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女伯ジャックと海の騎士 - Keukenhof's Kroniek -  作者: 辰波ゆう
第十一章 我が望みはひとつだけ
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2 ついに心の堰が切れ

 

 ひとりもいない。ただのひとりも選ばれてない。

 

 フランクはがっくりしていた。選ばれたのはひとり残らず、「ブルゴーニュの」廷臣だ。ホラント、ゼーラントのものは、ひとりもいない。自分自身も選ばれてない。そこまではいい。たいした家の出でもないし、そこまで自惚れてもいなかった。選ばれるかもしれないとすら、まったく思っていなかった。

 けれどほかの名前を見たら、「外された」としか思えない。この男が選ばれるなら、なぜおれは、と思ってしまう。金羊毛騎士団の二十五人の騎士たちは、「実績」で選ばれている。家柄ではなく血筋ではなく、実力で選ばれている。無爵の騎士、(セニョール)の称号しかないフランクレベルの領主たちも、かなり名を連ねている。


 善良公の宮廷は「フランス」だ。おれは利用されたのだ。


 フランクは痛感していた。金羊毛騎士団は、「ブルゴーニュの騎士団」だ。つまり、フランス語を話す騎士たち。ブルゴーニュ公国は「フランス」の封土であり、その王家ヴァロア家の分家でもある。フランス語が公用語なのも当然だ。フランクだってフランス語に不自由はない。それでも訛りはいまだに抜けない。ひとこと喋れば母語でないとはっきりバレる。

 ブラバン公には重用された。ヨハン伯にも重用された。財務を任されただけでなく、ゼーラント、ホラントの総督にまで任命された。善良公にも指揮官に命ぜられ、騎士に叙され、海軍提督にも命ぜられ、確かにいい気になっていた。だが、ヤコバの負けが確定的になったころ、「総督」から外された。その時はむしろほっとした。肩書きが増えすぎて、さすがにきつくなっていたから。代わってその地位を得たのは、ブルゴーニュの廷臣だった。フランドルのひとだから、ディーツももちろん話すだろう。だが話すのを聞いたことは、一度としてない。家名をもしフランス風に変えていたら、おそらく気づかなかっただろう。このひとは「二十五人」に入ってる。金羊毛騎士団に、その名前を連ねてる。けれど自分は外されている。

 善良公の宮廷で力を持つのは「ブルゴーニュの廷臣」たちだ。後から版図に含まれたホラント、ゼーラントのものは、自動的に格下だ。そう思うと、騙されたような気さえしてくる。善良公というひとは「ネーデルラント」を重視している。その点は間違いない。評価はしてるが「下」には見ている。騙されたわけじゃない。自分が愚かだっただけだ。

 ヤコバ姫を思い出す。ディーツ語で本を読んでた、あの「ジャック」を思い出す。ブルゴーニュの母の血よりも、ホラントの父の血が濃い。だからこそ、父フロリスも姫についた。その父が裏切ってヨハン伯についたからこそ、ヤコバ姫は敗北したのだ。ヨハン伯はフランスの血はひいてない。

 苦い思いがまた蘇る。あの時あそこで裏切らなければ、ブラバン公を叔父ヨハンにつかせなければ。いや、それは違うはずだ。姫の負けが決定的になったのは皇帝ジギスムントのせいなのだ。あの皇帝が姫から伯位をとりあげて、ヨハンのほうに与えたからだ。もしも姫の側にいたら、おれも死んでいたはずだ。アルケルのヴィムのように、ハームステーデのリックのように、そしてヴァンフリートのように。


 ヴァンフリートは自白した。ヨハン伯の時祷書に、毒を塗ったと自白した。けれど死因はそれじゃない。ヨハン伯が亡くなったのは、写本に塗られた毒ゆえではない。ランベルトが言ったことを今更ながら思い出す。「矢毒」も使ったと言っていた。死因は多分そっちです。あのセリフを思い出す。姫の矢で負傷したとき、あいつは「毒」を心配していた。矢に毒が塗られていたなら、おれはおそらく死んでいた。けれど毒はついてなかった。姫は毒など使ってなかった。

 ハーグ宮の図書室で、ベリー公の手稿をめくる。これを見るのは久しぶりだ。今はここも善良公のものになってる。ここの書架にあるものも、すべて公の所有になってる。ヨハン伯が亡くなった頃、絵師ヨハネスは姿を消した。死者へのミサの葬礼の図は、亡くなる前に完成している。ヴァンフリートの刑死の頃から、ヨハネスは描き出した。別の誰かの葬儀を見たから。ヨハネスはそう言っていた。

 棺の上の天蓋にある紋章は、もちろん注文どおりになっている。ウィレム伯の紋であるはずなのだが、その弟ヨハン伯の紋にも見える。「紋章」としての図ではない。細密挿絵(ミニアチュール)に描きこまれているとても小さな紋章だ。どちらのかは明確ではない。ヨハン伯の死を祈願して? 不吉なことを思ってしまう。この絵を彼が描いていたのは、まさにそういう時期なのだ。毒を盛られたヨハン伯が、日に日に衰弱していた頃なのだ。

 だがそんなはずはない。描かれたとおりに実現するなら、「生誕」だってかなっているはず。ヨハン伯の奥方は、結局子どもはできてない。「生誕の図」は、あれからずっと見ていない。ヴァンフリートが刑死した後、とても見れなくなってしまった。あの部屋は知っていたし、描かれているひとたちだって良く知っている。奥方のベアトリス、そして子ども。赤ん坊には会ってないが、上の子なら何度も会ってる。遊んでやったこともある。

 そっとその頁を開く。その子がこっちを向いている。腕を広げてこっちを向いて、にこにこしている。手前にいる犬と猫も、あの家にいたやつだ。猫は威嚇するように、こっちを見てる。だが右手の女性は誰だろう。立派な服を着てるから、身分あるひとのはず。その手にガラスの瓶があり、中には何か入ってる。無色透明な液体が、三分の一ほど満たしてる。卓の上には水瓶とガラスのコップに銀の皿。ワインのような液体が入ってる。ガラスの嵌った奥の窓には紋章がある。

 初めてそこに気が付いた。黄色地に三つの赤玉。これは彼の紋じゃない。ヴァンフリートが住んでた家は、彼が建てた家じゃない。そういえば借りていると、言っていた……


 心臓がバクバク言いだす。重要な人物を見逃している。この紋を持つ人物ならば、クスリに縁が深いはず。その絵のフォリオを持ち出してランベルトのもとを訪ねる。確かちょうどこっちにいたはず。


「右手の女性は聖母マリアだ。この絵の主題は『洗礼者ヨハネの生誕』。その場合、ここには聖母を普通描く」

 ランベルトはすらすら答えた。

「それは知ってる。だがヨハネスは、君の弟は」

「『聖母』だけは、生身のモデルは使ってない。さすがに『普通に』描いたようだね」

「これが『普通』か? 聖母マリアはクスリ入りのガラス瓶を持っているのか?」

「そこんとこは、『ほんとにそう』だったらしいよ」

 童顔の絵師がにっこりとした。

「ぼくもよくわからないけど、お産に使うものらしい」

「じゃあ、この紋章は?」 

 窓に描かれた紋を指差す。黄色地に赤い玉のついた、右側の紋章だ。

「赤い玉は、『丸薬』じゃなかったか? つまりこの紋章を使うひとは」

 ランベルトは大袈裟に息をついた。

「やっぱ、気がついたか」

「つまり、この家の家主は」

「マルグリット・ド・ブルゴーニュ。ヤコバ姫の、お母さん」

「え?」

「つまり『今』の持ち主。この時はまだそうじゃない」

 ランベルトの眼が真剣になる。

「細かいことはぼくもよく知らないし、あんたも知らないほうがいい。毒薬なんか、あんたに用はないはずだ」 

「どういう意味だ?」

「前にもぼくは言ったはずだ。彩飾絵師ならクスリ屋には縁があるし、毒物のことも知ってる。もちろん毒としてじゃなく、絵具として使うために」

「つまり君は、真犯人を知っていたのか? 矢毒を使ってヨハン伯を殺したやつを」

「殺したやつが誰かは知らない。だけど窓の紋章で、気にはなってた。だけどそれを言い出せば、『あんた』にも嫌疑が及ぶ。こないだ言ったとおりだよ」

「そいつの名は」

「あの家を建てた薬屋はとうの昔に亡くなっている。だからこそ、マルグリットの所有になってる。姫ではなく、姫のお母さんの所有」

「つまり、黒幕は」

「『矢毒』を使った実行犯が誰かは知らない。でも黒幕のほうは知ってる。今はもう断言できる。姫じゃない」

「姫じゃなくて、伯妃さま?」

「もう伯妃じゃないけどね」

 フランクは肘をつき、頭を抱えた。「ヨハン伯」は、「黒幕はヤコバだ」と言った。ヨハン伯にはそのほうが「都合が良かった」。だから拷問させたのだ。「言わせたいことを言わせるために」。そして同時に断言もした。毒の入手先は「マルグリット・ド・ブルゴーニュ御用達の」の商人だと。「イングラント」とは言ってない。

 「生誕の図」はヨハン伯も当然見ている。黒幕は母親のほうだと確信しつつ、「ヤコバ」だと言い切った。毒を使うような女は、女伯にはふさわしくない。ヨハンはそう思わせたかった。ほかでもないフランクこそが、誰より強く思い込んだ。


「だけど、これで良かったんだ」

 慰めるような口調で、絵師が言った。

「あんたが姫の側にいたら、そして死ぬ気で闘ってたら、たぶん戦はまだ続いてる。そして次の嵐が来たら、みんなまとめて流される。ゼーラントもホラントも、まとめて海に還るだろう」

「ランベルト、君は」

「最初の洪水、覚えてる? 一四〇四年にあった、聖エリザベト大洪水」

「覚えてる」

「ぼくのほうがあんたよりも年上だ。あの頃あんたはほんの子どもだったはずだけど、ぼくはもうフランドルの工房にいた。あの洪水のあと、フランドル女伯、つまり無畏公のお母さんは大堤防を作らせている。無畏公はちょうどあの年ブルゴーニュ公に登位していて、そのあとさらに改修している。だからこそ、ぼくらは無畏公を支持したんだ。暗殺やらせるやつであっても」

 大堤防のことは知ってる。フランドルを海から守る大堤防は、無畏公の名がついている。

「ゼーラントとホラントはずっと戦続きだった。だから堤防はぼろぼろだ。フランクも、そう言っていたよね?」

「毒殺を命じたのは姫じゃない。断言できると君は言った。その根拠は?」

「あんたの姫が、そんなことをするはずがない」

「真面目に答えろ」

「そんなことをするやつだったら、勝負のときにこそ使う。善良公を狙ったあの矢に、使わないはずがない。あんたに当たったあの矢には、毒なんか塗ってなかった。あんたがあそこで身を挺して庇うとは、姫は絶対思ってなかった。あんたが敵にまわるとは、姫は」

「ゲントですでに、おれは敵にまわってる」

「姫はそうは思ってなかった。『逃亡への助力』だと、姫はほんとに信じていたんだ」

 あの手紙を思い出す。嘲笑だと思ってしまった、あの手紙を思い出す。

「旅籠屋に預けた手紙は姫の紋で封印がされていた。あれは公式の感謝状だ。あれを持ってあんたが姫の陣に来るのを、姫は本気で待ってたはずだ。『わたしの騎士』とあったのは、そうするつもりだったからだ。あんたに約束していたんだろ? 救い出せば、騎士にしてやる。姫はあんたに言ってたんだろ?」

「あの時やっぱり聞いていたのか?」

「信じないかもしれないけれど、聞いてなかった。睦言を盗み聞くのは趣味じゃないし、友だちのなら絶対イヤだ。だけど姫は、聞かれてると思ってた。だからこそ、あんたがああ応えたと思ってた。それで間違いないと思う」

「だけどノーラは」

「あの手紙を旅籠屋に届けたのは、たぶんあんたの妹だ。姫を助けに来た兄を、彼女は誇りに思ってた。そして彼女は『ぼく』のことも、協力者だと思ってた。だけど途中で気がついた。『ぼく』だけでなく『フランク』も『敵』なんだって」

 兄さまは裏切りものよ。ノーラの声が、また耳に蘇る。あの旅籠屋についたときの、ノーラの顔が蘇る。不思議そうな顔をしていた。どうしてここなの? そんな顔で眺めてもいた。

「いつ気がついたのか、そこはぼくもよくわからない。だけど姫には言ってない。もしも姫が知ってたら、あんなキケンな真似はさせない。そのあとの行動だって、説明つかない」

 つまり誤解だったのか? 利用されたと思ったのも、おれのただの思い込みか?

「あのときのあんたの会話、つまり姫と交わした会話、侍女のひとりが聞いていた。このひとは善良公の愛人だから、当然全て報告してる。そして最近、ぼろっともらした。フランク・ファン・ボールセレはずっと前に、『騎士』になれていたはずなのにって」

「もしもあの時、姫を救い出していたら」

「今も戦が続いてる。あんたがまだ生きていたらね」

 ランベルトの眼が妙に光った。

「あの時ぼくは言ったはずだ。『もしも姫の側につくなら、フランクでも容赦はしない』って」

「姫の側についていたら、君がおれを殺していたのか?」

「ぼくもあんたも殺されていた。だからああ言ったんだ。ぼくにあんたは殺せない。ぼくはただの絵描きなんだよ?」

 そう言って見上げる顔は、無邪気に見える。もういい年のはずなのに、今だに少年ぽく見える。けれどただの絵描きではない。ずっと前からそれは知ってる。

「フランク。『白い花ブランシュフルール』を覚えてる?」

 ぎくりとして絵師を見る。

「『フロリスとブランシュフルール』?」

 砂丘の城で出会ったときに、姫が読んでいた本だ。

「ぼくが初めてあんたのために、描いた絵だ」

 心の中で息をついた。ノーラのために写した本に、描いてくれた扉絵だ。囚われの姫君ではなく、その名を絵で表していた。華麗な檻に閉じ込められた、一輪の白い花。花弁の先がつんと尖った異国の花だ。不思議な気品と妖艶が、凝縮された一枚の絵。

「ぼくが出会った騎士の子は、あの話が好きだと言った。そしてぼくが描いたあの絵も、とても好きだと言ってくれた。その騎士の子が恋する姫は、フランクの『白い花』は、ヤコバ姫じゃなかったのか?」

「いくら好きでもどうにもならん。それは何度も言っただろうが!」

「物語の王子さまも、身分違いの恋だった。それでも諦めたりしない。ちゃんと姫を取り返してる」

「あのふたりは最初から相愛だった。おれは違う」

「フランク、姫は」

「おれは姫を裏切った。そして姫は、全てを失うことになった。許してもらえるはずがない」

 今の姫の財政は、堤防どころか自分の居城の補修もできない。財務官であるフランクは、それを良く知っている。ヤコバ姫の財産管理も任されて、その帳簿に眼を覆った。文字通りの借金地獄。誰よりも、金勘定ができてない。

「ヤコバ姫が破綻したのは、あんたのせいなんかじゃないよ。あのひとは妙なところでひとが良すぎる。釣り針党の残党とか未亡人とか、かわいそうな遺児たちとかに、気前よく金をやってる。気になるんなら、ちゃんと言ってやればいいのに」

「言うって、何を?」

「あのひとの借金だって、あんたが立て替えたんじゃないのか?」

「なんでそれを知っているんだ?」

 絵師は肩をすくめて見せた。

「ヤコバ姫の借金を、どっかのお人よしが代わりに返した。そんなことをするやつが、そんな金があるやつが、あんたのほかにいると思うか?」

「そもそもおれの父のせいだ。姫の領地を質にとり、ブラバン公に金を貸してた。返済はいまだにないままだから、領地のあがりはずっとうちに入ってる。立て替えた借金なんか、あれを思えば端金だ」

「実権を失くしても、ヤコバ姫は今も『女伯』だ。その暮らしができる領地は、善良公は残したはずだ。善良公は姫のことを嫌っていない。従妹でもある姫のことは、善良公も尊重してる。それなのに破綻したのはあんたのせいじゃありえない。高貴なるお姫さまには、金勘定なんかできない」

「おれなら立て直してやれる。だが」

「だからそう言ってあげれば? 窮地の姫は助けてあげなきゃ。フランクはほんものの『騎士』なんだから」

 写本絵師はにやにやとした。

「それとも、怖くて行けない?」

「ランベルト!」

「あれ? ほんとに図星?」

「怖いわけないだろうが!」

「じゃあ、今からでも行ってくれば?」

「今からって」

「実はぼく、急ぎの仕事が溜まってるんだ。お悩み相談はこれでおしまい」

 からかうような軽い口調にきっぱりと追い出され、フランクは立ち尽くした。

 

 怖いなんて、言いたくなかった。そして何より会いたかった。

 ほんとはずっとそうだった。側にいろと言われたかった。だが一度も言われていない。ここからわたしを救い出せ、そう言ったときでさえ。


 だからずっとこらえていたのだ。自分の気持ちをとどめようと、心にせきを築いていたのだ。けれどもうこらえきれない。心の堤は綻びはじめ、想いはもう抑えきれない。おれの想いは忠誠じゃない。臣下としての愛じゃない。おれは姫が欲しいのだ。そして独占したいのだ。それはムリだとわかっていたから、ずっと自分をこらえていたのだ。けれどもうこらえきれない。ムリだろうがなんだろうが、おれは姫を愛してる。この想いはとどめられない。








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