6 対岸の戦火
ヤコバ姫が「完全に」トゥーレーヌ公妃となった八月、カンタベリー条約が成立していた。
神聖ローマ帝国と手を結んだイングラントは、安心して進軍できる。皇帝ジギスムントをイングラントに案内したのは、ホラント伯ウィレム閣下だ。ウィレム閣下の目的は和平だった。イングラントと皇帝ではなく、フランスとの和平だった。その調停役として、皇帝をご案内する。フランクはそう聞いていたし、実際そうだったはずだ。ヤコバ姫の結婚のため閣下が戻ったその隙に、まんまとしてやられたわけだ。
イングラントは即刻動いた。艦隊を組織して、万を超える兵をもって攻めこんできた。指揮官は国王ヘンリー五世とその弟、ヨーク公エドワードにグロスター公ハンフリー。このハンフリーという王子とは、ウィレム伯は親交がある。イングラント滞在中に、関わりができている。「フランス」がウィレム閣下に疑惑の目を向けてくるのも、理由のないことではない。
幸いにして上陸はスロイスでなく、パリへと繋がるセーヌの河口。ゼーラントは安堵した。スロイスはゼーラントの鼻先にある、フランドルへの玄関口だ。もしもここに上陸されたら、ゼーラントも傍観できない。ここまできたらひとごとじゃない。フランク・ファン・ボールセレはゼーラントの領主の息子だ。何よりも大切なのはゼーラントの安全だ。それが己の利益でもあり、領民への義務でもある。少なくともフランクは、真剣にそう考える。
フランスはもう内乱の余裕などない。ブルゴーニュとアルマニャックは手を結び、対抗策を練っている。ウィレム伯の領内も、フランス語圏エノーの貴族は沸き立ってフランス側への参戦を表明している。大きな武勲をあげるチャンス。戦こそが、騎士の花道。伯妃マルグリットさまのほうは積極的に鼓舞するのだから当然だ。フランス王子の姑でもあるのだから、煽るのも当然だ。釣り針党のホラントの騎士のなかにも、腰を上げるものが出る。数でいうならあきらかに、フランス側が断然優勢。
イングラントは苦戦していた。攻城も進まないまま疫病まで流行りだし、撤退を開始した。そのまま帰せばよいものを、フランスの騎士軍はここぞとばかりに追撃に出た。そして、歴史に残る大敗をする。あいもかわらずイングラントの長弓隊の前に飛び出し、その餌食となって惨敗。フランス側に万を超える死者を出した、アザンクールの戦いだ。
この戦いに、ホラント伯ウィレム閣下は参戦してない。フランスの王子である姫の夫、トゥールーズ公も参加してない。狂気の王はともかくとして、王太子も参戦してない。アルマニャック派の首領もパリに隠れ、出陣もしていない。ブルゴーニュ家の当主、無畏公も参戦してない。その跡取りシャロレ伯フィリップも、出馬してない。ブルゴーニュ家で参戦したのは無畏公の弟ふたりだ。そしてそのふたりともが戦死している。そのひとりがブラバン公アントワーヌ。フランクの父フロリス卿は、この訃報に色をなした。
「ブラバンの玄関口は、港町アントウェルペン。つまりはうちの対岸だ。ブラバンにまた火の粉がかかれば」
フランクは、すぐにはピンとこなかった。対岸の港町、アントウェルペンならよく知っている。だが、この町が「ブラバン」公領にあるというのは、ほとんど意識の外にあった。そもそも現在の「ブラバン公」がどういうひとか、そこからよくわかってなかった。ホラント伯ウィレム閣下の兼任だと言われたら、うっかり信じたかもしれない。実のところ、ブラバン公領というところは継承問題がややこしく、以前から不安定だ。その上重要都市を抱えてもいる。うちの目と鼻の先のアントウェルペン、宮殿のあるブリュッセル。重要なだけでなく、強い力を持った都市。だから、「鱈」と近い。父の続ける説明を、ただ黙って拝聴していた。
「戦没したブラバン公アントワーヌ・ド・ブルゴーニュには息子がいるが、まだやっと十二かそこら。その上、身も心も虚弱ときとる」
父はそう吐き捨てたのだが、葬儀のときに実際に会ってみると本当にそうだった。虚弱がかたちをなしたような、なよなよとした子ども。
故ブラバン公アントワーヌの葬儀はブリュッセルの聖堂であり、フランクも父とともに参列している。新たにブラバン公となるこの息子は醜いわけではけしてない。むしろ美形と言えるだろう。鼻筋はすっきりしているし、眼のかたちもその瞼の切れ込みもくっきりと整っている。唇のかたちだって悪くないし、からだつきは華奢で繊細。逞しい美丈夫ではないにしても、美少年で十分とおる肢体を持ってる。にもかかわらず、美しさを感じない。その眼には輝きがなく、おどおどしている。その挙動には落ち着きがなく、どう見ても頼りない。
この葬儀にはホラント、ゼーラントの貴族も多く姿を現し、アルケルのヤンまで列席していた。ウィレム伯に盾突いた、鱈の首領アルケルのヤン。敗北し、追放されたはずの男がこの葬儀には参列していた。時事に敏いとは言い切れないフランクですら、はっきり不吉な予感を覚えた。
そしてこの年の暮れ、もうひとつの訃報が届く。アザンクールには出陣もせず、ゆえに戦死もしなかったフランスの王太子ルイの急死。赤痢だと言われるが、いずれにしろ突然の死だ。この死によってヤコバ姫の夫、トゥーレーヌ公ジャン・ド・フランスが王太子に昇格する。フランクの父フロリス卿は狂喜した。
「これで姫は王太子妃だ。未来のフランス王となる新王太子ジャン殿下をお育てしたのは、我らが主君ウィレム閣下だ。あの方は本当に素晴らしい。アルケルのヤンも捉え、『アルケルの地』もついに支配下に入れられた」
「しかしアザンクールでは」
「そこよ。フランスの騎士どもはあれでムダに命を落とした。生き残った顔ぶれを見ろ。無畏公は話がわかるし、我らが主君ウィレム閣下はイングラントの王室とも神聖ローマ皇帝ともとても近しい間柄。これからわしも忙しくなる。うちのことはお前に任せる」
フロリス卿は上機嫌だが、フランクは不安でならない。イングラントはまた艦隊を動かしている。ウィレム伯を狙った動きも間違いなくある。フランスの新王太子は確かにウィレム伯の手の内にある。王妃イザボーにもアルマニャックのやつらにも、あまり嬉しい状況じゃない。ウィレム伯だけじゃなく、王太子殿下だって狙われても不思議ではない。
「そして、フランス王太子妃たるヤコバ姫は、お前をいたくお気に入りだ。ボールセレの未来は明るい」
父は高笑いをしているが、かえって気分は暗くなる。気に入られてもどうにもならない。姫は未来のフランス王妃で、手なんかもう絶対に届かない。身分の差は開くばかりで、フランクにはなにもない。称号ひとつ持ってない。ゼーラントの騎士フロリス・ファン・ボールセレ卿の息子。それだけだ。




