2 ドルドレヒト包囲
ヤコバ姫こそ、正当な継承者だ。女が伯位を継げないという法は、ホラントにはない。
サリカ法を引っ張り出して女系相続を否定したのは「フランス」で、ネーデルラントはそうじゃない。ホラント伯領は神聖ローマ皇帝が自分の妃に封したもので、ウィッテルスバッハ=ホラント伯家のそもそもの始まりが女系なのだ。ブルゴーニュ公家にしたって、無畏公の父がフランドル女伯と結婚したからこそ強大になっている。女系相続を否定すれば、全てがひっくりかえってしまう。
だがヨハンは力を伸ばした。自身の伯位継承を正当化する文書を皇帝からとりつけるや、大量に複写して各都市に送りつけた。姫の側も即座に開封不可の触れを出したが、それは逆効果というものだ。見るなと言われた書簡ほど、間違いなく見たくなる。そして中身も信じるだろう。十七歳の小娘よりも、おとなの男ヨハンの方が当然ながら受け入れやすい。姫自身を知らなければ、普通そう思うだろう。
そしてヨハンはやり手だった。ドルドレヒトに拠点を据えて、あらゆる手で攻撃してくる。ウィレム伯に追放された鱈党のものはもちろんのこと、ドイツ傭兵、イングラント弓兵まで使い出す。さらに商船まで襲い始め、ゼーラントがその護衛を請け負った。ついに我らも兵を出す。フランクの血も沸き立ってくる。
「もう傍観はしとられん」
戦に備えるコグ船を前にして、フランクの父は言った。積載量の多いコグは本来貨物船であるが、たいがい櫓は完備している。貨物の代わりに武器と兵を積み込むならば、軍船になる。領内の船をすべて動員するなら、小艦隊が組織できる。海賊相手の応戦ならば、我らには慣れたもの。
「ヨハン・フォン・バイエルンはもともと坊主だ。手強いとは到底言えぬ。ブラバンがこちらにつくなら、勝てる」
「選定司教ヨハン殿は、齢十七にしてリエージュの反乱を治めています」
フランクには、最近知った情報だった。若くして手に入れた司教冠は、兄であるウィレム伯が金で買ってやったものだった。その上反乱まで起こされている。
「聖職者」とは程遠い、野心的な俗物だ。そして、実戦の経験は「ある」。たっぷりと「ある」。そのやりくちは残酷で、無慈悲公の異名まである。
「あの反乱、鎮めたのは無畏公とウィレムさまだ。つまり、マルグリットさまの兄君と、御夫君じゃ。ヨハン殿は無慈悲な野心家にすぎず、マルグリットさまはこちらだ。『ブラバン公』も取り込んだ今、もと司教など畏れるに足りん」
「ブラバン公」そのひとでなく、その後ろにある権力だ。ブラバンの持つ軍事力、そして資金は心強いが、我らには「船」がある。海戦に持ち込めるなら、我らこそが力になれる。ゼーラントの海を知るのは、我らのほうだ。今おれがすべきことは、こちらの力を知らしめること。
姫自ら視察に来られた。鎧をつけた凛々しい姿でフランクの船に現れ、その甲板で再会をした。
「海は任せる。我らの船に手出しはできぬと、あのヨハンに思い知らせよ」
輝く髪を潮風になぶらせて、ヤコバ姫は微笑んだ。
「フランクなら必ずできる。おまえのことは信頼している」
力強く言い切って、膝をついたフランクを見る。
「立て。言っておきたいことがある」
立ちあがって向き合うと、意外なくらいに姫は小柄だ。とてもすらりとして見えるのに、フランクの肩にさえ届かない。見上げている青い瞳は、もう「女伯」のものじゃない。
「ホルクムでは肝を冷やした。わたしは来るなと言ったはずだ。あの戦に参戦させたら、ああなるのはわかっていたから」
見上げる瞳がはっきり震える。威厳のある女伯ではなく、飾らないジャックの瞳。
「おまえは『鱈」だ。それは最初から知っている。だから斬れないと思った。だから死んでしまうと思った」
姫の声がなかったら、確かに斬れなかっただろう。そしておそらく殺されていた。確かにおれは、かなり無謀なことをした。
「わたしも戦いたくはない。鱈の力はわたしだってよく知っている。都市の力は斃すよりも生かしたい。わたしは共に栄えたい。けれど宣戦布告されたら、受けて立つより道はない」
「おれは貴女の臣下です。鱈でもなく釣り針でもなく」
「すまない。わたしはおまえをみくびっていた」
澄んだ空の色の瞳がまっすぐ見つめ、またにっこり微笑んだ。
「おまえは死なない。これからはそう思うことにする。そうわたしが信じていれば、おまえは死なない」
姫の言葉は不思議な作用をもたらした。おれは死なない。おれに矢は当たらない。おれが乗艦している船には、敵は手出ししてこない。おれが護衛している船には、だれも攻撃してこない。なぜか素直に信じてしまった。そして本当にそうだった。武器を揃え、兵を並べ、そして眼を光らせる。それだけが仕事となった。ただの一度も戦闘にはなってない。少々気が抜けてしまうが、闘わずにすむならば当然そのほうがいい。
攻撃がないとなれば、気になるのは海岸線だ。どこもかしこも荒れ果てている。廃墟と化したかつての漁港、誰もいなくなった村。そしてもっと恐ろしいのは堤防の状態だ。どこの堤もあちこちで崩壊している。小さな嵐が大洪水に繋がりかねない。この状態で大嵐が来たならば、村どころか島ごとだって沈みかねない。荒廃した堤防は増水には耐え得ない。
悪夢の夜を思い出す。子どものころにあった、大洪水を思い出す。
十一月のある夜に物凄い嵐になって、水が来ると起こされた。良く理解できないままに上の部屋に連れて行かれ、風で開いた窓の外はまるで知らぬ世界だった。雷光が照らし出すのは、荒れ狂う海。見慣れた港は影もなく、海が牙を剥いていた。あれは一生忘れられない。港がやられた、村がやられた。雨風の音に混じって悲鳴のような声が続き、怒声が響いた。幼いノーラは怖がって泣き叫び、母がずっと抱きしめていた。父は城を開放し、領民たちを中に入れた。ここまで水があがってきたら、あるいは塔まで押し流されたら。あの恐怖は忘れられない。実際いくつもの城が、流されて消えている。ボールセレの本家だって、かなりの領地を失っている。うちはなんとか助かった。港はひどく損傷し村も水に浸かったが、人死にだけは出なかった。シント・マールテンスダイクの堤防は保全がちゃんとされていた。だから決壊せずに耐えた。だからこそ、領民たちは素直に従う。船を提供してくれるのも兵を出してくれるのも、あのときのことがあったからだ。けれど今嵐が来たら。思っただけで怖気立つ。
あの規模の嵐になったら、このあたりの堤防は残らず決壊するだろう。どう考えても耐えられるはずがない。そして壊滅してしまう。海岸部だけじゃない。内陸にある諸都市まで、海の水は襲うだろう。軍兵に徴用するより、堤の補修をさせるべきだ。戦をしている場合ではない。戦ができる状況ではない。
「だから、ブラバンの力がいるのだ」
フランクの父、フロリス卿が苦虫を噛み潰している。
「のんびりしとる暇はない。この戦、とっとと終わらせねばまずい」
「援軍」は確かに来ている。ブラバン公は自らの軍と共にあり、ドルドレヒトを包囲している。戦は男の仕事と言い切り、姫には参戦させてない。後方に回らせて、陣には出さない。言葉だけは勇ましいが、成果はひとつもあげてない。ただ包囲しているだけで、落せない。落すどころか物資の運搬すら滞り、あった砦は壊される。兵糧は掠められ、兵士たちに不満が募る。兵士たちに不満がたまればやることは決まってる。手近な村の略奪と、凌辱だ。そして、民心が離れてしまう。
フランク自身が指揮するなかにも、手抜きをするやつがいる。横領まではしないにしても、効率的に動かない。ブラバン軍への供給は、指示どおりにやってない。そして敵は海ではなく「川」を使った。リエージュ司教だったヨハンは、マース川を良く知っている。フランスから流れ込み、リエージュ、リンブルフを経てホラントへと流れ込む川。敵は物資を受け取っている。そして味方は飢え始めている。
悪い予感はじきに当たった。ドルドレヒトを落せないままブラバン公は包囲を解除、勝手に退却してしまう。あてにしたブラバン軍は、何の役にも立たずに惨敗。人心はむしろ離れ、恨みすら買っている。
そして十月。ヨハンの援助を受けたロッテルダムが蜂起した。二日間の激闘の末、この町までもとられてしまう。これはもう駄目かもしれない。勝ち目はもうないかもしれない。
そこに、無畏公の嫡子シャロレ伯フィリップという人物が、「調停役」に送り込まれた。送り込んだのはもちろん、父君であるブルゴーニュの無畏公だ。そして、幼夫ブラバン公の撤退。姫だけが、戦地に残った。




