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女伯ジャックと海の騎士 - Keukenhof's Kroniek -  作者: 辰波ゆう
第四章 嵐   Anno 1417
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2 遺言 

 そしてパリ到着が四月の二十日。


 噂はすでに「毒殺」になっている。「ウィレム伯の手によって」というのも聞いたが、それは絶対考えられない。オルレアン公暗殺の下手人、無畏公が、というのもあったが、それもちょっと考えにくい。いずれにしろ、パリにはいない。王太子も妃殿下も、その父たるウィレム伯も。王妃さまが贈られた甲冑が、という声が聞こえ、背筋がすっと冷たくなった。なんでまた、「甲冑」なんだ? 


 ふと思いつき、いつかの写本工房に足を向けた。呼び鈴には誰も応えず、扉は施錠もされてない。中は荒れ放題で、浮浪者たちが巣食ってもいる。身なりの良い闖入者を見て、彼らがにじり寄ってくる。後ずさりしそうになったとき、暗がりから声がした。


「薬屋ならばもうおらんぞ」

「クスリ?」

「なんだ、クスリ目当てじゃないのか」

 ぞろりと姿を現したのは、長い髭に穢いローブの魔法使いの如き老人。値踏みするような視線がフランクの指で止まった。

「ほう」

 ダイヤモンドのあの指輪。していたはずの手袋が無くなって、いつの間にか露わになってる。ぞっとして手を隠した。

「思い出した。『光学の書』の坊やじゃないか」

 まじまじと「老人」を見る。えらく老け込んでいるが、確かにあのときの主人。今訪ねたかった男だ。

「指輪の話も聞いとるよ。なかなか巧くやっとるようだな」

「どういう意味だ?」

「指輪の姫がご心配なら、コンピエーニュへ行かれることじゃ。あの姫には呪は効かぬ。だが王子はとり殺された。父君も、危ないな」

「どういう意味だ!」

「姫のことがご心配なら、コンピエーニュへ行かれるが良い。御自分の身が心配ならば、即座に立ち去り、海の国に戻られよ」

 老人は踵を返し、闇へと戻る。浮浪者の手が伸びてきて、フランクも踵を返した。コンピエーニュ。まずはそこへ。


目的地に着く前に、噂が先に飛び込んできた。一息ついた旅籠屋で、商人たちが話をしていた。王太子は確かに逝去。ウィレム伯も亡くなった、と。

 「亡くなった」じゃなく「殺された」だろう! 確証もなくそう叫んだら、紙きれを渡された。王太子暗殺の真相、とある。アルマニャック派による毒殺、と明記してある。貼りだしてあったものらしく、破り取られた形跡がある。

「それはウソだ」

 渡した男が探るように、フランクを見る。

「人殺しはブルゴーニュのお家芸だ。こんなものをバラまくことこそ、その証拠」

「亡くなったのは、事実なんだな?」

 フランクの問いかけに商人はうなずいた。

「フランスの王太子が毒殺された。そこまでは間違いない」

 毒殺。

 パリのあの工房は、何か知ってる風だった。無畏公支配下のパリで栄え、アルマニャック支配になった今はああなっている。つまり、あそこはブルゴーニュ派じゃないだろうか。だが、ウィレム伯にとって娘婿のあの王子は……


「あんた、ホラント人か?」

「フランス人」が詰め寄ってくる。

「ホラント伯は、イングラントと仲良しだよな?」

「ウィレム伯は和平を求める。イングラントともフランスとも戦など望まない。あんたたちも商売人なら、その気持ちは同じだろう!」

「あんた、騎士さまじゃねえのか?」

「違う」

 フランクは言い捨てて外に出た。剣を佩き馬に乗ってはいても、おれは騎士さまなんかではない。戦など、絶対に望まない。


 コンピエーニュに馬を飛ばし、もういないと知らされる。オーステルバントのボーシャン城に向かわれた。ヤコバ姫も伯妃もともに。


 「死んだ」とは言ってない。遺体を移したのでなく、自分の城に戻られた。ボーシャン城はウィレム伯自身の城だ。そこに働くものたちは、信頼できるもののはず。いくらか希望が蘇り、馬をさらに急がせる。オーステルバントは遠くない。ウィレムさまの領土のなかで、ここだけはフランスの封。皇帝封土のエノーの手前にある土地で、結婚祝いにフランス王がくれたもの。ホラント伯を継ぐより前からウィレムさまのものだった土地。

 スヘルデ河畔のこの城に、ヤコバ姫への謁見を申し出る。姫付きの女官たる母と妹の名を出すと、扉は案外すんなり開いた。ボールセレと名乗っただけで厳めしい「扉」は開き、奥の部屋へと通される。


「フランク」


 案内された部屋にいたのは、黒衣の姫ひとりきり。

「伯は?」

 天蓋つきの寝台が横にある。けれどそばについているのは、ヤコバ姫ただひとり。部屋は綺麗に片付いていて、薬などは何もない。看護の気配は何もない。

「昨夜、召された」

 静かすぎる姫の声が、石の壁に響いて消える。

「古傷が、悪化した」

「犬に噛まれた傷というのは、本当ですか?」

 じとりと冷たい汗が流れる。それは古い古い傷だ。こともあろうに飼い犬に、噛まれた傷だ。そして時々ぶり返す。ここぞという時に限って、その傷は痛みだす。姫の「結婚」のときもそうだったらしい。つまり、幼児のときに挙げられたかたちだけの結婚のとき。立ち会えなかったことを伯は何度かぼやいておられた。似たようなことは、何度かあった。一時的に立てないほどにひどくなるが、時が過ぎればなぜか収まる。あれはきっと伯妃さまの毒のせいだ。毒を盛って足止めし、夫の動きを制御している。何度かそう耳にしたが、真面目にとったことはなかった。伯妃さまのよこす医者は、よく効く薬を調合していた。


「医者の処方は今度ばかりは効かなかった」

「医者?」

「信用できる父の侍医だ。毒を盛られたわけじゃない」


 フランクは言葉を呑みこむ。「伯妃さまの医者」でなく、「信用できる父の侍医」。傷の悪化がもしも毒によるものならば、伯妃さまの差し金ならば、違う処方が効くはずがない。それは毒に違いない。「フランス」の陰謀に違いない。フランス人の伯妃さまは、貴女の実の母上は毒を使うとうわさされてる。だが、そんなことはとても言えない。そして根拠は何もない。


「お悔みを、申し上げます」

 姫ははっきりしゃくりあげ、フランクに身を投げた。華奢なからだを受けとめて、抱きしめる。小さなからだはひくひく震え、涙を呑みこもうとしている。

「今ここにはおれしかいない。思い切り泣いて下さい」

 低い声でささやいた。フランク自身も涙を堪えた。ウィレム伯は「堤」だった。戦禍を防ぐ防波堤そのものだった。アルケルとの戦だって、先代から続いたものだ。その戦を終わらせたのはウィレム伯だ。その堤は今壊された。荒波をまず被るのは、間違いなくこの姫だ。ようやく十五のこの姫に、「堤」の役が果たせるだろうか。

 姫のからだが波のように揺れている。それでも嗚咽は漏らさない。必死で耐えているさまが痛々しくてたまらない。


「ジャック」


 その耳にささやいたとたん、姫はくっとからだを離した。その頬に、涙がすっと伝う。

「フランク・ファン・ボールセレ。来てくれて、本当に、嬉しい」

切れ切れに言い、またぽろりと涙を零した。

「トゥーレーヌ公も亡くなった。それも当然、知っているな」

「それも事実なのですね? 間違いではなく、本当に……」

「イザボー王妃に甲冑を贈られた。それを身につけたとき、首に小さな傷ができた。そのときは気にもしなかった。ほんのかすり傷だった」

 姫ははっきり声を震わせ、潤んだ瞳でフランクを見る。

「しばらくしてからジャンの首が腫れてきて、食事をするのも辛くなった。やがては水さえ通らなくなり、息もできなくなってしまった」

 唖然として声も出ない。

「だが何も証明できない。わたしの夫はあの女の息子のはずで、殺す理由なんかない。理由があるのはむしろわたしだ」

「え?」

「毒殺だとわたしが言ったら、わたしが逆に責められた。伯妃はわたしを真剣に疑っている」

「ありえない!」

 思わず大きな声で叫ぶ。

「貴女はそんなひとじゃない。そんな卑劣な真似はできない。高貴なるおれのジャックが、毒殺などするわけがない!」

 ヤコバ姫は一瞬黙った。

 蒼白な顔。震えている薄い唇。薄赤く腫れた目元に、色の失せた薄いくちびる。黒い喪服を着ているせいか、肌がさらに白く見える。雪花石膏(アラバスタ)に刻まれた、哀悼の像のように。


「ありがとう」

 静かな声が、がらんとした部屋に響く。

「おまえの言葉で救われた。実の母に疑われるのは、実母に殺されるにも等しい」

「姫」

「わたしは女伯だ」

 姫の声が強くなる。そして顔がはっきり変わった。泣きぬれる小娘ではなく、毅然とした王者の顔に。

「ホラント、ゼーラント、そしてエノーの女伯。わたしは伯位を継承し、それをみなに承認させる。そして正しく統治する。それがわたしのなすべきことで、それを忘れてはならない」

 膝をついて頭を垂れる。そのとおりだ。この姫こそが、我らの主君。

「トゥーレーヌ公との結婚もそのための政略だった。だけどジャンは好きだった。おまえに初めて会ったときにもわたしはそう言ったはずだし、その気持ちは変わっていない。だから殺すわけがない。わたしに殺せるわけがない」

 感情を抑えた声で、姫が続ける。

「死因がどうあれ、わたしは寡婦になってしまった。政略として、ブラバン公と再婚をする」

「え?」

 思わず耳を疑った。

「無畏公と母の弟、ブラバン公アントワーヌの遺児と再婚をする」 

 葬儀で見かけたあの少年? 虚弱をかたちにしたような、あの病的な少年と? よりにもよって、あんなやつと? 

「わたしはまだ十六にもならない。小娘の統治は簡単には承認されない。未婚のままでは不可能だ。身分ある配偶者は絶対に必要で、隣国たるブラバンはぜひとも欲しい。これは父の遺言だ」

「そんな」 

「父だって、ほんとはそんなつもりじゃなかった。もう少し、もう少し長く生きて下さったなら。そうしたら」

 寝台の遺体に眼をやって、またぽろりと涙を零す。


「姫」

 小さすぎる姫の手を、力を込めてきゅっと握った。

「フランクはここにおります。非力なおれにできることなら、なんなりと」

「おまえに頼みたいことがある」

 姫は無理に笑みを作った。

「大事なものをおまえに託す。おまえがずっと、求めていたもの」

「おれがずっと求めていたもの?」

どきんと胸が高鳴った。

「老ベリー公の遺した手稿」

 ごくんと唾を呑みこんだ。姫の眼がそれを認め、哀しげな笑みを浮かべる。

「今ここには持ってない。あとでおまえのもとに届ける。『フランス』に奪われぬよう、おじのところに届けて欲しい」

「どの、おじ上に?」 

 おじと言っても、無畏公ではないだろう。そのほかのおじと言えば……

「リエージュ選定司教、ヨハン・フォン・バイエルン。小さい頃によく本を読んで貰った。聖職者であるあの叔父は、助力を約束してくれた。亡くなったベリー公の祈願の時祷書。それさえあれば力になれると、叔父は言った」

 それさえあれば、力になれる? 『祈願の』時祷書?  

「やはりおまえは知っていたな?」

 フランクは顔色を変え、唾を呑んでうなずいた。パリの写本工房で、いろいろ噂を聞いている。彩飾挿絵をたっぷり入れた、まさに煌めく書物の至宝。「いとも豪華なる」で知られる時祷書をも超えるものを作ろうとして、未完のままで中断している。リンブルフの絵師の描いた挿絵は、それはそれは素晴らしいと聞いている。

「彩飾絵師の多くはネーデルラントの出身です。リンブルフはリエージュ司教領内です。その司教さまである叔父上なら、きっと」

「わたしはよくわからない。だが無畏公も狙ってる。だからこそ渡したくない」

「姫」

「わたしではよくわからない。そして今は余裕も持てない。けれどおまえはわかるはずだ。そしておまえはできるはずだ」

 姫ははっきり笑みを浮かべた。こぼれるような、誘うような、甘美な微笑。その笑みに魅入られる。

「死者へのミサのページにはウィレム伯の葬礼を、神への祈願のページには平和の祈りを描かせて欲しい。あとのことはおまえに任せる。叔父上に協力し、あれを完成させてくれ。フランスではなく我らの祈りを」

「わかりました。仰せの通りに」

 フランクは頭を下げた。ヨハン・フォン・バイエルン。ウィレム伯には弟にあたる方。聖職にある方ならば、確かに安全かもしれない。

「フランク、おまえと会うのはこれが最期だ。母上にもそう言って、ふたりきりを許してもらった」

「姫?」

「わたしは断ち切らなければならない。おまえがわたしに求めていたのは、結局は『本』なのだから」

 潤んだ瞳がまっすぐ見上げる。思い詰めたような瞳が、涙を呑みこむように瞬く。

「ジャック?」

「己のすべきことをなせ」

 ジャックはまた微笑んだ。

「わたしはわたしのつとめを果たす」






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