2 遺言
そしてパリ到着が四月の二十日。
噂はすでに「毒殺」になっている。「ウィレム伯の手によって」というのも聞いたが、それは絶対考えられない。オルレアン公暗殺の下手人、無畏公が、というのもあったが、それもちょっと考えにくい。いずれにしろ、パリにはいない。王太子も妃殿下も、その父たるウィレム伯も。王妃さまが贈られた甲冑が、という声が聞こえ、背筋がすっと冷たくなった。なんでまた、「甲冑」なんだ?
ふと思いつき、いつかの写本工房に足を向けた。呼び鈴には誰も応えず、扉は施錠もされてない。中は荒れ放題で、浮浪者たちが巣食ってもいる。身なりの良い闖入者を見て、彼らがにじり寄ってくる。後ずさりしそうになったとき、暗がりから声がした。
「薬屋ならばもうおらんぞ」
「クスリ?」
「なんだ、クスリ目当てじゃないのか」
ぞろりと姿を現したのは、長い髭に穢いローブの魔法使いの如き老人。値踏みするような視線がフランクの指で止まった。
「ほう」
ダイヤモンドのあの指輪。していたはずの手袋が無くなって、いつの間にか露わになってる。ぞっとして手を隠した。
「思い出した。『光学の書』の坊やじゃないか」
まじまじと「老人」を見る。えらく老け込んでいるが、確かにあのときの主人。今訪ねたかった男だ。
「指輪の話も聞いとるよ。なかなか巧くやっとるようだな」
「どういう意味だ?」
「指輪の姫がご心配なら、コンピエーニュへ行かれることじゃ。あの姫には呪は効かぬ。だが王子はとり殺された。父君も、危ないな」
「どういう意味だ!」
「姫のことがご心配なら、コンピエーニュへ行かれるが良い。御自分の身が心配ならば、即座に立ち去り、海の国に戻られよ」
老人は踵を返し、闇へと戻る。浮浪者の手が伸びてきて、フランクも踵を返した。コンピエーニュ。まずはそこへ。
目的地に着く前に、噂が先に飛び込んできた。一息ついた旅籠屋で、商人たちが話をしていた。王太子は確かに逝去。ウィレム伯も亡くなった、と。
「亡くなった」じゃなく「殺された」だろう! 確証もなくそう叫んだら、紙きれを渡された。王太子暗殺の真相、とある。アルマニャック派による毒殺、と明記してある。貼りだしてあったものらしく、破り取られた形跡がある。
「それはウソだ」
渡した男が探るように、フランクを見る。
「人殺しはブルゴーニュのお家芸だ。こんなものをバラまくことこそ、その証拠」
「亡くなったのは、事実なんだな?」
フランクの問いかけに商人はうなずいた。
「フランスの王太子が毒殺された。そこまでは間違いない」
毒殺。
パリのあの工房は、何か知ってる風だった。無畏公支配下のパリで栄え、アルマニャック支配になった今はああなっている。つまり、あそこはブルゴーニュ派じゃないだろうか。だが、ウィレム伯にとって娘婿のあの王子は……
「あんた、ホラント人か?」
「フランス人」が詰め寄ってくる。
「ホラント伯は、イングラントと仲良しだよな?」
「ウィレム伯は和平を求める。イングラントともフランスとも戦など望まない。あんたたちも商売人なら、その気持ちは同じだろう!」
「あんた、騎士さまじゃねえのか?」
「違う」
フランクは言い捨てて外に出た。剣を佩き馬に乗ってはいても、おれは騎士さまなんかではない。戦など、絶対に望まない。
コンピエーニュに馬を飛ばし、もういないと知らされる。オーステルバントのボーシャン城に向かわれた。ヤコバ姫も伯妃もともに。
「死んだ」とは言ってない。遺体を移したのでなく、自分の城に戻られた。ボーシャン城はウィレム伯自身の城だ。そこに働くものたちは、信頼できるもののはず。いくらか希望が蘇り、馬をさらに急がせる。オーステルバントは遠くない。ウィレムさまの領土のなかで、ここだけはフランスの封。皇帝封土のエノーの手前にある土地で、結婚祝いにフランス王がくれたもの。ホラント伯を継ぐより前からウィレムさまのものだった土地。
スヘルデ河畔のこの城に、ヤコバ姫への謁見を申し出る。姫付きの女官たる母と妹の名を出すと、扉は案外すんなり開いた。ボールセレと名乗っただけで厳めしい「扉」は開き、奥の部屋へと通される。
「フランク」
案内された部屋にいたのは、黒衣の姫ひとりきり。
「伯は?」
天蓋つきの寝台が横にある。けれどそばについているのは、ヤコバ姫ただひとり。部屋は綺麗に片付いていて、薬などは何もない。看護の気配は何もない。
「昨夜、召された」
静かすぎる姫の声が、石の壁に響いて消える。
「古傷が、悪化した」
「犬に噛まれた傷というのは、本当ですか?」
じとりと冷たい汗が流れる。それは古い古い傷だ。こともあろうに飼い犬に、噛まれた傷だ。そして時々ぶり返す。ここぞという時に限って、その傷は痛みだす。姫の「結婚」のときもそうだったらしい。つまり、幼児のときに挙げられたかたちだけの結婚のとき。立ち会えなかったことを伯は何度かぼやいておられた。似たようなことは、何度かあった。一時的に立てないほどにひどくなるが、時が過ぎればなぜか収まる。あれはきっと伯妃さまの毒のせいだ。毒を盛って足止めし、夫の動きを制御している。何度かそう耳にしたが、真面目にとったことはなかった。伯妃さまのよこす医者は、よく効く薬を調合していた。
「医者の処方は今度ばかりは効かなかった」
「医者?」
「信用できる父の侍医だ。毒を盛られたわけじゃない」
フランクは言葉を呑みこむ。「伯妃さまの医者」でなく、「信用できる父の侍医」。傷の悪化がもしも毒によるものならば、伯妃さまの差し金ならば、違う処方が効くはずがない。それは毒に違いない。「フランス」の陰謀に違いない。フランス人の伯妃さまは、貴女の実の母上は毒を使うとうわさされてる。だが、そんなことはとても言えない。そして根拠は何もない。
「お悔みを、申し上げます」
姫ははっきりしゃくりあげ、フランクに身を投げた。華奢なからだを受けとめて、抱きしめる。小さなからだはひくひく震え、涙を呑みこもうとしている。
「今ここにはおれしかいない。思い切り泣いて下さい」
低い声でささやいた。フランク自身も涙を堪えた。ウィレム伯は「堤」だった。戦禍を防ぐ防波堤そのものだった。アルケルとの戦だって、先代から続いたものだ。その戦を終わらせたのはウィレム伯だ。その堤は今壊された。荒波をまず被るのは、間違いなくこの姫だ。ようやく十五のこの姫に、「堤」の役が果たせるだろうか。
姫のからだが波のように揺れている。それでも嗚咽は漏らさない。必死で耐えているさまが痛々しくてたまらない。
「ジャック」
その耳にささやいたとたん、姫はくっとからだを離した。その頬に、涙がすっと伝う。
「フランク・ファン・ボールセレ。来てくれて、本当に、嬉しい」
切れ切れに言い、またぽろりと涙を零した。
「トゥーレーヌ公も亡くなった。それも当然、知っているな」
「それも事実なのですね? 間違いではなく、本当に……」
「イザボー王妃に甲冑を贈られた。それを身につけたとき、首に小さな傷ができた。そのときは気にもしなかった。ほんのかすり傷だった」
姫ははっきり声を震わせ、潤んだ瞳でフランクを見る。
「しばらくしてからジャンの首が腫れてきて、食事をするのも辛くなった。やがては水さえ通らなくなり、息もできなくなってしまった」
唖然として声も出ない。
「だが何も証明できない。わたしの夫はあの女の息子のはずで、殺す理由なんかない。理由があるのはむしろわたしだ」
「え?」
「毒殺だとわたしが言ったら、わたしが逆に責められた。伯妃はわたしを真剣に疑っている」
「ありえない!」
思わず大きな声で叫ぶ。
「貴女はそんなひとじゃない。そんな卑劣な真似はできない。高貴なるおれのジャックが、毒殺などするわけがない!」
ヤコバ姫は一瞬黙った。
蒼白な顔。震えている薄い唇。薄赤く腫れた目元に、色の失せた薄いくちびる。黒い喪服を着ているせいか、肌がさらに白く見える。雪花石膏に刻まれた、哀悼の像のように。
「ありがとう」
静かな声が、がらんとした部屋に響く。
「おまえの言葉で救われた。実の母に疑われるのは、実母に殺されるにも等しい」
「姫」
「わたしは女伯だ」
姫の声が強くなる。そして顔がはっきり変わった。泣きぬれる小娘ではなく、毅然とした王者の顔に。
「ホラント、ゼーラント、そしてエノーの女伯。わたしは伯位を継承し、それをみなに承認させる。そして正しく統治する。それがわたしのなすべきことで、それを忘れてはならない」
膝をついて頭を垂れる。そのとおりだ。この姫こそが、我らの主君。
「トゥーレーヌ公との結婚もそのための政略だった。だけどジャンは好きだった。おまえに初めて会ったときにもわたしはそう言ったはずだし、その気持ちは変わっていない。だから殺すわけがない。わたしに殺せるわけがない」
感情を抑えた声で、姫が続ける。
「死因がどうあれ、わたしは寡婦になってしまった。政略として、ブラバン公と再婚をする」
「え?」
思わず耳を疑った。
「無畏公と母の弟、ブラバン公アントワーヌの遺児と再婚をする」
葬儀で見かけたあの少年? 虚弱をかたちにしたような、あの病的な少年と? よりにもよって、あんなやつと?
「わたしはまだ十六にもならない。小娘の統治は簡単には承認されない。未婚のままでは不可能だ。身分ある配偶者は絶対に必要で、隣国たるブラバンはぜひとも欲しい。これは父の遺言だ」
「そんな」
「父だって、ほんとはそんなつもりじゃなかった。もう少し、もう少し長く生きて下さったなら。そうしたら」
寝台の遺体に眼をやって、またぽろりと涙を零す。
「姫」
小さすぎる姫の手を、力を込めてきゅっと握った。
「フランクはここにおります。非力なおれにできることなら、なんなりと」
「おまえに頼みたいことがある」
姫は無理に笑みを作った。
「大事なものをおまえに託す。おまえがずっと、求めていたもの」
「おれがずっと求めていたもの?」
どきんと胸が高鳴った。
「老ベリー公の遺した手稿」
ごくんと唾を呑みこんだ。姫の眼がそれを認め、哀しげな笑みを浮かべる。
「今ここには持ってない。あとでおまえのもとに届ける。『フランス』に奪われぬよう、おじのところに届けて欲しい」
「どの、おじ上に?」
おじと言っても、無畏公ではないだろう。そのほかのおじと言えば……
「リエージュ選定司教、ヨハン・フォン・バイエルン。小さい頃によく本を読んで貰った。聖職者であるあの叔父は、助力を約束してくれた。亡くなったベリー公の祈願の時祷書。それさえあれば力になれると、叔父は言った」
それさえあれば、力になれる? 『祈願の』時祷書?
「やはりおまえは知っていたな?」
フランクは顔色を変え、唾を呑んでうなずいた。パリの写本工房で、いろいろ噂を聞いている。彩飾挿絵をたっぷり入れた、まさに煌めく書物の至宝。「いとも豪華なる」で知られる時祷書をも超えるものを作ろうとして、未完のままで中断している。リンブルフの絵師の描いた挿絵は、それはそれは素晴らしいと聞いている。
「彩飾絵師の多くはネーデルラントの出身です。リンブルフはリエージュ司教領内です。その司教さまである叔父上なら、きっと」
「わたしはよくわからない。だが無畏公も狙ってる。だからこそ渡したくない」
「姫」
「わたしではよくわからない。そして今は余裕も持てない。けれどおまえはわかるはずだ。そしておまえはできるはずだ」
姫ははっきり笑みを浮かべた。こぼれるような、誘うような、甘美な微笑。その笑みに魅入られる。
「死者へのミサのページにはウィレム伯の葬礼を、神への祈願のページには平和の祈りを描かせて欲しい。あとのことはおまえに任せる。叔父上に協力し、あれを完成させてくれ。フランスではなく我らの祈りを」
「わかりました。仰せの通りに」
フランクは頭を下げた。ヨハン・フォン・バイエルン。ウィレム伯には弟にあたる方。聖職にある方ならば、確かに安全かもしれない。
「フランク、おまえと会うのはこれが最期だ。母上にもそう言って、ふたりきりを許してもらった」
「姫?」
「わたしは断ち切らなければならない。おまえがわたしに求めていたのは、結局は『本』なのだから」
潤んだ瞳がまっすぐ見上げる。思い詰めたような瞳が、涙を呑みこむように瞬く。
「ジャック?」
「己のすべきことをなせ」
ジャックはまた微笑んだ。
「わたしはわたしのつとめを果たす」




