5 夢のあと
Antwerpen, BRABANT
「で、結局何もできなかった、と」
港町のいつもの酒場で、写本絵師がため息をつく。
「できるわけ、ないだろうが」
フランクはぐっとビールをあおった。
「相手はお姫さまなんだぞ。しかも、まだ子どもだ」
月日はあっという間にすぎて、すでに夏になっていた。姫とは一度も会ってない。復活祭の祝祭にはフランクは出ていない。父からは話を聞いたし、ノーラからも手紙は来ている。だがフランクは出ていない。何度もあったティリンゲンでの鷹狩だって、一度として招かれてない。あれは、夢だ。ただの夢だ。だから忘れろ。
「優勝者として同席を許された。それだけだ」
「でも、指輪は頂いたんだよね?」
言われて自分の手を覆った。ダイヤモンドの嵌った指輪。ヤコバの個人紋が小さく刻まれ、内側には細かい字で文字彫りがある。
Mit ganzer Lyebden
この文字に気が付いたのは、実は今日になってから。だが意味などあるわけがない。そんな意味であるはずがない。
「姫主催のトーナメントはほかにもいくらだってある。その度に、誰かが頂く。それだけだ」
ランベルトが大袈裟に肩をすくめる。
「で、今日だっけ?」
「ああ」
うなずいて、また酒をあおる。今日が「挙式」だ。
幼児の時に挙げた式はご家内では「結婚式」だが、周囲はたいがい「婚約」と呼ぶ。「コンスマキウム」があって初めて、結婚は成立するのだ。それが「なかった」ことがわかれば、結婚は解消できる。離婚を許さない教会も、「婚姻無効」「婚姻の未成立」は認めるのだ。
だから今日こそ姫の挙式だ。フランスの王子さまとの結婚は、今夜の床入りの儀をもって、完全に成立する。
Mit ganzer Lyebden、完全なる愛をこめて。
これはただの文字彫りだ。深い意味などあるわけがない。優勝したのがほかのヤツなら、そいつがこれを受け取っている。
「で、ウィレム伯はイングラント?」
ランベルトが軽く尋ねた。
「戻られた」
応えてしまってギクリとする。
「なんで知ってる?」
「そのくらいみんな知ってる。ぼくは今、ゲントの町で仕事している。ゲントの町のひとにとって、イングラントはとっても大事な取引先だ。ウィレム伯はイングラントとフランスの和平を調停しようと頑張っている。だけどイングラントのほうは、神聖ローマ皇帝ジギスムントと同盟を企てている。同盟さえ成立したら一気にこっちに攻めてくる。そこまでは、あんたは当然知っているよね?」
「そして、伯妃マルグリットはフランスの内乱を調停している。つまり、ブルゴーニュとアルマニャックの内戦だ。ブルゴーニュのひととして、フランスの王子さまの姑として」
「伯妃さまの目的は、フランスをひとつにまとめてイングラントに対抗すること。つまり、戦の準備だ」
「それは、ゲントの町の見方か?」
「もちろん、ぼく個人の見解じゃない。ぼくはただのしがない絵師だ」
フランクは、内心呻いた。その辺の騎士なんかより、よっぽど時勢をきちんと見ている。ゲントの町だけじゃない。アントウェルペンにしても、ホラントの都市にしても、現実をしっかり見ている。騎士たちが考えるのは、戦に出て武功をあげて、褒賞を得ることだけだ。
「ところで、ヤコバ姫とトゥーレーヌ公っていとこ同士かなんかだっけ? トゥーレーヌ公のお母さん、つまりフランスの王妃さまって姫と同じウィッテルスバッハ家のひとだよね?」
フランス王妃イザボー・ド・バビエール。ドイツ語読みならイザベラ・フォン・バイエルン。家系はシュトラウビン=ウィッテルスバッハ。
「家系図は詳しくないが、法王特赦が出ていたはずだ。だから、血縁はあるんじゃないかな。近親婚でなかったら、特赦なんか願わない。なんでそんなことを聞くんだ?」
「特赦の話を聞いたから。出したのは、どっちの法王?」
つくづくこいつは気になるところを突いてくる。法王は普通ひとりのはずだが、今はよくわからない。フランス系のとそうでないのが対立し、さらにもうひとり増えてるらしい。教会分裂と呼ばれる混乱した状態で、その調停も皇帝ジギスムントがやっているが収拾はついてない。
「おれもよく知らないが、どれが正しい法王なのかは皇帝にもわからんだろう」
「出したやつが正しくない法王ってことになったら、特赦も撤回になるんじゃないかな? そしたら姫の結婚は無効に……」
「おい」
フランクは笑い出した。
「ランベルトはなんとしても、姫をフリーにしたいのか?」
「あんたとくっついたら良かったのにな、って思ってる」
真顔でそう言われてしまう。
「アルケルのヴィムってやつ、真剣に狙ってたみたいだよ」
「え?」
「トーナメントで勝ち抜いて、姫の心も手に入れてやる。試合前に言ってたらしい。ま、あんたにあっさり負けちゃったけど」
「アルケルはウィレム伯には仇敵だ」
「戦を終わらせるために、敵同士で結婚させる。よくある手だ」
「それはムリだ」
「なんで?」
「ヤコバ姫はとびきりの王族だ。母方の曾祖父はフランス王ジャン二世で、父方の曾祖父は神聖ローマ皇帝ロードウェイク・フォン・バイエルン。ブルゴーニュの無畏公は伯父上で、父君ウィレム伯はイングラントのガーター騎士団にも御名を連ねる。その姫の配偶者なら、王族でなきゃ釣り合わん。アルケルなんぞ、ただの土豪だ」
そして、ボールセレも。
あの後、母からこんこんと諭された。身の程をわきまえなさい、と。母はあの夜、何かあったと思ってる。そしてひどく怯えてもいる。
ほかの男とそれをしたら、もう好きじゃなくなっちゃうの?
ジャックの声がはっきり頭に蘇る。
そうだ。その通りだ。これでもう完全に王子さまのお妃だ。だからすべて忘れてしまえ。思わせぶりなそぶりだって、指輪にある文字だって、全部ただの戯れだ。まだ幼いお姫さまの、ただの気まぐれ。
「そして、姫の御夫君トゥーレーヌ公ジャン殿下は、賢く優しい方だそうだ。姫が自分でそう言っていた。だから今、祝ってる」
残りのビールを一息に飲み干し、五杯目を注文していた。今夜こそ、潰れたかった。
Mit ganzer Lyebden
de Kroniek van Kattendijke より




