」
「いえ……」
すぐにはっとなり僕を離してくれた。お互いに目を逸らしながら。僕も先輩も犬飼さんほど積極的ではないから……。
◇
「大分泳げるようになったね」
「はい!」
あの後もプールが終わるギリギリまで練習を続けていた。そのおかげでかなり泳げるようになったと思う。さすがに一日で完璧にとはいかなかったけど、今日だけで十分進歩できた。
「この調子で練習すれば体育には間に合うんじゃないかな」
「そうなるように頑張ります」
「ああ」
先輩は歩きで来ていたため自転車を押しながら二人で並んで歩いている。段々暑さが顔を見せてきているためか、蒸し暑さを少しだけ感じていた。
「先輩、本当にありがとうございました。僕一人じゃ絶対あそこまでできなかったです」
「いいや。力になれたなら良かったよ。それに、これで体育祭の蓮君よりは一歩リードできたかな?」
「いやあ……」
あの時の蓮ちゃんと比べることは一概にはできないけど……今日の先輩も僕には刺激が……。だってあ、あんなに体のラインがはっきりしたものだったし……。いや、競泳水着ってそういうものなんだろうけど……。
「体育祭の蓮ちゃんは……まああれでしたけど……」
「ふふ。まあ色々あったけど、楽しかったのは間違いないね」
「そうですね」
「本当に……参加できて良かったよ」
気のせいかな、声のトーンが少し重くなったような?
「先輩?」
「去年は試合があって参加してなかったし、何より……」
遠くの景色を見つめる先輩は微笑んではいたけれど、寂しい一面も感じさせる表情だった。理由はそのすぐ後に先輩の口から語られることとなる。
「……今年が最後だったから」
「あっ……」
そうか、僕はいつの間にか当たり前のように感じてしまっていた。いやそれ自体は無理ないのかもしれない。僕はまだ二年生だから来年も高校生でいられる。けど先輩は違う。三年生の先輩は今年で最後なんだ。体育祭も、学園祭も……。
今こうして並んで歩いているようなこともなくなるのかな……。
「じゃあ、私はここで」
「は、はい。ありがとうございました」
軽く手を振り先輩は別れ道を歩いていく。
「……」
僕はそこから動くことができないでいる。遠く、小さくなっていく先輩の後ろ姿を見ていることしかできなかった。
先輩と一緒にいられることを当たり前だと思っちゃダメなんだ。僕や犬飼さん、蓮ちゃんにとってはそうではなくても、先輩にとっては僕達と過ごす日々に限りがある。
あの人はどんな風に毎日を過ごしているんだろう。僕は……そんな人に……。
気持ちにはっきりと整理が付けられたわけではない。でも確実なことは一つ言える。
僕は……先輩ともっと一緒にいたい。その気持ちには嘘はない。
閲覧ありがとうございます!
今回はかなり初期から考えてた話でして、ようやく出せたことが嬉しくてしょうがないです。
思えばもう50話以上やってんのか…。
感想、評価、レビュー、ブクマ大歓迎です!
次回もよろしくお願いします!




