6 兄と妹
逃亡に手を貸すものは、極刑を覚悟せよ。
そう指示を出したから、「ノーラ」に手引きさせたのか? 思うと心が怒りで震える。兄の犯した裏切りの罪、妹で購えと?
「ノーラ」
震える声で妹を呼ぶ。ぐずぐずしている時間はもうない。
「好きなようにしろと言ったな?」
「言ったわ」
震える声がきっぱり応える。
「これからお前をあるところに連れていく。もう兄でも妹でもない」
「上等ね。覚悟の上よ」
言葉だけは勇ましいが、腰が砕けそうになってる。運河に飛び込む心配はない。
「おれの名は、一切出すな」
「出すもんですか。裏切りものの兄さまなんか、あたしは要らない」
力を込めて櫂を使い、向きを変える。
そろそろ皆が起き出している。急がなければ間に合わなくなる。焦りながら櫂を操り、ある宿の裏につける。運河に面した船着き場を持つ、何度か使った小さな旅籠。万が一のときのために、ここに馬を預けてあったのだ。木戸を強く五回叩く。それが合図。
「ここは……」
ノーラが小さな声をあげた。
「黙ってろ。そして名は絶対名乗るな」
「でも」
けげんな顔で見回している。もちろんここは牢屋ではない。ノーラを捕えさせてたまるか。イェハンの二の舞になど、させてたまるか。
そこでようやく扉が開き、旧知の男が舟を中に引きいれた。
「巧くいったか?」
男が低い声で尋ねる。
「失敗した。このひとだけ逃がしてくれ」
「そのひとだけ? あんた、恋人をさらいに来たんじゃ」
「だから、失敗したんだ」
「説明してくれ。よくわからん」
「悪いがそのヒマがない。今すぐ馬をひいてくれ。このひとのぶんだけでいい」
「どういうこと? あたしもよくわからない」
「あなたの芝居で助かった。やつらは今頃捕まっている」
ノーラがごくりと唾を呑んだ。
「意味がわかるな?」
ノーラの芝居がなかったら、一悶着していただろう。フランクの言うとおりにせよ。馬のところで待っていろ。ニセの姫の言葉に従い、やつらは今頃捕まっている。姫も当然承知のはずだ。そして見捨てているはずだ。自分を助けにきたものたちを、まんまと囮にしたわけだから。
「旦那?」
旅籠の男が不審げな顔になる。
「そのひとは追われてる。おれのせいで」
「ああ」
男がニヤニヤしはじめた。
「つまり、二股ってやつですかい?」
「ぐずぐず言わずに馬を引け! じきに鐘が鳴りだすはずだ。閉門されたら、このひとは」
言いながらもう気が気ではない。いくらなんでも、姫の侍女全員が逃亡幇助はしていまい。「朝」になればバレるはずだ。姫がいないことがわかれば警鐘が鳴らされて、市門のすべてが閉じられる。検問で見つかればノーラは……
「つまり、警鐘? 旦那、あんたの『恋人』はまさか」
「ほかの男に拉致された。『警鐘』はそっちを捕えるためで、このひとじゃない」
男はゴクリと唾を呑んだ。
「おれはそっちを取り返しに行く。だがその前に、このひとは逃がしたい。ここからなら市門はすぐだ。頼む」
「わかった」
男も慌てた顔になり、厩に向かう。
「あたしのこと、逃がしてくれるの?」
男がいなくなったのを見て、ノーラが囁く。
「あなたの身は必ず守る。おれは約束したはずだ」
「兄さまは、姫さまの後を追うの?」
「行先を、知っているのか?」
「ゴーダ」
「ゴーダ?」
ホラントの都市を挙げられて、おれは息を呑みこんだ。遠すぎる。
「乗船は?」
「スロイス」
妹の肩を抑え、その眼を見つめる。多分ウソはついてない。ノーラはそう信じてる。
「情報を感謝する」
「え?」
大きな眼がより丸くなる。そしてはっきり震えだす。
「誰のことも信用するな。どちらからも狙われていると自覚しろ。そしてあの淫婦には、二度と近づくんじゃない。まっすぐ夫のもとに行き、貞淑な妻でいろ」
大きな眼から涙がこぼれる。
「もう兄でも妹でもない。そのことも忘れるな」
「旦那!」
馬を引いて男が呼んだ。妹を抱き上げて馬に乗せ、男に金貨を握らせる。
「市門まで送り届け、必ず外に出してくれ。残りは戻ってきてからだ」
そこで鐘が鳴りだして、男は慌てて手綱を引いた。市門はすぐ眼と鼻の先。一本道で、ここから見える。
「巧くやれ」
祈るように呟いて、妹の背を見送った。




