築かれる人脈 3
エティが城に戻ったのは、多くの民が眠りに就く時間だった。貴族はまだ、起きている者がほとんどだろう。
セオドアにすぐ報告するべきとは、エティも思う。しかし、相手の思惑がさっぱり見えないため、本当に事実の報告しかできないのだ。
それではあまりにも、単純すぎる。
「どうする?」
ヴァルに問われたが、今日のところは報告しないと決めた。
そもそも、精神的にも肉体的にも疲れを感じているため、事細かに報告して議論を交わしたくはない。
「明日以降にします。さすがに疲れました」
「まあ、そうだろうな」
薄く笑って、ヴァルがあっさりと同意する。
問題があるなら、この時点で報告するように忠告をくれるだろう。つまり、明日でも困ることはないようだ。
「では、私は部屋へ戻ります。おやすみなさい」
「おやすみ」
挨拶を返され、エティは思わずヴァルを見上げる。しかしヴァルは、ヒラヒラと手を振ってどこかへ歩いていく。
城の中に、ヴァルのための部屋があることは知っている。だが、その場所までは知らない。
知りたい気持ちもあるが、やはり気力がついていかなかった。
部屋へ戻ると、待っていたダーナが手早くドレスを脱がしてくれた。あられもない姿のまま、クレリヒュー伯爵宛の詫び状を認め、それをダーナに託す。それから、慣れたカートルを着て、すでに用意されていた着替えを持ち、湯殿へ向かった。すぐに寝ることが前提なのか、着替えは夜着一式だ。
温かい湯で体にたまった疲れを流し、エティはのんびりと部屋へ戻る。そこへちょうど、手に何か持ったセオドアがやって来た。
「アン、疲れているところをごめんね。君に確認しておきたいことがあってね」
さりげなくセオドアの手元を確認すると、手紙らしき封筒を二通持っている。
「クレリヒュー伯爵の件ですか?」
「うん。続きは部屋の中で……よかったかな?」
夜遅くに異性が部屋へ入ることを、よくない噂にされるのではないか。その心配を、セオドアはしてくれているのだろう。
確かに、事情を話したところで、異性を部屋に入れた事実は消えない。
「明日では、遅いのですか?」
「別に、僕は構わないけれどね。先方の命が、キリキリと縮んでいくだけの話だから」
「では、明日にしましょう。朝、支度を整えましたら、伯父様の執務室へうかがいますね」
正直なところ、今は何も考えたくない。フッと気を抜けば、なぜか眠気に負けてしまいそうなのだ。
疲れるようなことをした覚えはないのに、体も心も疲れていた。その辺りに、何か原因がありそうではある。
だが、いつもならば重要視することも、あえて見ない振りを貫きたい。
「わかったよ。じゃあ、明日おいで」
エティが相当眠いことは、見てわかったのだろう。セオドアはくつくつと笑いを噛み殺しながら、エティに部屋へ入るよう促した。
翌朝、エティは身支度を整えてから、約束どおりセオドアの執務室を訪れた。許可を得て室内へ入ると、そこにはヴァルもいて、かすかな苦笑いを浮かべている。
どうやら、ヴァルは先に何かしら聞いているようだ。
「待っていたよ、アン。おはよう、昨夜はよく眠れたかな?」
「おはようございます、伯父様。少し眠り過ぎたくらいですね」
寝不足ではないはずだが、頭の芯がぼんやりとする感覚がある。よくある判断であれば鈍ることもなさそうだが、繊細さや大胆さを求められる時には誤りそうだった。
「早速だけど、昨日早馬で届いた手紙があってね」
そう言ったセオドアに差し出された封筒は、昨日見たもののようだった。片方は封が開いているが、残りはしっかりと封がされたままだ。
差出人は、どちらもクレリヒュー伯爵だった。宛名は、セオドア宛が開封されている。
「開けても?」
セオドアがしっかりと頷いたことを確認して、エティはペーパーナイフを借りて開けた。
中に入っていた便箋を取り出すと、広げて内容を確認した。そこには、昨夜の執事の不始末を詫びる言葉が何度も何度も繰り返されている。便箋一枚だけだが、上から下まで、言い回しや言葉を変えた謝罪だらけだ。
ところどころ、あちらが上であるような言葉が目につく。
(……やはり、名簿から落ちていたのでしょうか?)
その疑問は、最後まで読んでも結局解消しなかった。
これでは、何のための詫び状なのか、さっぱりわからない。
「……伯父様宛のお手紙を、拝見してもよろしいでしょうか?」
十五歳は、社交界に出ているとしても、世間の扱いはまだ子供だ。何かあれば、本来は保護者に宛てて真剣に詫びる。本人にも謝罪の手紙を送った辺り、今回の件をよほど重要視したのか。
「構わないよ。むしろ、きちんと読んだ方がいい」
許可をもらい、エティは早速取り出して読む。
便箋三枚に及ぶ弁明は、あまり気持ちのいいものではなかった。
「……これは、本当にクレリヒュー伯爵が書かれたものですか?」
そうだとすれば、あまりにも幼稚だ。
失礼なことをされたエティ本人には、ただ謝罪だけを。保護者であるセオドアには、あれこれ取り繕った醜い言い訳を。
王とその姪に対し、これで丸く収まると、ここリヴァルークの貴族が安易に考えているのか。
この程度の人物が築いたつながりなど、何の価値もない。どうしても、そう感じてしまうのだ。
「……僕が知る限り、誠実で豪快な人だったけれどね。まあ、人は変わるものだから」
何らかの理由があり、悪い方へ変わってしまった。セオドアはそう言いたいのだろうか。
「たとえどんな変化があろうと、私はこの手紙を読んだ限りは、クレリヒュー伯爵を許しません。子供と下に見すぎですもの」
十五歳は確かに子供だ。けれど、社交界に出ている以上、半分は大人なのだ。
「わかっているよ。僕はすでに返事を出したけれど、アンはどうするかな?」
「訪問しなかったことへの詫びは、すでに昨夜認めて侍女に頼みました。届いてはいるかと思います」
ただし、あくまで、門前払いされてしまったがゆえの不義理を詫びただけだ。そのことを許すとは、ひと言も書いていない。
もちろん、招待状を確かめることすらしなかったことも、先方には伝えなかった。
ちなみに、馬車の中でヴァルには招待状を持参していることを、中身も見せて確かめさせている。持っていなかったという嘘は、通用しない。
「ですから、私からはこれ以上何もしません。広いつながりは惜しいですが、自力でどうにかすることもまた一興ですもの」
「……やれやれ。アンのその性格は、誰に似たんだろうね」
呆れるセオドアに、エティはニッコリ微笑んでみせる。
「母ではないかと、私は考えていますけれど……父にも頑固なところはありましたから」
両方からしっかりと受け継いだものだろう、というのがエティの考えだ。
実のところ、弟妹はおっとりしていて、頑固なところは見受けられない。エティにだけ、両親の目立つ特徴的な見た目や性格が、はっきりと受け継がれている。
その時、ドアが何度か叩かれた。
「入れ」
セオドアが告げると、ドアは大急ぎで、けれどぶつけないよう、丁寧に開けられる。
「は、早馬からの封書です」
机の上に置くと、その人物は慌てて部屋を出ていく。
どうやら、居合わせた顔ぶれに驚き、とにかく逃げ出したくなったようだ。
「早馬、ね」
エティは眠る前にダーナに頼んでいる。恐らくセオドアも、就寝前に届けるよう頼んだと予想はできた。
あちらは、朝起きてからゆったりと手紙を読み、真っ青になったのだろうか。それにしては、早馬の到着が早いように感じられる。
早速開けて中身を読んだセオドアは、小さく鼻で笑った。そのまま、手紙だけをエティへ手渡す。
内容に目を通したエティは、知らず知らず首を傾けていた。
「……どういうことでしょう?」
「そのままの意味、としか言いようがないね」
この手紙も、謝罪だった。ただし、余計な言い訳はなく、下手に出た謝罪の言葉と、説明のための謁見の許可を求めている。
セオドアの返事まではわからないが、どうやら、昨夜のうちに届いた手紙は別人が出したものらしい。内容もさることながら、手があまりにも違っていた。
もしくは、伯爵本人の意志が反映された代筆だったか。
どちらにしろ、簡単には許さないことには変わりない。
「謁見の許可を、出されるのですか?」
「アンとヴァルも同席することを条件に、許可はするよ。どんなことを言い出すのか、僕も楽しみではあるしね」
今から早馬で届けたとして、早くて夕方の謁見だろう。
「私は今日は、フォーサイス侯爵の茶会へ行ってきます。明日も茶会の予定がありますし、明後日には茶会と夜会の予定ですから、数日は難しいかもしれません」
「おや、そうだったね」
エティが出かける予定を避けていたら、クレリヒュー伯爵の謁見はなかなか叶わない。
それはそれで、申し訳ない気分がしてしまう。
「では、仕方がない。クレリヒュー伯爵には、少し遅い時間に来てもらおうか。さすがに、夜会が始まるような時間には、アンも戻っているね?」
「そうですね、そのくらいでしたら」
茶会はあくまで、茶とおしゃべりを楽しむものだ。明るいうちにちょっと行うものであって、日暮れまで茶会を開催するのは礼儀知らずと、かえって謗られる。
仮にギリギリまで滞在したところで、夜には城に戻っているだろう。
昼前に準備を整え、エティはフォーサイス侯爵の屋敷を訪れていた。ただし、クレリヒュー伯爵の時は、屋敷の玄関前で追い払われたが、こちらは本当の意味で門前払いだ。
「……領地では、私は、意外と執念深いと言われているのですけれど」
いい度胸だ、とエティは思う。
クレリヒュー伯爵はその土地柄、それほど重要な地位にはいない。フォーサイス侯爵は、ヴィストレームに近い領地であり、城でもそこそこの業務を請け負っている。
フォーサイス侯爵は、エティがどういった娘であるか、きちんと理解しているはずだ。
「……お前を軽んじる意味が、わかっていないとは思えないんだけどな」
元々、こうして招いておきながら、わざと門前払いを食らわせるつもりだったのだろう。それも、複数の貴族が申し合わせていたに違いない。
エティは十五の小娘だ。何度も謝罪を綴った手紙さえ送れば、簡単に許すだろう。保護者であるセオドアも、熱心な謝罪とエティの許しで納得してくれるはずだ。
謝罪を受けたことだし、二度とこういったことをされたくないだろう。エティは彼らに対し、いくらか下手に出るしかない。そうなれば、優位に立つ絶好の機会だ。目的としては、その辺りが妥当だろうか。
それが本当に理由だとしたら、かなりくだらない浅知恵だ。
自然とため息がこぼれて、クラクラとめまいがしてきた。思わず、指先で額をギュッと押さえて、グリグリと軽く揉みほぐす。
「そんな甘い考えの貴族がいること自体、私には不思議でなりませんけれど」
れっきとした王族に刃向かって、謝罪ごときで許されると考えるとは。あまりにも甘ったれた思考に、苛立ちばかりが募っていく。
「恐らく、クレリヒュー伯爵が自分のことで手一杯で、他に警告を出せていないんだろうな」
謁見の申し出があったことからも、セオドアは謝罪を受け入れなかったのだ。エティも、許しの言葉を書かなかった。
思惑が外れ、保身に走っている最中では、他の仲間に警告を出している場合ではないのだろう。そんなことをすれば、仲間を守って自分だけが落とされることになりかねない。
「ふふっ」
思わず笑いがこぼれたエティを、ヴァルが怪訝そうに見つめる。直後、ギョッとした様子で、彼は思い切り身を引いた。
「楽しいことを思いつきました。クレリヒュー伯爵には、もう少し踊ってもらいましょうか。それから、他の招待主の方々にも、たくさん踊っていただきましょう」
「……お前は、何を考えたんだ?」
「内緒です」
これを言えば、絶対に口を割らない。そう理解しているヴァルは、大きくて長いため息をこぼした後、諦めた顔で窓の外へ顔を向ける。
別に、無理難題を出すことはしない。
ただし、彼らにとっては、無理難題の方がよっぽどよかった。そう思う結果になるだけの話だ。
‡
もちろんエティは、フォーサイス侯爵夫人へ詫び状を出した。すぐに返ってきた無意味な謝罪には、返事をしていない。セオドアも、手紙での謝罪を受け取らない旨だけ記した返事を出したようだ。
やりたいことをまったく説明していないにも関わらず、セオドアはエティが望むとおりに動いてくれる。
(三人目は、ロングハースト伯爵ですね。さて、どう出てくるでしょうか)
窮地に陥っている先人たちから、警告が出ていれば変わるかもしれない。だが、当人たちは、使用人にすら知られることを避けているはずだ。彼らが思い立って警告をしない限り、門前払いの結果が予想よりずいぶん重いことを知る術はない。
夜会だったクレリヒュー伯爵家はともかく、フォーサイス侯爵家の場合は茶会だ。その場に仲間がいれば、警告はできるだろう。それを考え、エティが詫び状を出したのは、茶会が行われている時間にした。
事実と、不義理を謝罪しただけの、ただの詫び状だ。そこからは、エティがどう思っているかは一切感じられない。そうなるように、言葉はかなり選んである。
保身に走れば、次の犠牲者に伝える余裕はなくなる。そうして、踊る人間が増えていく。
夜には、クレリヒュー伯爵夫妻が謁見に訪れる予定だ。けれど、エティは急に体調を崩して謁見に不参加となる。これはすでに決定事項だ。
当事者がそろっていなければ意味がないと、セオドアは謁見せずに冷たく追い返す手はずになっている。
明日には、クレリヒュー伯爵夫妻と、フォーサイス侯爵夫人が謁見を申し出て、やはりエティの体調不良で叶わなくなる。これもまた、今の時点で決まりきっている予定に過ぎない。
デュヴァリエールにいた頃は、貴族令嬢ではあるものの、庶民寄りに生活していた。貴族として必要な作法は身につけたものの、実際にそうされると戸惑いが大きい。立派な貴族令嬢からはほど遠い自覚はある。
それだけに、ごく普通の貴族令嬢ならば心がくじける出来事も、エティにはたいした打撃にならない。むしろ、敵だと認識させ、かえって相手が窮状を招くことになるだろう。
(……ヴァルのお母様も、この計画の一員なのかしら?)
ふと浮かんだ考えを、エティは思慮する前に一蹴した。
それならば、クレリヒュー伯爵が夜会を開催する日に、反対側で茶会を開かないはずだ。その証拠に、関わっているだろう者たちは、全員が申し合わせたように無理のない日程となっている。
(そういえば……)
ヴァルの母親以外に、断った誘いがあった。
そのことを不意に思い出したエティは、差出人の確認に向かう。
確か、ヴァルがいる間は夜会を優先したかったため、時間的に難しいその茶会を断っている。その理由を記した返事をしたはずだ。
「……メリガン男爵……?」
返事を認めていた時には、すべて事務的に行っていたせいか、なぜか気づかなかった。これまでに聞き覚えのない爵位だ。
そもそも、男爵が王に招待状を託せることが、まず信じがたい。
(これは、誰からのものなのでしょうか?)
新興貴族だろうか。それにしても、最近爵位を賜ったばかりでなければ、少しくらいは耳にしているだろう。
まさか、爵位を賜ったその場で、図々しくもエティ宛の誘いをセオドアに頼んだのか。
どちらにしろ、見慣れない名前をようやく認識し、一気に興味が湧いてきた。
(メリガン男爵ですね。一度、お会いしたいところですが……)
自由になるのは、三日後だ。午後に招くことはできるだろうか。招待したところで、急すぎるからと断られるかもしれない。
それでも、何もしないよりは、試しに招いてみるのも悪くないだろう。
エティは急いで誘いの手紙を書き上げる。それをダーナに託し、ふうっと息を吐き出す。
茶会から戻った後、セオドアからは、部屋を絶対に出ないようにと言われている。当然、窓に近寄ることもしない方がいいだろう。
景色を見て暇潰しもできないため、エティは書棚から本を取り出す。何も書かれていない紙とペンも用意し、本を読みながら紙に書き込んでいく。
セオドアと筆談は、少々不自由ながらもできるようになってきた。けれどまだ、滑らかな筆談とまではいかない。とっさに出てこない単語や言い回しも多かった。
それらを少しでも解消する、いい機会だ。
ペンを走らせながら、エティは知る者のほとんどいない言語の勉強にいそしみ始める。
クレリヒュー伯爵夫妻は、がっくりと肩を落としてトボトボ帰っていった。そうヴァルから報告されたのは、翌朝のことだ。その翌朝には、三人に増えたことを教えてもらった。
今日の夜には、さらに増えるだろう。
どうやら、まだ仲間に情報を伝えられていないらしい。ロングハースト伯爵家でも、やはり門前払いをしてくれたのだ。
案外、他も無事にやり過ごさせまい、とそれぞれが考えている結果なのかもしれない。
今日は昼も夜も忙しい。謝罪の謁見は、エティの不在により、手紙の時点で許可が出ないとわかっている。城へ出向かない分、無事な仲間へ知らせることを、誰かが思いついて実行する余裕が出てくる可能性もあった。
もっとも、彼らがどうなったところで、エティに許す気はない。
(私だけならまだしも、伯父様まで侮ってくださいましたものね)
王が認めた者を、彼らはないがしろにしたのだ。相応の罰を受けてもらわなければ困る。
何より、夜会が苦手なヴァルが、わざわざつき合ってくれたのだ。彼の厚意も、完全に無下にしている。そこが、どうしても許せなかった。
(……私を怒らせたことを、存分に悔いるがいいでしょう)
エティは、単なる国王の姪ではない。いずれ、このリヴァルークの王妃になると決まっている。セオドアがそう決めたから、簡単には覆らないだろう。
つまり、くだらないことをしでかした者たちは、その程度も理解できなかった頭の持ち主ということになる。
重要な仕事を任せるには、明らかに足らない者たちだ。
逆に、身内としては短気さが気に入らないが、余計な策を巡らしていなかっただろうヴァルの母親に、かすかな好感を抱く。ただし、元々の評価が低いため、それでも基準となる位置より下だ。だが、門前払いをしてきた者たちよりは、わずかながら上になる。
(次は何をしてくれるのでしょうね)
茶会の準備を始めながら、エティはひっそりと笑みをこぼした。