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2 姫の進撃

 脱出後のヤコバ姫の行動は、鮮やかとしか言いようがない。あの驚異の速駆けは序章に過ぎない。


 善良公の叱責を受けていた頃、ヤコバ姫の一行はすでに一艦隊も同然だった。出港の折にはごく小型の帆船一隻きりだったはずが、次の報告ですでに五隻。フランクの本城シント・マールテンスダイクを過ぎる頃には艦列を成していたうえ、ヤコバの旗をあげた船が船体を寄せる形で「挨拶サリュート」までしたらしい。城のものは和議がなってのこととみて、むしろ歓喜で見送っている。城主たるフランクも同乗だと思ったものすら、少なくなかった。

 あちこちの港から、あるいは潜伏していた島から、次々船が集結していた。報告だけは次々に届いていたが、交戦の報告はない。指揮官が不在の上に、船はすべて地元のものだ。あまりにも堂々と通っていくから逃亡には見えなかったし、「逃亡」が知れた頃には手出しできない艦隊にふくらんでいた。そしてわずか二週間で、ゴーダを陥落させている。攻め落としたというよりは、口説き落としてあったのだろう。ゴーダの町はヤコバを正しい女伯と認め、恭順をあらたに示した。

 ゴーダ郊外の城に本拠を据えたヤコバ姫は、本格的な侵攻を開始する。まずはスホーンフーヴェンの町を包囲、十月には手に入れている。ゲントの城を脱出してから、二か月と経ってない。続いてアルフェンの戦い。どの戦もヤコバ自ら指揮を取り、そしてここまで連勝だ。たかが女と侮ったものたちは、ただぽかんとしているだけだ。そしてフランク自身だって、軍行動は許されぬ身。ブラバン公の「お守り」をしながら経過を追っているだけだ。


 姫の味方につくものは、予想外にたっぷりといた。釣り針党だけではない。善良公に不満を持つもの、善良公に反発するもの。彼らを巧く取り込んでいく。そしてユトレヒト司教ルドルフ。善良公の手はユトレヒト司教領にも伸びている。だからこそこの司教もヤコバを支持し、戦をも後押ししている。ホラントの人心は、ヤコバのほうに傾いている。伯領は姫のものだ。正しい伯位は姫のものだ。民心を取り戻したなら、やはり姫こそ正しい女伯。また心が揺れ始めていた。まんまと裏をかかれた時には、ノーラを利用された時には、あれほどきっぱり否定したのに。

 ノーラは無事だ。手紙に返事はくれないが、夫のもとには帰りついてる。そのあとの行方については母は承知しているらしいが、フランクには教えてくれない。ホラントは善良公のものじゃない。ノーラのセリフが耳について離れない。兄さまは、裏切りものよ。涙をためたノーラのあの眼が、脳裏にちらつく。そして「夫」の動きも不明だ。もとが釣り針党だから、姫についてもおかしくはない。


 姫の言葉を思い出す。ホラントはわたしのものだ。ハンフリーなどいなくとも、自分の力で取り返してやる。借りるべき手はイングラントの軍勢ではなく、わたしを正しい女伯と認めるわたしの臣下であるべきだ。

 

 『我が騎士フランク

   そなたの助力、心より感謝する。

   完全なる愛をこめて、ジャック』


 握りつぶしたはずの手紙を、懐から取り出した。姫の手なのは間違いないが、日付と場所は書いてない。いつ書かれたものなのか、そして誰が届けたのか、そのあたりもわからないまま。あのときは、嘲笑だと思い込んだ。けれどほんとにそうなのか? おれは本来、姫の臣下だったはず。心からの忠誠を、確かに一度は誓ったはずだ。


「ずいぶんと、うわの空だな」

 耳元でささやかれ、飛び上がりそうになる。

「これはブラバン公閣下、お越しに気づかず失礼を」

 平静な声を繕い、手紙を手で覆い隠した。すんなりとした手が伸びてきて、フランクの手に重なった。女のように華奢な手が、ごつい手を押しのける。

「やはりヤコバと、『僕の妻』と、連絡をとっているわけだ。しかも『完全なる愛をこめて』?」

「この手紙は一方的に、送りつけられてきたものです。そして意味がわからない。おれは姫の騎士ではないし、助力もしてない。そして何より、姫はおれなど愛していない。貴方との初夜のとき、立ちあわせたくらいですから」

 嫌味を込めて言ってやったが、この男には通じない。

「お前はしっかり助力している。妹に手引きをさせて、脱走を成功させた。捕えると称して兵を出し、『僕の妻』と合流するはずだった」

「それが貴方の命令だった。そういうことにしましょうか?」

 言ってやると、きょとんとした顔になる。

「『貴方の妻』は、善良公フィリップさまに横取りされて幽閉されていたのです。摂政たるこのおれに奪還を命じても、不思議ではない。善良公がお疑いをもたれたら、それだけで十分に」

「僕は命令なんかしてない!」

 甲高い声がさえぎる。整った小さな顔にはっきりと怯えが浮かび、ぴくぴくと痙攣している。この男は善良公が怖いのだ。自らも「ブラバン公」の称号を持ち張り合えるはずの男が、誰よりも怖がっている。

「あんなじゃじゃ馬、喜んでくれてやる。あんなのに乗れるのは……」

 震え声で言いかけて、唐突にニッタリとした。

「フランクも、乗れないな」

 ブラバン公のか細い指が、フランクの指輪に触れる。今もはめたままでいる、姫から拝領した指輪。

「こんな指輪を遣すのも、思わせぶりな手紙を書くのも、お前の気を引くためだ。ボールセレが金持ちなこと、あの女はよく知っている」

「閣下、いい加減に」

「けれど乗せることはない。騎士ですらない下賎のものに、身を与えることはない。それをはっきり教えるために、ヤコバはお前に立ち会わせたんだ。思い上がったフランクを、戒めておくために」

 手がびくびく震えだす。自分のさっきの失言に、心の中で悪態をつく。

「ヤコバが身を許すのは、王家の血をひくものだけだ。下賎な胤をぶちこまれるのは、ガマンできない屈辱だからね」

 そしてまたニヤリと笑う。

「ブラバン公たる僕でさえ、あの女には不足だった。だから王子さまのところに走った。金も力も十分にある、男前のハンフリー。そうそう、その話をしに来たんだった」

「グロースター公ハンフリーは『妻』を捨て、ほかの女を連れて帰った。姫とはもう関係がない」

「そんなことはない」

 らしくないほどきっぱりと、ブラバン公は言い切った。

「『あれ』はただの芝居だろ? フィリップさまとの決闘を、避けるための」

「決闘?」

「決闘したら負けちゃうだろう? だってヤコバはこの僕の『妻』なんだから」

 大きな眼を見開いて、ブラバン公は言い切った。腹立たしいほど澄んだ瞳が、不気味なほどに虚ろに見える。まさかこれは本気なのか? 本気でそう信じているのか?


「フランクは本当に、面白いな」

 ブラバン公は呟いた。

「とても賢い男のくせに、ヤコバにだけは簡単に騙される。あのじゃじゃ馬は、誰のことも愛さない。僕のこともお前のことも、そしてほかの全ての男も」

「閣下、それは」

「ヤコバが男に近づくときは、欲しいものがある時だ。もちろんそれは『愛』じゃない。欲しいものが手に入ったらその男は用なしになる。そのくらい、ほんとはお前もよくわかってる」

 虚ろな瞳で語る言葉は、まるで預言が神託だ。

「僕はお前が大好きだ。摂政にするくらいにね」

 そしてぎゅっと手を握られた。はっきりと鳥肌が立つ。


「大好きなフランクに、いいことを教えてあげる。ハンフリーの大艦隊が出航の準備をしている。『妻』たるヤコバの要請で、ネーデルラントを攻めるために」






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