2 待ち伏せ
適当な偽名を使い、ゲントの町の門をくぐった。
やみくもに来てしまったが、本名は名乗れない。ブラバン公の名を出せば面会は可能だろうが、善良公に筒抜けになる。奪還するつもりなら、それはマズイ。姫の夫は「ブラバン公」だ。おれはその摂政だ。無体な目にあっているなら、おれがお救いするべきだ。けれどそのあと守り抜けるか? 善良公に対峙できるか?
自問すると身がすくむ。目の前にそびえているのは「善良公の牢獄」だ。濠の向こうに屹立している黒灰色の石の要塞。周囲はぐるりと濠が取り巻き、その向こうは高い壁。開口部は細長い矢狭間だけで、窓はない。侵入は不可能だ。屋上部分の壁の上はお定まりの凸凹型で、あの後ろにも兵は当然いるはずだ。いずれにしても、あの壁を登るのはムリ。濠のこちら側にだって、監視の目が光ってる。
この城の警備は厳しい。普段でも、かなり厳しい。ゲントの町は自治権を持ち、自前の裁判権も持つ。通常の犯罪ならば、「ゲントの町」が処理をする。この城に繋がれるのは、そこで処理できないものだ。もっと重い罪を犯した、権力者への反逆者たち。つまりより重要な囚人だ。あるいはより重要な、秘密を知ってしまったもの。法ではなくて、権力者の怒りに触れたもの。この城に連行されて、生きて戻ることはない。過酷な責めに耐えたとしても、あるいは無実であったとしても、生きてここから出ることはない。町のひとが憎み恐れる、圧制の象徴だ。
姫にそれはないはずだ。一生繋ぎはしないだろう。姫を拷問台に乗せ、責め苛みもしないだろう。いくらなんでもそれはない。思いながらも震えてしまう。けれどここは「そういう場所」だ。「フランドル伯の城」は宮殿ではなく「牢獄」だ。伯に逆らうものをぶちこむ、陰惨な牢獄だ。「フランドル伯」の称号も、善良公が手にいれている。だから今は善良公の持ち城で、「善良公の牢獄」だ。持ち城は山ほどあるのに、あえてここに閉じ込めた。脅すためだとしか思えない。脅しても効かないならば、実行にも移すだろう。思ったとたん思い出す。ヴァンフリートが責められるさま。そして破壊されていくさま。今なお門に晒されている、かつては頭だった肉塊。ハーグ宮のあの門をくぐる度、思い出さざるを得ない地獄。フランクの心をも、確かに壊してしまった記憶。まだ生きているフランクは、今もずっと悪夢に見ている。
「フランク」
低い声に振り返る。修道服の男が軽くうなずき、目配せをした。視線の先に槍兵がいる。そしてこちらに近づいてくる。
「今すぐにここを離れて」
「御坊はおれを知っているのか?」
男はまたうなずいた。そしてくるりと踵をかえし、すたすたと歩き出す。
衣の裾から覗く足は痩せていて、修道士らしいサンダルを履いている。だが妙に歩みが速い。速いようにも見えないのだが、ついて行こうとすると速い。角を曲がるともうずっと先にいる。そしてまるで音を立てない。サンダル履きにもかかわらず、ぱたぱたと音を立てない。この歩き方、「素人」とは思えない。修道服を着ていても、ただの坊主じゃないはずだ。緊張を覚えながら、足を進める。おれの名前を知ってる以上、ただものではありえない。けれど殺気は感じられない。体格も細っこく、戦士にも到底見えない。すたすたと隘路を進むが、あやしげな通りでもない。小さな町家がずっと続く、迷路のような裏道だ。
聳えて見えるはずの城は、いつの間にか視界から消えている。どこからも見える教会の塔さえも、ひとつも見えなくなっている。気が付くと、両側ともに「家」じゃない。窓も扉もない「壁」だ。高い壁に挟まれた、細く続く狭い路地。太ったものとすれ違うなら、肩がつかえてしまうだろう。こんなところで待ち伏せでもされていたら。思ったとたん、修道服が足を止める。そしてこちらを振り返り、頭巾を払って顔を見せる。子どもっぽさが残る顔に、愛嬌ある笑みが浮かぶ。
「まさか、ランベルト?」
「御無沙汰してます」
「なぜ……」
「来るんじゃないかと思って張ってた」
昔馴染みの絵師が言いきる。
「あのひとが絡むときには、あんたは必ずバカをするから」
「え?」
「さっきだってしっかりバカやっていたでしょ? あんなにあからさまにウロウロしてたら、見つかるのは時間の問題」
「見つかるって……」
「あの槍兵は、怪しんでいた。そして『ぼく』には『見つかって』いる」
「ランベルト?」
「『敵方』に見つかってれば、あんたはまずいことになる。まあ、誰が『敵』だかぼくにもよくわかんないけど」
「間諜でもやっているのか?」
「相変わらずヤなこと言うなあ。ぼくは今でも写本絵師です。小遣い稼ぎをしているだけだし、それも前から変わらない」
「すまん」
確かにそれはその通り。フランク自身もいろいろ頼んだ。
「だけどあんたを張っていたのは、誰かの指示というわけじゃない。これはぼく自身の意志だ」
「君の? 意志?」
「ええと、つまり」
ランベルトは頭を掻いた。
「ぶっちゃけて言っちゃうと、姫に接触しようとするやつがないかどうか、見張るのがぼくの仕事」
「つまり、善良公の仕事をしている?」
「そこんとこは流石に言えない。だけど、この仕事を受けたのは『あんた』が来ると思ったからだ。ぼくはあんたに警告したい」
「警告?」
「姫はここで誰かを待ってる。モンスの町に籠城したのも、援軍を待ってたからだ。おとなしくここで捕まってるのも、その迎えを待っているからだ。あんたがその迎えになるなら、ぼくらが必ず阻止をする」
「このおれが、釣り針党に寝返るとでも?」
「姫にここで会ってしまえば、心は動くんじゃないのか?」
確かにそれはそうかもしれない。すでにおれは動揺している。「救出」は、考えている。
「酷い目には合わされてない。それは確かだ」
「善良公は」
「公はここにはまだ来ていない。姫だけをここに閉じ込め、自分の配下に監視させてる。姫についてる侍女たちも、公が自ら選り抜いている。身元も気立ても良い娘たちで、姫のお世話は行き届いてる。幽閉には違いないけど、丁重な扱いだ」
「どうしてそう言い切れる? 敵の配下に四六時中監視されるのが、酷い目じゃないっていうのか?」
「拷問もされてなければ強姦もされてない。そう言えばいいのかな?」
ランベルトは笑ってみせる。
「四六時中見張られるのは、姫はとっくに慣れっこだ。生まれ落ちたときからずっと、姫はそうだったんだから」
フランクは黙ってしまう。姫の動向、ノーラは逐一報告してきた。見張らせていたわけではないが、実質そう変わらない。
「そして誰が敵なのか、誰にもよくわからない」
「ランベルト、おれは……」
「あんたを責めるつもりはないよ。そもそもぼくこそ姫には『敵』だし」
絵師はまたにっと笑った。
「だけど『憎い敵』じゃない。なりゆきで『敵』なだけで、姫のことはキライじゃないよ。だからこそ、あんたを待ってた」
「意味がよくわからない。おれに何をさせたいんだ?」
「救い出せとは言ってない。そして『助ける』必要もない。姫は酷い目には合ってない。モンスに籠城してた頃よか、ずっといい暮らしのはずだ。広々とした豪華な部屋で、思いっきりゼイタクしてる。自由じゃないかもしれないけれど、お姫さまならそれが普通だ。高貴なるお姫さまなら、城の外には滅多に行かない。愛する男がいたとしても、会いになんか普通行けない」
「君は姫に会ったのか?」
「会ってる」
ランベルトはあっさり応えた。
「というか、見てる。姫に面会できる男は、司祭だけだ。だけどもちろんひとりじゃ行かない。ぼくも一応修道院に籍がある。聖バーフ修道院のものとして、司祭さんに付き添える。言葉を交わすのは無理だけど、姿は見てるし声も聞いてる。姫さんは、元気だよ」
すっと肩から力が抜ける。ヤコバ姫はここでご無事だ。鎖に繋がれてもいなければ、善良公に強要もされてない。
「そしてぼくが見る限り、無理強いしたりはしないと思うな」
「無理強い?」
問い返したフランクに、絵師はにやにやとした。
「あんたはそれを考えている。あんたの顔に、ハッキリそう書いてある」
言われて顔が火照りだす。
「善良公はとても女好きだけど、だからこそプライドもある。嫌がる女性を無理やりなんて、無粋なマネは死んでもしない。間男ハンフリーを攻撃した手前もあるし、やりたくてもガマンする。姫のほうから誘惑でもしない限り、何かあったりすることはない。そして姫が誘惑するなら、あんたが心配することじゃない」
言われてみるとそのとおり。
「どうしておれにそれを言うんだ?」
「姫のことが心配だから、ここまで来てる。そうだろ?」
そうだとは言いたくないが、その通り。姫の姿を一目見たい。自分の眼で確かめて、そしてひとこと申し上げたい。姫が降伏されたと同じく、おれも不本意極まりないのだ。けれどほかに方法はない。玉砕を望まないなら、降伏するより方法はない。善良公にはけして勝てない。勝てない戦はしてはならない。
「ヤコバ姫に会いたいんだろ? 命を落としかねないバカをやっても、ふたりきりで会いたいんだろ?『夫』ブラバン公の摂政としてじゃなく、昔馴染みのフランクとして」
そしてノーラのことがある。兄としては謝るべきだ。謝ってすむことではないが、黙って済ませるわけにはいかない。おれにだってプライドがある。おれがやらせたことじゃない。そして許せることじゃない。それだけは、弁明したい。
「どうしても会いたいんなら、手引きするのは不可能じゃない。だけどそれには条件がある」
「金、か?」
「違う」
ランベルトはきっぱり言った。
「姫にハッキリ言って欲しい。伯領は、諦めろって」
「伯領を、諦めろ?」
「姫はまだ諦めてない。『迎え』が来たら脱走し、再び軍をおこす気だ」
言われてゴクリと唾を飲む。
「あんたが足止めしていたやつら、あいつらは今どこにいる?」
冷水を浴びた気がした。あいつらは生きている。戦力はまだ十分にある。
ヤコバ姫降伏の報と同時に、釣り針党は撤退をした。撤退したと見えたからこそ、こちらも軍を退いたのだ。そしてハーグ宮に出向いた。やっと戦が収まるのだと。
「姫が諦めない限り、戦はけして終わらない。姫が再び軍をおこせば、馳せ参じるものはいる。けれど姫はけして勝てない。姫のもとに参じたものは、姫のために命を捨てる。姫のために命を捨てても、姫に勝ちは与えられない。無駄に死んでいくだけで、伯領はとりかえせない。善良公に、姫は勝てない」
言いながら、声が震える。そうなってしまったのも、おれのせいか? ボールセレが裏切らなければ、勝ちは夢ではなかったはずだ。
「それがちゃんとわかっているなら、姫にハッキリ言って欲しい。フランクの言葉なら、姫も耳を傾ける」
「それはどうかな」
「姫はあんたを信頼してる。あんたはウソがつけない男だ」
「おれは」
「そしてあんたは『現実』をちゃんと見ている。善良公にはけして勝てない。ヨハン伯なら可能性はあったけど、善良公には絶対勝てない」
「それは確かにそうだと思う。姫は」
「姫は勝てない。伯領はもう取り返せない。姫にはっきり言えるなら、姫のとこまで案内するよ。金は別にくれなくていい。ま、くれるんなら喜んで貰っとくけど」
「約束する。善良公には姫は勝てない。伯領はもう絶対ムリだ。ふたりきりで会えるなら、きっぱりそう言ってやる」




