3 司教ヨハン
貴重なものを託されて、フランクは緊張している。リエージュの司教さまは南のリエージュではなく、ホラントの城におられる。ハーグよりもゴーダよりもさらに北。ホラントでもかなり北部だ。ようやくたどりついた「城」の前で、フランクは立ち尽くした。どうみてもこれは「城塞」で、司教さまのものには見えない。
濠にかかった橋を渡り、城門で確かめる。司教さまはこちらにおいでか? 姫からの使いと告げると番兵はすっ飛んでいき、すぐに中に通された。案内のものは兵のようにも見えないが、聖職者にも到底見えない。奥の間に通されて、そしてしばらく待たされる。豪華とまではいえないが真新しい建物で、かなりだだっ広い部屋だ。調度といえば、執務机らしい大きな木の卓。そして玉座のような椅子がひとつ。座ってよいとは思えないので、立ったままでお待ちする。
「そなたか? 私の姪、ヤコバ姫の使いというのは」
やがてあらわれた人物は、司教冠は被ってなかった。完全に俗服で、ウィレム伯に確かに似ている。だが、予想とはまるで違う。槍兵をふたりも従えていて、態度もどこかふてぶてしい。大股で机の向こうに歩いていくと、どっかと椅子に腰を下ろした。姪に本を読んでやる優しい叔父には到底見えない。
「『祈願』をお持ちしました」
思ったとおり、顔色がすっと変わる。そして兵を外に追い出す。
「『祈願の時祷書』。ベリー公の、未完のあれか?」
「はい」
「見せろ」
携えてきた包みを大机の上に開く。鮮やかな色彩が、飛び込んでくる。
一番上の頁の細密挿絵は完成している。祈祷文のテキストも完成してるが、文頭の頭文字、イニシャルの装飾はまだされてない。バ・ド・パージュと呼ばれる下部装飾も、まだされてない。まだ綴じてない仔牛皮紙の頁を裏返す。次頁となる裏の部分も全く同じ。彩色の細密挿絵とテキスト、そして飾り枠だけが完成している状態だ。
「これは、ベリー公ご自身のお姿と聞いています」
聖母への祈祷文の頁にある挿絵には、老ベリー公が描かれている。美しい挿絵のなかで、永遠に聖母への祈りを捧げる。信心深いひとならば、このうえなく有難く思うだろう。
「なるほど」
俗服の司教さまはそっけない反応をした。テキストに目を通し、ますますいぶかしげな顔になる。
「これは、時祷書なのか?」
「時祷書です」
フランクが短く応える。一応これは「時祷書」だ。平信徒が祈祷のために使うもので、暦と祈るべき時刻、そして祈祷文がセットになってる。裕福な家ならば一冊は持ちたいと願うものだが、どれだけのものになるかは財力次第。装飾に凝れば凝るほど、値段は跳ねあがっていく。良い絵師に頼みたいなら、良い画材で描かせたいなら、城のひとつも手放すことになるかもしれない。ベリー公の遺したこれは全てが最高品質だ。羊皮紙ではなく特上級の仔牛皮紙を使い、枠飾りの顔料だって金に糸目はつけてない。同じ質で揃えるためには、相当の財力がいる。そしてこの祈願のテキスト。
「しかし、このテキストは」
改めて、司教の顔を見る。「知っていた」のではなかったのか?
「時祷書らしくないですか?」
「あまり見ない祈祷文だな」
「はい」
実を言えば、フランクも詳しくはない。信心深いわけではないから、祈りの文に興味はない。ただ、「典型的な時祷書」部分はすでに売却済だそうで、珍しい部分だけが未完のままで残されている。そしてこれは極上品だ。「いとも豪華な」の上を目指しただけのことはある。
「完成すれば、かなり高く売れそうだな」
「は?」
「このままでもどえらい価値だ。違うか?」
「これさえあれば力になれる。司教さまは、そうおっしゃったと伺いました。それは」
「これで望みがかなうだろう? どんな野望もこれさえあれば」
ヨハン司教はニヤっと笑った。望みをかなえる。確かに噂はそう言っている。祈りの文字には何か不思議な力がこめられ、描かれた絵が現実となる。
「この手稿には、聖なる力が籠められている。完成すれば、その力はより強くなると……」
言いかけて言葉を呑みこむ。
「そなた、信心深いほうではないな」
ギクリとした目の前で、司教さまが破顔した。
「案ずるな。異端と咎めるつもりはない」
「は」
「これは有難く受け取り、有効に役立てる。もちろん、可愛い姪ヤコバのためにね」
そして包みを戻してしまう。すべてのフォリオを確認せぬまま。見なくていいのか? これほど凄いものなのに、今すぐ見たいと思わないのか?
「それより」
司教さまは身を乗り出して、フランクを見る。
「私の姪は、ブラバン公を選んだそうだな」
「は」
フランクは目を逸らした。考えまいとしていた事実。
「あれほど嫌った従弟なのにな」
そして小さく息をつき、フランクを見る。
「何も言ってなかったか?」
「いえ」
「おつむも体もひ弱な子ども。ヤコバには不釣り合いだ。そう思わんか?」
ぐっと歯を食い縛る。余計なことは口走るな。
「取り柄といえば、顔くらいか。ああ、もうひとつ、大切なことがあった。あれでも一応『ブラバン公』だ。あそこの公位はいろんなものが狙っていたが、あっさりと即位を果たした。アザンクールで父上が戦死したから、阻止する間もなかったということだろうな」
「それは、どういう意味ですか?」
「文字通り、『そういう意味』だよ。ヤコバだって、『ブラバン公』と結婚するのだ。頭の弱い美少年とではなく、ね」
震えそうになるのを抑え、頭を下げた。
「そなたは良い青年だな」
司教さまは話を続ける。
「ヤコバがそなたを信頼したのも、わかるような気がするよ」
おれは今疑っている。姫があなたを信頼したこと。
「司教の私がなぜこんなところにいるか、そなたは聞きたいのではないか?」
フランクは顔をあげた。
「伺って、よろしいですか?」
「もちろんだ」
司教ヨハンは真剣な顔になり、フランクをじっと見つめた。
「エノーの諸都市は私の姪を女伯として承認し、忠誠を誓っている。先に出したディーツ語での宣言文書も見事だった」
ホラント、エノー、ゼーラントの伯ヤコブとして、ディーツ語で文書を出した。女性形のヤコバではなく男性形の「ヤコブ」のほうが、ディーツ語では正式名だ。
「『富めるものにも貧しきものにも、平等かつ正当な裁きを行う。反乱を起こすものは、平和と治安を乱すものは、厳然と処罰する』なかなか良い文面だ。もしかして、作成はそなたなのか?」
「違います」
ここは声を大にしたい。
「姫ご自身の文章です。発表のあと、書き写してばらまくことはしましたが」
「ほう。そこがそなたの発案か」
「パリでよく使われる手です」
「なかなか良い手だ。複写とはいえ、文書で読めれば印象はより強烈になる。だが」
パリほどの効果はない。残念ながら、識字率が全然違う。大学があり、知識人が集まるパリとは比較にならない。
「ホラント諸都市はおとなしくは従わぬ。私の兄は、亡くなったウィレム伯は、中途半端なことをしおった。アルケルのヤンのこと、知っておるな?」
知っている。
ブラバン公の葬儀の帰りをウィレム伯が襲わせ、拉致させたのだ。地下牢に放り込んで拷問にかけ、伯暗殺の計画まで自白させた。なのに、処刑はしてない。一族のものたちも追放はされているが、今もなお生きている。奪われた領土、「アルケルの町」ホルクムを、取り返そうとしているはずだ。
「アルケルの残党は早速反旗を翻しておる。だから私はここにいるのだ。ホラントの、ど真ん中にね」
「それは当然、姫の援護をするためですね?」
「もちろんだとも」
司教ヨハンはにったり笑い、フランクは頭をさげた。不安はますます深くなった。
司教ヨハンはちゃんと動いた。このあとすぐに兵を動かし、反乱せんとしていたアルケルの娘婿、エグモントを捕縛した。ドルドレヒト以外の諸都市はヤコバの伯位を承認し、忠誠の誓いを立てた。ブラバン公との婚約も調って、あとは法王特赦を待つだけだ。従弟にあたるブラバン公とは特赦なしでは結婚できない。




