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女伯ジャックと海の騎士 - Keukenhof's Kroniek -  作者: 辰波ゆう
第九章 対決   Anno 1425
33/55

3 甘美な誘惑

 聴罪師の変装で、フランクは「牢獄」に潜りこんだ。ランベルトは侍僧として同行し、先導をしてくれている。聴罪師は毎回違うものにせよって、善良公が指示したんだ。絵師はそう言っていたが、どうやらそれは本当らしい。番兵はランベルトの顔だけ検め、フランクの顔は見ようとしない。ランベルトが連れてくるなら、誰でも出入りできるわけだ。

 ものものしい跳ね橋を渡り薄暗い通路を通り抜けると、意外に広い中庭に出る。重い扉をいくつか潜ると竪琴の音がかすかに聞こえる。流麗とは言えない音色は、素人が弾くからだろう。昔ノーラが弾いていたのを思い出す。巧いとはとても言えない。けれどそれが微笑ましかった。笑っちゃイヤだとノーラがむくれ、楽器を放りだしてしまった。姫さまも、竪琴はお弾きになります。一度書いてきたことがある。お上手だとは、書いてなかった。そんなことを思い出す。

 もう一度検問があり、奥の間へと通される。調度が良く整っていて、確かにとても贅沢だ。フランクの私室などより、はるかに豪勢。灰色の石の壁はタペストリーに覆い隠され、陰惨は感じない。どっしりした毛織物の壁掛けは色鮮やかで華やかで、細かく絵柄が織り出されている。明るい色の草の上には小さな花が咲き乱れ、背景をなしている。草上で語り合うのは着飾った若い男女。木陰には小鳥が遊び、リスやウサギも戯れている。貴婦人の間にふさわしい、優美な装飾。

 見惚れていると愛らしい侍女が現れ、ランベルトと言葉を交わす。フランス語でなくディーツ語で、上品にやりとりしている。侍女は別の部屋に消え、じきに姫が現れた。すらりとした優美な肢体を流行のドレスに包み、頭には凝った形の被り物。縁には真珠がずらりと並び、額の上に煌いている。胸元には宝玉の首飾り。中央に光っているのは、大粒の紅玉ルビーだろう。その周囲に煌く石は、ダイヤモンドに違いない。贅をこらしたいでたちは、どう見ても囚人ではない。

 囚人どころか女王さまだ。気品あふれるおとなの女性、蕾ではなく咲き誇る、大輪の花。少年ぽさなどかけらもなければ、武装姿も連想できない。姫ももう二十四になる。そのことを、思い出す。艶やかなる貴婦人はフランクの顔を認め、嬉しそうな笑みを浮かべた。まさに満開の微笑みだ。フランクは息を呑みこみ、硬直している。もうすでに魅入られている。


「久しぶりだな」

 親しげなその声に、ぎこちなく頭を下げる。震えそうになるのをこらえ、胸に手を置き頭を垂れる。


「ではぼくははずします。時間になったら、合図の鈴を鳴らしますから」

 ランベルトは低くささやき、さっさと外へ出てしまう。ふたりきりにされてしまうと、心臓がばくばく言いだす。石の壁に、反響しそうなくらいに強く。


「告解を、伺いに参りました」

 なんとかそう繕った。

「懺悔すべきはわたしではなく、おまえじゃないのか?」

 語調は以前と変わらない。声もさほど変わらない。

「今日のおれは『聴罪僧』です」

 言い切ると、気持ちが少し落ち着いてくる。

「おまえはわたしを裏切った。その釈明はしなくていいのか?」

「『己のすべきことをなせ』 姫の仰せに従ったまで」

「おまえはすべきことをしてない」

 姫の眼が、強く光った。

「わたしがおまえに求めるものを、おまえはまるで分っていない」

「姫がおれに求めるものは、あの写本の完成でしょう? ベリー公の遺志を継ぎ、あれを必ず仕上げろと」

「ヨハンのもとに行ったのは、そのせいなのか?」

「当然です」

 これはけしてウソじゃない。

「それは貴女の命令だった。おれの使命と思っています」

「『わたしを』描かせたというのは本当か?」

「能う限り、最高の絵師の手で」

「ヨハンに頭を下げるわたしを?」

「貴女は退いたのだと思った。王子さまの手をとって、イングラントに退いたのだと」

「見くびるな!」

 低く厳しく姫が言った。細い眉がきりりとあがり、青い瞳が光を放つ。

「伯領は、わたしのものだ」

「勝ち取ったのは、『善良公』です」

「あの従兄は泥棒だ。なんの権利もない土地を、言葉巧みに奪取している。ホラント、ゼーラントだけじゃない。エノーだって、フランスだって!」

「貴女の夫もそう言って、善良公に挑戦をした。神の裁きの決闘を、善良公に申し込まれた。そして」

 ここで言葉が止ってしまう。決闘は、実現してない。ハンフリーは決闘せずに、イングラントに帰ってしまった。それは「ノーラの」せいなのか?

「あれは神のご意志ではない。イングラントの揉め事は、ハンフリーには放置できない。だからわたしが行けと言った。ハンフリーは、イングラントの摂政だ」

 姫の声がいくらか弱いが、非難の調子は消えている。

「ホラントはわたしのもので、ハンフリーのものではない。ホラントの反乱は、わたしが鎮めねばならない。借りるべき手はイングラントの軍勢ではなく、ホラント、ゼーラントのものであるべき。わたしを正しい女伯と認める、わたしの臣下であるべきだ」

 おれはまた頭を下げる。

「父上が亡くなったとき、わたしはまだ小娘だった。だからこそ母は自分の兄に頼り、ブルゴーニュの力を借りた。けれどそれは間違いだった。もうわたしは子どもではない。ハンフリーなどいなくとも、自分の力で対峙してやる。ブルゴーニュを打ち破り、わたしのものを取り返してやる」

 また深く頭を下げる。姫の言葉はとても正しい。けれどそれは到底ムリだ。ブルゴーニュの善良公は先代よりはるかに手ごわい。本家たるフランスさえも、善良公に牛耳られている。

「侍女をひとり、連れて行ったと聞きました。それでおれは」 

 なんとかそれだけ口にした。おれがやらせたわけではないと、それだけは伝えたい。姫がふっと笑みを浮かべる。哀しげなようにも見えるが、安心したようにも見える。ただ心を突かれるような、寂しげな笑み。 

「おまえが気にすることじゃない。家族が関わるものがあり、その娘も一緒に行かせた」

「その娘が、エレオノーラ?」

「エリノアだ。ロンドンから連れてきた、私の女官。彼女の兄が、騒乱の只中にいる」

 おれはほっと息をついた。「ノーラ」ではない。似た名前を持つ別の侍女。ならばおれには関係がない。やはりあれは神のご意志か?

「いずれにせよ、決闘はなされなかった。神の裁きが怖くなり、貴女の夫は破棄された」

「『わたしの夫』はブラバン公じゃなかったのか? おまえもそう宣言したはず」

「では、『貴女の情夫』だ」

 ヤコバ姫はわなわなとした。フランクも心が咎める。ブラバン公との結婚は無効だと、「法王」は確かに言った。そして何よりフランク自身が後押しをした。囚われの身となる前にイングラントに船出しろ。フランクがそう言ったのだ。王子さまと幸せになってくれ。小娘みたいな想いをこめて。


「姫」

 フランクは恭しく膝をついた。

「貴女は今囚われの身です。この待遇にいくらか安堵いたしましたが、この先はわからない。『ブラバン公』の手にあるのなら、おれにもまだなんとかできる。けれど貴女は善良公の手のうちにある。貴女をどう扱うかは善良公フィリップさまのお心ひとつ」

「善良公など怖くない」

 ヤコバ姫ははっきり笑った。無理に作った笑顔ではなく、自信に溢れた力のある笑み。

「あれはわたしに手出しできない。あの従兄こそ、このわたしを怖がっている。このわたしに魅了され、服従してしまうのを」

 あの従妹に会ったものは誰もが魅入られ、そして服従してしまう。確かにそう言っていた。善良公本人が、はっきりと。

「子どもの頃、何度か一緒に遊んでやった」

 無邪気なジャックの顔になる。

「わたしより四つも年は上のくせに、あの従兄は怖がりだ。スケートは、わたしが教えた」

「スケート? ですか?」

「フランクはスケートも知らないのか?」

「氷を滑る、スケートですか?」

「あたりまえだ。ホラントの女伯なら、スケートくらい」

 ホラントの娘なら、もちろんスケートくらいする。だが、高貴なるこの姫が? 

「貴女にスケートを教えたのは」

「アルケルのヴィム」

 意外な名前に言葉が出ない。アルケルの? ヴィム?

「そのときは、互いに素性を知らなかった。『ジャック』は男のふりをしてたし、ヴィムのほうも名乗らなかった。滑りたがってる妙な子どもに、親切に教えてくれた。わたしは筋がいいらしく、一度もこけたことがない」

「それは、いつの話ですか?」

「スヘルデ川が凍った年だ」

 そういえば、一度凍ったことがある。フランクもまだ、少年だった頃の話だ。池の水なら毎年凍るが、川は滅多に凍らない。滑れるほどに凍りついたら、ホラント人ならスケートをする。普段は行けない遠くの村まで、スケートなら滑って行ける。どこまで行けるか競い合ったりするものらしい。

「フィリップに教えたのは、おまえに会った年の冬だな」

 パリで会ったときの姿を思い出す。ぴちぴちの脚衣をつけた、若き日の善良公。あの少年が、あのジャックにスケートを教わる図。想像するとなんだかおかしい。善良公への畏怖の気持ちが、すっと萎む。

「滑れると思って滑れば、ちゃんと滑れる。わたしが言ったらあいつはえらく感動していた。その通りだったから」

 このセリフにどきりとした。姫ができると言い切れば、確かにできるような気になる。必ず勝てと言われたら、本当に優勝もした。

「勝てると思って闘えば、勝てるチャンスは高くなる。皆が死ぬ気で闘えば、不利な戦も必ず勝てる。そして正義の戦であれば、誰もが命を賭けて闘う。わたしこそが正しい女伯だ。だから勝てる」

 このひとが言い切ると、確かにそうだと思ってしまう。そして皆が命を賭けて、そしてみんな死んでいく。おれはもう見たくない。そしてもう、殺したくない。

「わたしはまだ負けてはいない。わたしの味方はいくらでもいる」

 このセリフで我に返った。

「おれは貴女の味方ではない」

「もしもわたしが拷問を受けていたら、もしもわたしが火刑台の上にいたら、おまえが助けに来てくれる」

 自信ありげに言い切られ、フランクはわなわなとした。悔しいがその通り。いてもたってもたまらずに、確かに今ここにいる。ランスロットの真似事を、いまだにおれはやりたがってる。  


「フランクはわたしの騎士だ」

 低い声で姫がささやく。

「ホラント女伯、ヤコバの騎士だ」

「まだ騎士じゃない」

「わたしをここから救い出せ。そしたら騎士に叙任してやる」


 姫を見上げる。

 おれを見つめる姫を見上げる。姫の手で、騎士となる。はっきりと心が揺れる。ヤコバ姫の騎士として、最期まで闘うか? これは甘美な誘惑だ。姫のためなら命だって惜しくない。この気持ちは真実だ。すべてを棄てて、姫のために戦うか? 負けることがわかっていても、勝てぬ戦と知っていても? 


 姫の白い指が伸び、フランクの頬に触れる。熱を帯びた青い瞳が、フランクをじっと見つめる。

 薄く形の良いくちびるが、はっきり紅く色づいている。妖艶なくちがゆっくり動き、フランクの名をささやいている。「わたしの騎士」と呼ぶ声に、おれはもう抵抗できない。白く輝く歯列の下に、濡れた舌がちらりと見える。そして姫の指先は、おれの頬に触れている。おれの肌をゆっくり滑り、やがてくちにたどりつく。フランク自身のくちびるに、姫の指が触れている。姫の爪が歯に触れて、おれの口を開かせる。姫の細い指先が、舌の先に触れそうになる。陶然となった瞬間、ちりんと鈴の音がした。はっと我に返ったそのとき、姫ははっきり舌打ちをした。企みを邪魔された、魔女の舌打ち。体温が、一気に下がる。


「おれは貴女の騎士にはなれない」


 姫の手をぐいとつかみ、フランクは声をあげた。

「貴女は正しい女伯ではない。はかりごとをめぐらして、敵は毒で消してきている。色仕掛けで男を操り、命までも棄てさせている。そんな淫婦に仕えたくない」

「フランク!」

「以前はずっと打ち消してきた。そんなはずはないと思った。けれどもう信じられない。貴女の言葉は信じられない。今も貴女は誘惑している。貴女の夫がどっちなのか、確かにおれにはわからない。けれどこのおれじゃない。夫のある身でありながら、このおれを誘惑している。今、この手が!」


 姫の手を振り払い、からだを離す。これはただの色仕掛けであり愛情ではない。そのくらい、わかっていたはず。

「確かにわたしは夫ある身だ。誘惑など、してはならない」

 宙に浮いた姫の手が、眼の前でかたかた震える。


「姫の告解、確かに承りました。聴罪師の義務として、お話の内容は必ず守秘いたします」


 僧服姿のフランクは言いきって、囚われの姫の前を辞した。そして自ら指令を出した。ブラバン公の摂政ルワードとして、厳重な指示をした。ヤコバの警備をさらに固め、監視の数も増やすように。あの女は逃亡を企んでいる。手を貸すものは、極刑を覚悟せよ。

  






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