1 善良なるフィリップ
「申し訳ありません」
檀上に鎮座したフィリップ善良公の前に、フランクは平伏している。ヤコバ姫の逃亡は、いまや誰もが知る事実。釈明に出向くところではあったのだが、その前に呼び出された。阻止に失敗したわけだから、処罰は覚悟せねばならない。
「ブラバン公摂政及び財務官の職は、返上させて頂きます。このボールセレの私費と私兵で、必ず姫を捕えてみせます」
「そうきたか」
善良公はニヤリと笑った。
「その前に、現場にいた君の口から改めて経過を聞きたい」
薄青い眼が冷たく光る。
「白昼堂々、正門から脱出された。私はそう聞いているが、本当か?」
そうウワサになっている。「正門」から城を出たのは本当らしい。
「早朝未明に男装で、おひとりきりで出られたそうです」
「『男装』は真実なのか?」
「はい」
善良公はその細い眉をひそめた。
「伴も連れずにひとりきりで? 誰にも見咎められることなく?」
「番兵いわく『よくあること』と思ったそうで、『顔』もまともに検めてない。歩哨もたくさん立っていたのに、誰ひとり止めていません。おれもここが解せません」
「なるほど」
善良公は息をついた。
「ヤコバなら、男装も似合うだろうな。つまり、城内で一夜を過ごした『小姓』に見えた」
「確かに、小姓のようなお姿だったそうです」
自分自身も見ていることは、とりあえず伏せている。追わずに逃がしてしまっているのは、できることなら伏せておきたい。
「迎えに来ていた騎士は五騎と言われていますが、確証はありません。朝の開門とほぼ同時に市門を抜けて、そのまま東へ疾駆していったそうです。その後二時間たらずでアントウェルペンまで到着し、ただちに乗船しています。信じられない速さですが、ここは間違いありません。ゲント市の門を出ている時刻と、アントウェルペン出航の時刻、どちらも複数の証言があり確実です」
「そこはもうたっぷり聞いた。さすがは我が従妹ヤコバ姫、舌を巻く機動力に馬術だな。私に同じことができるか、正直不安だ。君ならばできるか、フランク?」
「おれも自信がありません。装甲なら不可能です」
「なるほど。着甲してなかったわけか」
「そこは実ははっきりしません。『騎士』と表現されるからには、無防備ではないはずですが」
「乗船した船というのはゼーラントのものと聞いているが?」
「ゼーラントの釣り針党、ハームステーデのものだそうです。漁船貨物船の転用ではなく、モトは海賊船だった船。軍艦として作られたものでこそありませんが速度と機動性なら最高の、小型の帆船。やられたとしか言いようがない」
「そのようだな」
「ですが、ボールセレにも船はあります。そしてこれは確実ではないのですが、次に向かうのは『ゴーダ』だという情報が」
ノーラがそう言っていた。「スロイス」は違っていたが、最終目的が「ゴーダ」というのは十分ありえる。確かに釣り針寄りの町だし、城壁をもつ豊かな都市だ。手に入れて本陣とするには恰好。
「だが、ゴーダに行くなら東のアントウェルペンからの乗船は」
「もともとはスロイスからの計画だったが、そちらが巧くいかなかった。そうおれは踏んでいます。スロイスの対岸は、ボールセレ本家の本拠地。そしてアントウェルペンは、おれの領地というわけではない。そしておれはゲントにいました」
「船を出せる場所にいたなら、むざむざ逃しはしなかった。つまりそう言いたいわけか?」
「今からでも遅くない。これから船を総動員し、必ず姫を捕えてみせます」
善良公フィリップは立ち上がり、フランクのすぐ前に降りてきた。背をかがめて手を伸ばし、フランクの顎をつかむ。凄い力で顎を掴み、上を向かせる。薄青い色の瞳が、まっすぐに射すくめる。
「君に姫が捕えられるか?」
脅すように尋ねられ、すぐには返事が出てこない。
「姫を捕えて縄をかけ、私の前に引きずり出せるか? そして私に献上できるか?」
言葉がもう出てこない。
「実は、私もできなかった」
射すくめていた薄青い眼が、唐突に色を変える。からかうような表情になり、口元もほころんでいる。
「ほんとはそのつもりだった。ついに降伏させたとき、縄を用意させていた。けれど私はできなかった。あの華奢な手首を見たら、そんな気は失せてしまった。このわたしが怖いのか? そんなものをかけずとも、わたしは貴方の手のうちにある。あの従妹にそう言われ、その通りだと思ってしまった。力づくで押し倒すなら抵抗などできはしまい。手こずらせてくれた礼にたっぷり可愛がってやる。そう決めたはずだったのに、結局何もできなかった。からだよりも心が欲しい。柄にもなく思ってしまった。私の従妹はすこぶるつきに魅力的だ。君はそう思わないか?」
フランクは返事ができない。
「総力あげてヤコバを捕える。君は私にそう言った。私に献上するためか?」
思わず眼を逸らしてしまう。
「私の従妹がはすこぶるつきに魅力的だ。君はそう思ってる。女好きのこのフィリップは必ず手を出すだろう。君はそうも思ってる。実際そうなるかもしれない。もしヤコバが望むなら」
そこまで言って、善良公は手を離した。
「私の従妹はけして淫乱ではないが、貞淑な女でもない。そして恋の悦びを、ヤコバはすでに知っている。ヤコバにつけた侍女たちもお堅い女は選んでいない。城内での逢引きも、侍女たちには構わぬと言ってある。愛する男に裏切られたヤコバだけに、独り寝を強いておく。鎖をかけていたぶるよりも、そのほうがより効果的。そのあと甘く誘惑すれば、私なら多分落とせる。そう思うとわくわくしてきてしまってね。とても縄などかけられなかった」
軽い声で言いながら、またフランクを覗きこむ。
「公、お戯れはそのくらいに……」
たまらず声をあげたとたん、善良公は高笑いした。聞こえる声は楽しそうだが、眼は全く笑っていない。はっきり恐怖を覚えた瞬間、ぴたりと笑い声が止った。
「フランク・ファン・ボールセレ。君に姫は捕えられない。今の君の反応で、よくわかった」
フランクも同じだった。おれに姫は捕えられない。献上など絶対できない。そうはっきり悟ってしまう。
「君は軍務から外す。指揮官の座は、下りてもらおう」
「お言葉ですが、それではゴーダは」
「姫の狙いが『ゴーダ』であるなら陸からでも防衛できる。そして君には別の仕事があるはずだ。財務の仕事、そしてブラバン公のお守り」
「公」
「君は本来ヤコバの臣下。君の母と妹は、長く姫の侍女でもあった。揺れる気持ちはわからいでもない。だからこそ、これ以上の処分はしない。けれど軍務は許さない。二心を隠しているものに、指揮などさせるわけにはいかない。勝手なマネをする気なら、許可なく私兵を動かすならば、叛意ありと受け止める」
黙ってぐっと唇を噛む。
「私は信じているよ、フランク。今は心が揺らいでいても、君は必ず私を選ぶ。ヤコバではなく私を選び、このフィリップの騎士となる」
驚いて顔をあげた。
「よって君の妹も、不問にしておく」
善良公と呼ばれるひとは爽やかに言い切って、フランクを下がらせた。




