1 シント・マールテンスダイクの密会 Anno 1420
「ホラント伯閣下に拝謁かない、心より光栄に存じます」
前にいるのはヤコバではない。「ホラント伯」ヨハン・フォン・バイエルンの前に、フランク・ファン・ボールセレはその膝をついている。感情を押し殺し、その頭をさげている。
ここは自分の父の城だ。ゼーラントの本城の、「騎士の間」という大広間。灯りはあえて暗くしてある。明々とは火を入れず、控え目な燭だけだ。上座におわす「ホラント伯」ヨハン閣下も、いつかよりは地味な身なり。初めて会ったときよりは、目立たない服を着ている。
それでも大きな鼻は目立つ。大きな眼も大きな態度も、何を着ても変わらない。顔立ちは、兄である故ウィレム伯に確かに似ている。だが印象がまるで違う。高貴なる血筋のはずなのに、上品な感じはしない。「無慈悲公」のふたつ名が、ぴったり似合う容貌だ。司教冠より兜のほうがしっくりとする。清廉な僧衣ではなく、血濡れの鎧こそ似合う。そんな男に今膝をついている。頭を垂れて、悔しさを押し殺す。
「そなた、いつぞやの」
「手稿をお届けに上がったものです」
覚えていた。その一点に安堵する。でなければすべてが無意味だ。
「そうか。あの時の青年は、財務官ボールセレの息子だったか」
「フロリス・ファン・ボールセレの子にございます」
ホラント・ゼーラントの財務官。フランクの父の役職は、現在そうなっている。いつの間にそうなったのかは、フランクも実は知らない。今ここでヨハンと接触していることは、ヤコバ姫はもちろん知らない。いつかは知れることだろうが、できることなら知られたくない。この会合は裏切りだ。「あの時」とはもう違う。
「あの時は『司教さま』にお会いしました」
ヤコバ姫の命令で。心の中でつけたした。「司教さま」だったからこそ、姫は命じられたのだ。叔父の司教に手稿を届け、そして完成させるように。そしてヨハンも受けたはずだ。力になるとも言ったはずだ。
「あの時は、そのつもりだったのだよ」
もと司教はにったり笑った。
「リエージュ司教の座におればあれも進んでいたはずなのだが、皇帝より頼み込まれてしまってね」
「はい」
とりあえずうなずくしかない。「頼まれた」のは、神聖ローマ皇帝ジギスムントのほうだろう。兄の伯位は自分に継がせろ。「ヨハンが」そう強硬に頼んだはずだ。そして姪を裏切った。
「兄はヤコバを継承者に指名したが、やはりそれは法にそぐわぬ。はたちにもならぬ女子とあっては、認められんのも仕方あるまい。成年男子である私が継承するのが当然の理だ」
「はい」
ホラントが荒れてなければ、ゼーラントが機能してれば、ウィレム伯がもう少し、長く生きて下さったなら。こみあげてくるものを無表情で抑え込む。フランクももう少年ではない。
「ブラバン公は、なんと言っとる?」
「公ももうじきおみえになります」
冷静に応えているが、これは手酷い裏切りだ。ヤコバ姫にはこのヨハンこそ最大の敵。その敵と、姫の夫を組ませる陰謀。
ヨハンのほうも、今は密かに訪れている。ボールセレの小さな居城をお忍びで訪問している。この城は本当ならそぐわない。シント・マールテンスダイクのこの城は、高貴なるヨハンさまをお迎えするにはふさわしくない。だがこの男はそんなことは気にしない。ドルドレヒトもロッテルダムもこうやって取り込んだ。なびきそうなものには親しげに近づいて、ひとりずつ着実に自分の味方に取り込んできた。あの手腕は見上げたものだ。
フランクの父フロリス・ファン・ボールセレは、ヤコバ姫を見限っていた。あの姫ではどうにもならんし、あれはやっぱり釣り針だ。鱈を釣り上げ食い散らかして、そして潰してしまうだけだ。だから、見限る。すでに何度も口にしていて、息子と何度も争っている。母とノーラが戻されたとき、父の心はほとんど決まった。ブラバン公の随身としてメヘレンまで行ったとき、完全に切ると決めた。あの時の会合は「ブルゴーニュの会合」だった。ブルゴーニュの利益のために、ブラバン公を取りこむ企み。新ブルゴーニュ公フィリップとその叔母マルグリット・ド・ブルゴーニュ。その甥であるブラバン公。ヤコバ姫は出席してない。つまり、姫を外した会合だった。姫がいたなら成立しえない会合だった。このままでは我らの土地は、ブルゴーニュのものになる。フランスの、支配に落ちる。ブラバン公はなんとしても、こちらに頂かねばならぬ。フランクももう反論できない。
予定よりかなり遅れて、船がついた。側近随身に伴われたブラバン公はもうかなり眠そうだったが、緊張した面持ちでヨハンと会った。ヨハン・フォン・バイエルンは気楽な調子で語り掛け、これからは力になると言った。ブラバン公はほっとした顔になり、お願いしますと言って笑った。溺れかけていたものが、やっと救いの手をつかんだ。そんな表情。
彼らが警戒している相手は、ブルゴーニュ公フィリップだ。登位前は、シャロレ伯フィリップだった男。写本絵師ランベルトが「キケンな男」と恐れたフィリップ。ボールセレにも警戒すべきはこのフィリップだ。この危険な男はどういうわけか「善良公」と綽名がついた。「善良公」が油を注げば間違いなく戦火は広がる。そして無意味な油は注がぬ。まさに危険すぎる人物。
無畏公のあとを継いだこのひとこそが、「フランス」をも掌握している。父無畏公を殺された「善良公」フィリップは怒り狂い、犯人たる王太子シャルルを廃嫡にした。精神を病むフランス国王シャルル六世にとって代わり、イングラントと条約まで結んでしまった。それもとんでもない内容だ。イングラント王ヘンリー五世にフランスの王女を与え、「フランスの」摂政とする。さらにはこのヘンリー五世を「フランスの王位継承者」とする。シャルルの母イザボー王妃もここはきっちり署名している。自分を追放したシャルルなど、もう息子でもなんでもない。あれはただの私生児で、王の血なぞひいてない。ほかでもないフランス王妃が、確かに生母であるひとが、自らそう署名したのだ。フランス王女の産むイングラント王の子こそが、正しく「フランス王の孫」になる。サリカ法などくそくらえ。女系だろうがなんだろうが、こちらこそが「正当」だ。これが一四二〇年、五月の調印。トロワ条約というやつだ。
そして九月。善良公は動きを見せた。ブラバン公の弟をブリュッセルに送り込み、ヤコバ姫への援軍とした。しかしこの弟は、最初から「駒」。今は亡き無畏公がその手元で育てあげた、優秀なる「ブルゴーニュの駒」だった。姫はこの男を将として、叔父ヨハンに軍を向けた。だがこの軍は「ブルゴーニュ」の軍なのだ。「ホラント」の利益など考えてない。その後ろで糸を引くのは、ブルゴーニュの善良公。「フランス」の、影の支配者。
ヨハン・フォン・バイエルンこそ、「ホラント」を掌握している。これは「既成事実」だった。ホラントでもゼーラントでも、ひとの心はすでにヨハンのものだった。客観的に見るならばこちらにつくが得策だ。ホラントを考えるなら、ゼーラントを考えるなら、「フランス」の手は絶対にとってはならない。




