制御不能
スイス・ベルン ヨーロッパ連合軍ドイツ航空部隊 第52戦術航空戦隊所属 対巨獣航空支援中隊 指揮飛行班長 武装攻撃ヘリコプター部隊 パイロット 大尉 エルンスト・ノイアー
連続勝利、都市の奪還、そしてスイス・ベルンの奪還。
この快進撃によって、崩壊したヨーロッパ戦線の中で、スイスという一国家単位の奪還に成功したという事実は、司令部にも現場にも、過剰なほどの楽観をもたらした。
もちろん、奪還計画としては、まだ初期段階だった。
スイスは、ベルゼブブ軍がヨーロッパ内陸に展開していた無数の拠点群の一つに過ぎない。
勢力図で見れば、なお敵の方が広範囲を押さえており、数でも配置密度でも優位にあった。
それでも、戦況があまりに順調に進みすぎていた。
誰もが安堵していた──いや、正確に言えば、“浮き足立っていた”と言うべきだった。
モナコ、フランス南部、内陸突破、そしてベルン中枢拠点の撃破。
負けを知らない連勝が続き、「押し返され続けていた戦争」から「こちらが押し返す戦争へ変わった」という実感が、前線から後方まで一気に広がっていた。
そこに、ガクラという戦争の常識をぶち壊す存在。
どんな硬い防衛線も正面から破り、指揮型を単独で仕留め、補給と電力と環境再生まで同時に成立させる。
いつの間にか俺たちは、「最悪の事態になっても、最後はガクラが何とかする」という前提で物事を考えるようになっていた。
それに加えて、ベルン奪還直後というタイミングも最悪だった。
設営、再建、補給整理──戦闘から非戦闘モードへ切り替わる瞬間は、いつの戦争でも警戒が最も下がる。
現場は「次の戦いに備える場所」であると同時に、「一息つける場所」にもなってしまう。
それが、まだ敵が残っているという現実を見誤らせた。
今にして思えば、あの慢心こそが、俺たちの最初の失態だった。
そして、ヨーロッパ奪還計画という作戦そのものが、どこまでいっても“ガクラありき”で成立していたという現実も、この頃には見えなくなっていた。
俺たちの戦略も、勝利の積み重ねも、前線の士気ですら──すべて、あの存在を前提に組み立てられていた。
その事実を、俺はあの夜にはっきりと思い知らされた。
スイス・ベルン奪還のあと、イタリア方面からの補給部隊と合流し、俺たちは街を拠点として再建・設営作業に入っていた。
司令部では損害報告や今後の方針が整理されていたが、現場の空気にはどこか緩みがあった。
特にスイス出身の兵士たちは浮き足立っていて、故郷を取り戻した高揚感で動き続けていた。
他の誰よりも設営作業に熱を入れ、まるで疲れを知らないかのように働いていた。
上空警戒任務にあたる俺たち航空隊の間でも、「このまま行けば勝てる」という声が多く聞かれた。
今にして思えば、それはいちばん危険な兆候──典型的な“戦後錯覚状態”だった。
まだ戦争の真っただ中で、油断するには早すぎる──そう言われれば、その通りだ。
だが皮肉なことに、あの状況だったからこそ、ああいう慢心が生まれた。
長年ヨーロッパを奪われ続けた疲労、絶望的な戦況からの反転、そして勝利への飢え。
その反動が、一気に噴き出していた。
言い訳に聞こえるかもしれない。
だが、あの時の俺たちは、最高の流れの中で、最悪の条件を同時に揃えてしまっていた。
勝っているという実感と、ガクラがいるという安心感が、知らないうちに警戒心を削り取っていたんだ。
ある程度の拠点が整い、防護壁が形になり始めた夜のことだった。
固定砲台の試射も終わり、対空監視網と地上センサーも一応は稼働状態に入っていた。
表向きだけ見れば、「前線拠点」として最低限の形は整っていた。
ただ、あの時──日本側との取り決めで、ガクラは作戦外の自由行動に移っており、インド方面で活動していた。
巨獣被害が依然として続いている地域は多く、防衛戦力が不足している国への支援は、戦略的にも人道的にも避けて通れない任務だった。
正直に言えば、誰もそれを問題視しなかった。
「よし、行ってこい」──そんな空気だった。
今の戦力なら、この拠点は自力で守れる。
固定砲台も、航空支援も、地上部隊も揃っている。
そう信じて疑わなかった。
だが、その油断が生んだ“空白”を、敵は正確に突いてきた。
最初は地上センサーの異常値だった。
森の縁で複数の反応が同時に増加し、警報が鳴るより早く、前哨に配置していた監視班から「接近音多数」の報告が入った。
その瞬間には既に警戒線を突破され、森の中から波のように巨獣が押し寄せてきた。
突撃型、飛行型、毒液を噴射する中型巨獣、さらには重い足音を響かせる大型個体まで混在していた。
巨獣の種類もサイズもバラバラで、規模はこれまで局地的に遭遇してきたものとは明らかに違った。
拠点周辺に散在していた各種巨獣が、一斉に引き寄せられたように押し寄せてきた。
もちろん、想定はしていた。
奪還計画の主敵はベルゼブブ軍だが、ヨーロッパにはベルゼブブ以外の巨獣が多数生息している。
奪還作戦中も散発的な遭遇戦は何度もあった。
対処手順も、弾種の選択も、部隊配置も訓練で叩き込まれている。
それでも、あのときは駄目だった。
装備も人員も揃っていたはずなのに、士気の緩みがほんの数分、判断を鈍らせた。
その数分で、外縁の防衛線は食い破られた。
地上部隊は迎撃態勢に入り、俺たち航空隊は夜間照明弾を投下しながら応戦を開始した。
ロケット弾を撃ち込み、機関砲掃射を浴びせてどうにか巨獣の群れと戦った。
だが、数が多すぎた。
撃ち倒しても、撃破しても、次の波が来る。
毒液が防壁を腐食させ、掘削型が基礎部を削り、飛行型が対空砲座を狙う。
防衛線は、破られてはいなかったが、じわじわと削られていた。
通信回線には怒号と報告が飛び交い、弾薬消費は予定を超過し、負傷者搬送が追いつかなくなり始めていた。
俺は奴らと戦いながら、上空からその全体像を見ていた。
戦線が薄くなっていくのが分かる。
突破までは至らないが、確実に圧力が増していた。
それから、およそ一時間が経過した頃だった。
持ちこたえてはいたが、余裕は消えていたその時、遠方の空に赤い閃光が走った。
次の瞬間、巨獣の集団が連鎖的に爆発し、夜空が一瞬、昼間のように照らし出された。
そして──あの咆哮だ。
戦場のあらゆる音が、一瞬止まったように感じた。
ガクラが、援軍として現れた。
インドにいたはずのガクラが、わずか一時間でこの戦域に到達したことに、誰もが言葉を失った。
日本側からの正式連絡よりも早く、どうやらガクラ自身が異常を察知し、独自に高速移動で向かってきたらしい。
どうやって察知したのか、どうやってあの距離を飛んだのか──疑問はいくらでもある。
だが、あの瞬間は、そんなことはどうでもよかった。
ガクラが来た。
それだけで、戦場の空気は一変した。
あの一声で、夜空に渦巻いていた恐怖が嘘みたいに消えたんだ。
無線の声色が変わり、地上部隊の応答が明らかに安定し、士気というものが数秒で回復した。
直後、大柄な巨獣群がガクラの熱線でまとめて消し飛ばされた。
真っ赤な光が地上を薙ぎ払い、着弾地点から連鎖的な爆発が広がった。
照明弾とは比べものにならない光量で、拠点周辺が一瞬、昼間のように照らし出された。
視界が戻ったとき、そこに敵影は残っていなかった。
残存していた飛行型巨獣群は一斉にガクラへ攻撃目標を切り替え、群れとして突撃し、空を覆い尽くした。
だが、ガクラは動じなかった。
直線的な熱線とは違い、空域そのものを焼き払うような炎を放った。
突撃してきた飛行型巨獣群は、炎に飲み込まれて燃え落ち、火球となって地面へ降り注いだ。
夜が炎で染まり、影が消え、戦場の輪郭が真昼のようにはっきりと浮かび上がった。
世界の終わりを見ているような──そんな錯覚すら覚えた。
俺たちを襲った巨獣の群れは壊滅状態になった。
残った奴らが逃げ出すのを見て、俺たちは「勝った」と思った。
正直、胸の底から安堵した。
誰もがそうだったはずだ。
でも、安心したのはほんの数分だけだった。
司令部から急に無線が入ったんだ。
「ガクラが日本からの通達に応じない。至急追跡せよ」って。
怒号にも似た通信だった。
俺たちは一瞬、耳を疑った。
ガクラが、命令を無視した?
最初は聞き間違いかと思った。
だって、ガクラは日本の制御下にあるはずだろ?
後で知ったことだけど、司令部は奇襲で混乱した戦線を立て直すために、一時的にガクラに護衛を頼もうとしてたらしい。
でも、どんなに呼びかけても反応がなかった。
無線にも、赤外線信号にも、日本語の音声にも──何も、だ。
それどころか、ガクラは完全に無視して、北東に向かっていった。
俺たちはすぐに武装ヘリをすっ飛ばしてガクラを追跡した。
編隊を組む間もなく、全機がばらばらに高度を変えながら、ただひたすらその巨体を追った。
頭の中では、あいつが何をしたいのか考えてばかりだった。
戦意が昂ぶりすぎて暴走しているのか、それとも──。
俺たちがようやくガクラに追いついたのは、夜明け前だった。
そして見たんだ。
地平の向こうに広がる閃光と、爆煙の海。
ガクラが、単独でベルゼブブ軍の大部隊を壊滅させていた。
航空偵察で見た限り、現場には移動式の防護壁がいくつも展開され、掘りかけの塹壕、そして地中に潜伏しようとした個体の痕跡が点在していた。
ただの集団ではなかった。
それは明確な戦術単位──強襲部隊だった。
この強襲部隊は、長距離移動を得意とする飛行型を中核に、地上制圧用の砲撃型と、指揮型からの命令を受けて部隊を指揮する隊長個体で構成されていた。
まず飛行型が周囲を旋回して警戒網を張り、安全を確保する。
その護衛の下で、歩兵型が地面を掘り、防護壁や塹壕を築く。
奴らは爪や頭部の硬質器官を使って地表を高速で掘削し、短時間で溝を形成し、そこへ周囲の土砂や岩を押し固め、防護壁や塹壕を構築する。
人間の工兵部隊が数時間かけて作るような防御陣地を、あの連中は数十分もあれば形にしてしまう。
そして最後に、大型個体が投入される。
砲撃能力を持つ砲撃型が陣地の後方に配置され、長距離火力として機能する。
同時に、極めて分厚い外殻を持つ“盾型”が前面に陣取り、壁のように立ちはだかる。
そうして、短期間で拠点を作り上げる。
まるで軍の臨時前線基地のような機能を持っていた。
人間の軍隊で言えば、偵察部隊、工兵部隊、機動歩兵、重火力部隊が一体化した即応戦力に近い。
生物の集団とは思えないほど、機能分化が徹底されていた。
ベルゼブブ軍の戦術は、かつての戦争の常識を完全に模倣していた。
偵察、侵攻、防衛、そして補給経路の確保。
奴らは生物であると同時に、戦争を学習する知性体でもあった。
つまり、あれだ。
ベルゼブブ軍は、ベルンの中枢基地を再奪還するつもりで動いていた。
もちろん、これは状況証拠から組み立てた推測に過ぎないが、筋は通っている。
ガクラがインド方面へ移動している隙を狙い、まず周囲に生息していた巨獣群を扇動し、大規模な群れとして前線基地へ奇襲を仕掛けさせる。
あの夜、俺たちを襲った群れはまさにそれだった。
種類も大きさも生態もバラバラな巨獣が、ただ一斉に押し寄せてくる。
普通なら、そんな群れはすぐに分裂してしまう。
縄張り争いが起きるか、互いに衝突して統率が崩れる。
だが、あの群れにはそれがなかった。
統率された軍勢でもなければ、完全な暴走状態でもない。
巨大な生物の川が、ただ一点に向かって押し寄せる。
強いて言えば、制御の存在しない“スタンビート”に近かった。
個々の連携はないが、数の暴力だけで戦線を崩壊させるタイプの攻撃だ。
ガクラがいない状況でそれが発生すれば、それだけで前線は壊滅的な被害を受ける。
そして疲弊した防衛線に、本命の強襲部隊が突入し、短時間で陣地を制圧。
砲撃型と盾型で防御を固め、そこを足掛かりに後続の大部隊を呼び込む。
つまり、戦場の主導権を奪い返すための橋頭堡を作るわけだ。
人類側が必死に守ってきたベルンの中枢基地は、そこから一気に包囲される。
あとは時間の問題になる。
もしあの計画が成功していたら、ベルン戦線は終わっていた可能性が高い。
戦場の主導権を奪い、自分たちが優位な状況を作る──それが奴らの狙いだったんだろう。
けれど、その算段を察知したかのように、ガクラは俺たちを助けた“ついで”とばかりに、撤退するベルゼブブ軍をそのまま追撃した。
追う、というより、狩りに行った、という表現のほうが正しいかもしれない。
逃走を始めた個体群は、もはや部隊としての体裁を保っていなかった。
統制信号は途絶え、指揮型と思われる反応も次々と消えていく。
それでも本能的に北東へ向かおうとする動きだけは共通していた。
ガクラは逃げ遅れた個体、反撃を試みた個体、地下に潜ろうとした個体を、効率的な殲滅を意識した攻撃で逃げ惑う敵の群れを追い詰めながら、北東──ミュンヘンの中枢基地へ向かっていた。
俺たち航空隊も後方から追ったが、正直、もう“戦い”とは呼べる状況じゃなかった。
ガクラが先行して地形を破壊し、砲撃型を踏み潰し、飛行型を叩き落としていく。
ベルゼブブ軍の陣形は完全に崩壊し、指揮系統が失われた個体が各地で暴走していた。
そのたびに、ガクラの咆哮が響く。
俺たちは上空から状況を確認し続けたが、もはや介入の余地はなかった。
攻撃指示も、支援要請も出なかった。
必要なかったからだ。
そして、俺たちが上空から見た時には、もうミュンヘンの巣は跡形もなかった。
中心部にあった防衛殻は吹き飛ばされ、黒煙の中に巨大な影が立っていた。
ガクラだった。
たった一体で、長年ヨーロッパを苦しめてきた中枢拠点を、正面から、力尽くで壊滅させていた。
俺たちが行ったのは、その周辺に残っていた死に損ないの個体を掃討することだけだった。
作戦終了の報が流れた時、俺はふと、地上に目を向けた。
瓦礫の隙間に、風に煽られて揺れている布切れが見えた。
国旗だった。
色は褪せ、破れ、長いこと打ち捨てられていたのが一目で分かる状態だったが、それでも間違いなく、自分の国の旗だった。
その時になって、ようやく気づいたんだ。
「ああ、俺、自分の国に戻ってたんだな」って。
けれど、その実感は不思議なほど薄かった。
帰郷の喜びも、達成感も、感慨めいたものは一切湧かなかったんだ。
なんというか、ただ事故処理をしていたら、いつの間にかそこに来ていた──そんな感覚だった。
そんな感覚だった。
だから、あの時の俺には、祖国奪還という言葉の重さを噛みしめる余裕すら、残っていなかったんだ。
ともあれ、作戦計画とは大幅に食い違った形で、ミュンヘンは奪還された。
それは事実だし、戦果報告書にもそう記録されている。
ただし、その過程でガクラが命令を無視した──この一点が、軍上層部の中で小さくない波紋を広げたのも事実だった。
連中にとっては「統制上の懸念」「前例として看過できない事象」程度の扱いだったのかもしれない。
だが、現場にいた俺たちにとっては話が違った。
正直なところ、俺たちは必死にガクラを庇った。
擁護と言っても、感情論をぶつけたわけじゃない。
作戦結果、敵戦力の損耗率、被害軽減、今後予測される脅威低下──そういう数字と事実を、淡々と並べただけだ。
だって、あいつが勝手に動いたおかげで、助かったのは事実だったからだ。
ベルゼブブ軍の大規模部隊が完全に集結する前に叩けた。
大量の巨獣の襲撃を受けて混乱していた部隊には、再編と補給の時間が生まれた。
中枢基地を先行して破壊したことで、少なくとも数か月単位での反攻リスクは確実に減った。
そして結果として、「ミュンヘン奪還」という象徴的な成果まで手に入れた。
それ以上、何が必要だというんだ。
司令部からの護衛依頼を無視したことだって、言い訳のしようはある。
というのも、あいつの察知能力は明らかに異常だ。
海を隔てた場所にいても、防衛戦力が不足している都市を把握し、危機が迫ったタイミングで現れる。
一方で、防衛が比較的充実している地域には深入りせず、後回しにする。
ただし、状況が急変して“本当に危ない”と判断した場合には、距離や予定に関係なく介入してくる。
まるで衛星監視か、全域索敵システムでも使っているかのような動きだった。
今回の件も、行動パターンだけを見れば、実はこれまでと何一つ変わっていない。
危険度の高い戦域を優先し、脅威の中枢を叩き、被害が拡大する前に潰す。
だから、援軍に駆けつけた時点で、すでに敵の大規模部隊を察知していたから、“護衛”という任務を拡大解釈して、あの行動に出た──そう説明できなくもない。
ただそれを、今回は「命令無視」という形でやっただけだ。
もっとも、これはすべて後付けの理屈だ。
現実には、ガクラが何を基準に判断し、何を考えて動いていたのか──その内側を、俺たちは何ひとつ理解していない。
だが、それでも現実として、あの判断がなければ、俺たちは今ここにいなかった可能性が高い。
そもそもの話だ。
いくら日本に命令権があるとか、制御してるとか言ったって、俺たちは“頼みを聞いてもらってる”立場なんだ。
ガクラは機械じゃない。
たった十歳のガキが変異した存在だ。
そんなもんに、完璧な行動を求める方がどうかしてる。
十歳児の知能で、軍のやり方や言葉の意味をどこまで理解できる?
軍事的な優先順位や政治的配慮まで含めた「正解」を判断できると、本気で思っているのか。
それに、だ。
俺たちが追い詰められた時、真っ先に駆けつけて、あの連中を叩き潰したのは誰だった?
護衛要請を無視した?
そうかもしれない。
だが、その代わりに、俺たちの命と、作戦そのものを救った。
それがすべてじゃないか。
そして決定的なのは、ガクラがいなければ、ヨーロッパ奪還計画そのものが成立しないという現実だ。
これは思想でも評価でもなく、単なる事実だ。
これまでの戦いを見れば分かる。
ミュンヘンで起きたことを見れば、誰の目にも明らかだ。
この戦争の主導権は、人類側にあるようで、実際にはガクラの存在に大きく依存している。
計画書の最初の一行目から、暗黙の前提として「ガクラが存在すること」が組み込まれている。
今さらそれを抜いたらどうなるか。
戦線は縮小し、反攻は止まり、また「押し返される戦争」に逆戻りするだけだ。
そんな存在に、誰が本気で文句を言える?
机の前で安全な言葉を選ぶことはできても、責任は取れないだろう。
どのみち、現場の実感としては話は単純だった。
俺たちは助かった。
そして、次の一手を打つための「機会」を得た。
それだけのことだ。
政治だの、国同士の力関係だの、統制権の所在だの──そんな話は、もっと遠くで、もっと安全な場所でやればいい。
俺たちがやるべきことは変わらない。
目の前の生き残りを拾い集め、崩れた部隊を立て直し、次に何が来ても対応できるよう準備する。
勝ったと浮かれる暇も、正しさを証明する余裕もない。
戦争は、まだ終わっていなかったからな。
――――――
後日まとめられた公式戦闘報告書および統合作戦評価書において、当該事案は次のように整理された。
兵士および作戦参加戦力による命令違反、ならびに独断専行は、原理的に重大な規律違反である。
戦場における統制は作戦遂行の根幹であり、指揮系統の逸脱は戦力の分断、誤射、誤認識など致命的な混乱を招く要因となる。
本件発生直後、前線司令部および後方統合作戦本部においても激しい議論が生じ、統制上の問題として公的に強い懸念が表明された。
しかしながら、ガクラは正規の軍事戦力ではなく、日本政府を唯一の窓口とする国際的合意の下で「協力を受けている存在」に位置付けられている。
現時点においても、ガクラの戦力的価値は極めて高く、複数国家がその支援を必要としている状況にある。
その中で、ヨーロッパ奪還作戦に対して優先的な協力を受けられていること自体が、すでに例外的措置であった。
以上の政治的・外交的制約を踏まえれば、連合軍としても、ガクラ個体に対して直接的な懲戒、処分、または公的非難を行う立場にはなかったと結論付けられている。
作戦結果の観点から見れば、当該夜間行動におけるガクラの独自行動は、結果として前線部隊に再編および補給の猶予を与え、ベルゼブブ軍の戦力集中を未然に阻止した。
敵大規模部隊が完全に展開する前段階で中枢戦力を破壊したことにより、作戦全体の継続性は確保され、戦線の崩壊は回避された。
軍事的成果のみを基準とした場合、本件行動は戦局に対して明確な正の影響を与えたと評価せざるを得ない。
このため、現場部隊および統合作戦本部内では評価が分かれたものの、最終的な総括としては「結果的に作戦目的に資する行動であった」と整理された。
命令違反という原則的問題は重く残る一方で、戦線再編の時間確保、中枢拠点の破壊、敵作戦能力の低下という実績が、それを事実上上書きした形となった。
同時に本件は、ヨーロッパ奪還計画がいかにガクラ戦力への依存構造の上に成り立っているかを、改めて明確化する結果ともなった。
以上の事情を踏まえ、連合軍司令部は本件を公式な懲戒対象とはせず、追加処分を行わない方針を採択した。
実務上の判断としては、本件は「記録上は残すが、政治的・軍事的判断により追及を行わない事案」として扱われ、事実上の黙認処理がなされたのである。
なお、本件は戦闘直後の前線混乱および復旧途上にあった通信網の制約により、情報が断片的かつ非体系的な形で各地に伝達された。
その結果、事実関係が正確に共有されないまま、誤解を含んだ情報が拡散し、兵士、避難民、占領地域出身者など複数の層から抗議および要望が集中する事態となった。
特に、民衆の目はもっと単純だった。
各地に「都市奪還」の報が届いたことで、難民および前線後方地域の住民は、純粋な形で戦況好転を実感し、心理的回復の兆候を示した。
中でもミュンヘン奪還の情報は、長期間祖国を失っていたドイツ系難民層に強い影響を与え、ガクラに対する支持と感謝が急速に拡大した。
その後、「ガクラに対して処分が検討されている」とする出所不明の情報が流布したことにより、事態はさらに拡大した。
複数の難民キャンプにおいて嘆願書および抗議文書が提出され、市街地では自発的な集会および「ガクラを守れ」とする標語の掲示が確認された。
公的な評価や軍内部の議論よりも、奪還の事実そのものと、それに伴う民衆の心理的高揚が、社会的影響力において優勢となった形である。
結局のところ、あの出来事はこの戦争の特異性を最も端的に示している。
ガクラは人類側に協力する戦力である一方、完全な指揮統制下に置かれた存在ではない。
そのため、軍事倫理、国際合意、戦場の即応的判断、そして民意が同時に衝突する構造が発生した。
最終的に、連合軍および関係各国は、理念的整合性よりも戦線維持および作戦継続の現実的必要性を優先し、当該行動を黙認する判断を選択した
総括として、本件は「正義」と「統制」ではなく、「生存」と「継戦能力」が優先される戦場の現実を象徴する事例であると記録されている。
戦場における選択とは、しばしば理想ではなく、損失を最小化し、次の一日を生き延びるための判断に他ならない。
https://www.pixiv.net/artworks/146858107




