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3 崩壊

 フランクの目から見ても、敗北はもう明白だった。さらなる抵抗を試みた姫もついに停戦に合意して、ウォウドリヘムの和約がなった。伯位は姫のものとして残り、ヨハンの方は実権を手に入れる。不本意な結果ではあるが、とりあえず戦はおさまる。「恥の戦よりは恥の平和を」姫はそう言われたそうだが、まさにその通りだった。

 そして戦が終わってみれば、「気に入らない夫」だけが残った。ノーラの手紙を読む限り、そうとしか思えない。あの戦を思い出しても、あの「初夜」を思い出しても、当然だと思ってしまう。ノーラの言を信用するなら、どうやら二度目はないらしい。寝室はもちろんのこと、同じ町で一夜を共に過ごすことすら滅多にない。たまにそういうことがあると、すかさずノーラが書いてくる。モンスの町から手紙が届いた。


「ブラバン公はファンデンベルフの言いなりです」


 ファンデンベルフ。この名はよく耳にする。ブラバンの廷臣だからか、姫に仕えるもとからの廷臣たちとはソリがあわない。だが、ブラバン公の信頼は異常なまでに厚いらしい。

「だからみんな、ファンデンベルフの御機嫌とりに必死。ウィルキンさまはこのひとがお嫌いだから、何かと衝突しています。ウィルキンさまだけじゃないわ。ブラバン公は好きじゃないけど、このひとはもっとキライ」


 その直後、事件が起こった。嫌われ者のファンデンベルグが刺殺され、犯人としてそのウィルキンが捕まった。

 ウィルキンならやりかねない。ノーラは好意を寄せているが、小汚い手を使う男だ。おまけに思慮が浅い。すぐばれるウソをついたり、見え透いた小細工をしたりしていた。トーナメントの時だって。その上、倫理とか道徳とかいう観念もない。あいつならやりかねない。正直、そう思ってしまう。

 この男はウィレム伯のたくさんいる庶子のひとりで、ヤコバ姫には腹違いの兄にあたる。だから黒幕はヤコバ姫に違いない。ブラバン公はどういうわけか、そう思い込んでしまった。そして、子どもじみた意地悪を開始する。ねちねちとしたイヤがらせは逐一ノーラが報告したが、思い出すのも虫唾が走る。しかも、姫自身ではなくて、姫の侍女たちにやるのだ。当然姫は抗議をしたが、涼しい顔で公は応える。「そんなこと、させるはずがないでしょう?」と。

 これは姫のセリフの真似だ。ファンデンベルフを殺したとして激怒して抗議したとき、ヤコバ姫は「すまして応えた」。姫からしたら呆れ果ててのことなのだろうが、ブラバン公にはそれこそ証拠と思えたらしい。報告して来るノーラの手紙を開くことすらだんだん苦痛になってきて、斜め読みするようになった。

 祝宴の御馳走が、姫の侍女には給仕されない。空の皿だけ並べられ、いつまで待っても料理は来ない。外出の予定の日には、馬車も馬も消えている。そんな子どもじみたことと思うが、ノーラが書いてきたことだ。作り話じゃないだろう。読んでるだけでもうんざりするのに、当時者ならば耐えられるまい。こんなことが連続すれば、あたまがおかしくなってくる。そしてある日、母もノーラも唐突にうちに戻ってきた。ブラバン公は、自分の妻のお側仕えを全員まとめてクビにしたのだ。

 その直後、さらに大きな事件が起きた。ブルゴーニュの無畏公暗殺。下手人は、会談相手だったはずのフランスの王太子。これはさすがにまさかと思った。


「まさかじゃない」

 そう言ったのは写本絵師のランベルト。

「去年パリで何があったか、知ってる?」

「パリは無畏公が取り返した。アルマニャックの連中から」

「そして、王太子シャルルも追放された。復讐したくなって当然だ」

「その『王太子』って、ほんとはオルレアンの胤ってやつだな?」

「そこんとこはぼくも知らない。まあ、イザボー王妃だって知らないんじゃない? 王の子じゃあなさそうだけど」

「この場合、王の子じゃなきゃ誰の子だろうとおんなじだ」

「王の子でなくたって、『王太子』にはちゃんとなってる。そしてこいつが死んでしまえば、王子はもう残ってない」

 五人もいた王子のうちで、育ったのが三人だ。一人目が、無畏公の娘婿だったギュイエンヌ公ルイ。二人目がヤコバ姫の夫だったトゥーレーヌ公ジャン。三人目がこのシャルル。十五歳のシャルルだけはまだ結婚させられてない。

「ま、ぼくがシャルルだったとしても、身の危険は感じるな。上のふたりは自然死とは思えないし、無畏公は前科がある。オルレアン公暗殺っていう」

「だから、やられる前にやったとでも?」

「動機はともかく、王太子、もしくはその手下がやったのはもう紛れもない事実だよ。そのほかにその場にいたのは無畏公の護衛だけで、こいつもきっちり死体になってる」

「で、なぜわざわざ報告に来た?」

「シャロレ伯が激怒してる」

「シャロレ? 無畏公の息子の? 父親を殺されたなら、当然だろう」

「王太子を廃嫡するって断言してる」

「王太子? フランスの?」

「ただ言ってるだけじゃない。あいつなら本当にやる。みんながそう言っている」

「そこまで力があるわけか?」

「そうらしい」

 ランベルトは息をついた。

「シャロレ伯フィリップの奥さんは、フランス王女ミシェル姫だ。このひとはゲントに住んでる。だからぼくもちょっとは知ってる。仕事を貰ったことがあるから」

「それで?」

「シャロレ伯には会ったことない? 調停のとき、フランクは同席してなかったのか?」

「してない」

「シャロレ伯はキケンな男だ」

「ランベルト。君は何が言いたいんだ?」

「ヤコバ姫は会っているよね?」

「つまり、シャロレ伯と? それは、会ってるはずだな」

「なんか聞いてない?」

「おれは姫ともお会いしてない。君は誤解してるようだが、姫と親しくお話したのは数えるほどだ」

「でも、好きなんだよね?」

「好きでもどうにもならんだろうが!」

 思わず大きな声になる。一方的に、おれが忘れられないだけだ。苦しいだけでどうにもならない。

「シャロレ伯は、物凄い女たらしだ」

「は?」

「そういえば無畏公だって、ボールセレのお嬢さんをお妾さんにしてるよね?」

「え?」

「知らないの?」

「知らん!」 

 ほんとうは知っている。一族の娘のひとりが、確かに妾になっている。思い出したくない事実。

「ランベルトこそ、なんでそんなに知ってるんだ!」

「ぼくにもよくわからない」

 低い声で絵師が応えた。

「シャロレ伯フィリップ。この男についてだけ、なんでこんなに聞こえてくるのか」

「その男が、新たなブルゴーニュ公ってわけか」

 それは確かに気になってくる。

「お母さんはウィレム伯の妹君で、お父さんは伯妃の兄の無畏公だ。ヤコバ姫には二重に従兄。年はたしかあんたくらい。ひとつ下とかそんなもん」

「奥さんはゲントにいるって言ったな。新ブルゴーニュ公フィリップ自身もそうなのか?」

「いつもいるわけじゃないけどね。結婚したあと、無畏公の指示でゲントに住んでる。ゲントの町を重要視してる証拠。ぼくらはそう考えている」

「育ちは?」

「エダンじゃないかな? エダンの絵師が、確かそんなことを言ってた」

 エダン? どこにあるのか思い出せない。だがこの地名には聞き覚えがある。確かどこかで誰かが言った。ここの城の壁になんか……

「そして『今』はメヘレンにいるはずだ」

「メヘレンだって?」

 冷水でも浴びたように、フランクは声をあげた。この町の名はついさっき、父の口から聞かされている。メヘレンに行ってくる。妙に緊張した顔で、父フロリスはそう言った。アントウェルペンから遠くないブラバンの都市ではあるが、ここだけはブルゴーニュ領。だから今まで行ったことなどなかったはずだ。何の用かは聞いてない。とても聞ける感じじゃなかった。


「フランク?」

「なんかイヤな予感がする」

 この予感は的中した。





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