1 囚われの姫
「降伏なさったヤコバ姫は、善良公のお手のうちです」
ハーグ宮で聞かされたとき、フランクはまず安堵を覚えた。ヤコバ姫は玉砕は選ばなかった。姫はご無事だ。
「正しい夫『ブラバン公』のもとに戻られた。そういうことだな」
呟きながら心が痛む。正しかろうがなんだろうが、あの結婚は「不幸」でしかない。ブラバン公は病んでいる。心が病んで干からびている。懐かれてしまったからこそ、断言できる。彼の「愛」は歪んでしか発動しない。束縛と嫌がらせでしか表現できない。あんな男のもとに戻され、そして自由も奪われる。降伏したものとして、幽閉の身に落ちる。けれどブラバン公ならば……
「姫さまは、『善良公』のお手のうちです」
フランクの古い従者は低い声で繰り返した。
「ブラバン公の居城ではなく、善良公の牢獄に」
「牢獄、だと?」
フランクは高く声を上げた。
「それも、『善良公』の?」
「ゲントにあるあのお城です。フランドル伯の城、グラーヴェンステーン。敗残の貴人たちが、繋がれてきたあの要塞。ヤコバ姫は女性とはいえ、危険極まりないお方。フランクさまも仰せでした。ヤコバ姫は必ず捉え、臣下たちとは引き離して厳しく監禁しておくべきと」
「だが、姫の夫はブラバン公だ。善良公も、そう主張されていたはず」
ブラバン公のもとにあるなら、便宜をはかることもできる。今のおれは「ブラバン公の摂政」だ。ブラバン公そのひとに、指名された摂政だ。けれど善良公のもとにあるなら、おれに手出しは不可能だ。善良公のご意志なら、おれにどうこうなどできん。姫に野心がもしおありなら……フランクは慌て始める。姫への「野心」はあるはずだ。本人が断言していた。欲しいとはっきり言ったじゃないか。
「ブラバン公との結婚は、姫ご自身が否定なさった。そして伯位と伯領も、今や善良公のものです。フランクさまもご承知の、密約どおり」
従者はさらっと言ってのけたが、フランクは「承知」ではない。
「密約とは、何のことだ?」
「ヨハン伯が継嗣なく死去の折には善良公が継承者となる。その条件で、善良公フィリップ・ド・ブルゴーニュさまはヨハン伯の側につかれた。つかせたのはほかでもない、ボールセレのフランクさまだと」
フランクは言葉も出ない。
「ブルッヘでの密会に、フランクさまも同行されていますよね? 善良公フィリップ閣下はフランクさまを以前からよくご存じで、御仲介はフランクさまによるものだと聞いてますが?」
ブルッヘでの密会? つまり、ブリュージュでのあの会合? 確かに伴を命じられ、善良公と再会をした。昔パリで会ったこと、善良公も覚えておられた。そして写本の話になった。ヤコバ姫が叔父に託した、ベリー公の祈願の写本……
「ブラバン公が摂政にはフランクさまをとおっしゃったのも、あの時の功ゆえでしょう? そしてハンフリーさまの件も」
従者が媚びた笑みを浮かべ、フランクはイライラしてくる。王子さまのもとへ行け。愛してくれる男のもとへ。確かにおれはそう言った。そこまでみな漏れているのか?
「ブラバン公摂政フランクさまの妹君が、イングラント摂政妃となる。お美しいノーラさまなら、イングラント……」
「何の話だ!」
ついに大きな声で怒鳴った。もう全く話が見えない。
「おれの妹エレオノーラが、なんでここに出てくるんだ!」
従者が慌てた顔になる。
「イングラント摂政はグロースター公ハンフリー。つまり姫の御夫君だ。その御夫君と、ノーラが関係があるとでも?」
胸倉をつかみあげ、従者を睨む。
「あ、あの……」
怯えてたじろぐ従者の顔に、フランクも我に返った。こいつは何か知っている。勘違いかもしれないが、何かとても重要なこと。それを喋らせねばならない。
「すまん。乱暴なマネをしてしまった」
従者を放し、穏やかな声を作る。
「人違いであるはずだ。おれには寝耳に水のことで、度を逸した。許せ」
従者がほっと息をつく。怯えのまだ残る眼で、主人を見上げる。
「おれの妹エレオノーラは姫の侍女をしていたが、今はひとの妻になってる。貞淑な妻となり、かつての主人ヤコバ姫にも忠心は失ってない」
だからもう返事をくれない。裏切った兄への手紙は、多分読んでもいないだろう。だからしばらく妹とは接触がない。今どこでどうしているか、それすら知らない。夫とはうまく行ってる。母からそう聞いてるだけだ。
「申し訳ありません。てっきりフランクさまのご指示だと」
震える声で従者が応える。
「違うのでしたら、別人かもしれません。イングラント摂政グロースター公ハンフリーという方は、ヤコバ姫の侍女だったエレオノーラという美女を連れ、イングラントに戻られました。ここまでは確実な情報です」
「姫の侍女を連れて戻った? 戦陣に姫を残して? 姫のための決闘すらも放棄して?」
従者が黙ってうなずいた。
ハンフリーに去られた頃から、ヤコバ姫は確かにおかしい。判断力がはっきり鈍り、どこか自棄になっている。ハンフリーが残っていれば、万が一にも決闘で勝っていれば、こちらが負けていたかもしれない。ハンフリーが決闘に勝ち、「正しい」ことを証明したら、そうしたら。
けれどそうはならなかった。ハンフリーは去ってしまった。だからこそ、ヤコバ姫は降伏する羽目になった。そこは確かに真実に違いない。心変わりされていたなら、それも自分自身の侍女に頼りの夫を寝取られたなら? その「侍女」は「ノーラ」なのか? おれの妹エレオノーラは、もう長く手紙をくれない。あんなに筆マメだったノーラが。
ハンフリーは「いい男」と聞いている。いろんなひとから聞いているが、ノーラからもたっぷり聞いている。唐突に、そのことを思い出す。昔ノーラが褒めていた。ウィレム伯の言葉も合わせて、手放しで褒めていた。外見も素敵だけれど、評判もとても高いの。ホンモノの王子さま。そんな感じ。うっとりしていたあの顔を、まざまざと思い出す。
ノーラが嫁いだ男のほうは、美形とはとても言えない。それなりの貴族だが、王家の血はひいてない。ノーラもイヤではなかったはずだが、恋ゆえの結婚でもない。そしておれが書いた手紙。返事をもらえなかった手紙。あそこにおれは書いたはずだ。ヤコバ姫が退かない限り、ゼーラントに平和は来ない。ゼーラントの領主の子なら、ゼーラントを守るべき。操よりも忠誠よりも、ゼーラントこそ守るべき。姫の敵に回ったおれは、妹にそう書いた。それから返事が来ていない。
「ハンフリーさまがイングラントに戻られたあと、姫は力を失われてます。信じたものに裏切られれば、当然とも思います」
心がまた疼きはじめる。おれは姫を裏切っている。ノーラまでも裏切ったなら……けれどおれが要求したのだ。ノーラの夫もヤコバ姫には加勢してない。敵にはまわってないまでも、後方支援はこちらにしている。もとは釣り針だったはずだが、今はこちらの陣営にいる。姫の敵の側にいる。
「姫の夫君を、姫の侍女であった妹君に誘惑させる。フランクさまの指示にしては下世話にすぎます。そんなウワサを間にうけて、申し訳ございません」
従者が深く頭を下げる。その通りだ。ノーラだってそう思うはず。けれど「ちょうどその時」だったら? 「ホンモノの王子さま」に、口説かれているときだったなら? くらっとしてしまったときに、あんな手紙を受け取ったなら? ホラント伯の庶子にだって、ノーラは身を許してる。さしていいとも思えない、庶子ウィルキンに処女の身を与えてる。おれの妹エレオノーラは貞淑なる聖女ではない。王子さまに口説かれたなら、きっと心は動くだろう。そうしろとおれが言ったら、言われたと思ったら、そしたらノーラは……
「フランクさま、余計なことを申しました。申し訳ありません」
「おれのほうこそすまなかった。話してくれて感謝している」
なんとかそう繕って、下がらせた。ひとりきりになったおれに、フランク・ファン・ボールセレに、もう理性など残っていない。すべてはおれのせいなのか?
絶望したヤコバ姫は、牢獄に繋がれている。姫が欲しいと言い切った、善良公に囚われている。そして今のヤコバ姫に、抗う力が残っているのか?
ヤコバ姫は玉砕を避け、投降している。最後まで側にいたものたちの、命乞いをするためだ。抵抗など不可能だ。姫はあいつのものになる。妾妃のひとりとしてですらなく、戦利品の捕虜として。そのすべてはおれのせいか? おれが裏切りノーラが裏切り、そして姫を追い詰めた。そして姫は繋がれている。あの城塞はおれも知ってる。見るからに厳めしい、恐ろしげな要塞だ。その地下にはおぞましい、拷問部屋も完備している。あの城に囚われたなら、無事ではけして出てこない。ゲントのひとが恐れ慄く、グラーヴェンステーン。姫は今、あんなところに。
いつかの姿が頭をよぎる。ブラバン公に組み敷かれ、きつく眼を閉じた顔。そして苦痛に耐える声。姫は今、あの城に繋がれている。牢獄に繋がれている。傷心のおれの姫は、今頃……
そのまま馬に飛び乗っていた。悪名高きゲントの城塞、善良公の城を目指し、ひとり馬を駆っていた。




