貿易都市メルカトゥーラ④
さらり、と。さやさや、と。
静かに、けれどはっきりと耳に届く爽らかな水の音。
彼女は水を、特に、その地に根差して緩やかに変化していくものを司る。広く強大な海を支配する水の精霊王より、そのように言い遣わされて幾十、否、幾百年経ったろうか。
かつてはほんの、小さな水たまりであった。徐々に大きくなり、生物が住み、清らかな水質を保つ透き通る大胡。今は国湖デアラクスと人間に名付けられた、己の領域。
(むぅ…まだ侵そうとするか、わらわの聖地を…何者かは知らぬが、小癪な)
一度は浄化されたものの元を絶ったわけではないので、相変わらずそれは領域を侵そうと忍び入る。領域は自らの身体のようなもの、精霊にとって毒にも等しい瘴気は、皮膚の下を撫でられるような不快感を彼女に与えた。
しかし今は耐える時。あの人間が今、元を絶ちに向かっているはずなのだから。眷属も向かわせたのだし、まもなく事態は収束されるだろう。
(それにしてもこの湖の地下…とな。まさか、あの場所が…?今はうち捨てられたとはいえ、あそこは要ぞ。その場が穢れているなどと…)
そうだとするならば、ことは湖だけの問題に済まないかもしれない。身の内に焦燥が沸き上がってきた。身を焦がされるような、じっとしていられないような、予感めいた騒めきが脳裏を掠める。
(ああ…)
早う、と。湖の底で瘴気に身を侵される苦悶に耐えながら、彼女は祈った。
―地下へ―
さらさらと流れる川の上、舟頭の居ない舟は静かに進む。方向や、転覆しないよう水の精霊たちが舟をコントロールしてくれているのだ。
半ば閉じられたようなここでは存外声が響くので、そこで繰り広げられる会話は随分と声量を抑えられていた。
「上級魔法を使えるんだから、精霊と面識があることはわかっちゃいたが………実際に目にするとなんていうかもう…」
「ふふ、大層面白い顔をなさっていましたよ、ヴェガス隊長。ああちなみに、彼らが独自の信頼できる情報源です」
「ああ………納得した」
ヴェガスは頷きつつ、アルバの周りを飛ぶ精霊たちを見つめる。国湖の変事は精霊から伝えられたということだろう。彼らは何処にでもいるから、その気になればあらゆる情報が手に入るに違いない。最強の情報源である。
(扱い方を間違えれば、かなりの脅威だな…)
しかし目の前の男が、悪事に手を染めるとも思えない。隠し事は多いが、それだけはヴェガスにもわかった。だから今はその件について深く考えないことにする。
「ちっちゃくてひらひらしてて可愛いわね。精霊なんて初めて見たわ」
精霊たちはティエラを気に入ったらしく、彼女の周りにも何柱か飛び交っていた。時折彼女の長い艶やかな黒髪を悪戯気に引っ張るのがくすぐったいのか、クスクスと楽し気な笑い声が聞こえてくる。
そんな光景を眺めながら、ユークが口を開いた。
「それにしても、よくこのトンネルだとわかりましたね」
そう、ここは昼間、街の観光していた時にアルバが気にしていたトンネルである。内部はきちんと整備されており、四角く切られた石が綺麗に並べられた壁が続く、水路のような様相であった。
「何となくこの辺だけ、空気が淀んでいたので。精霊たちも遠巻きにここを気にしていましたし、グラナードにお願いして夜半に部屋へくるように伝えてもらったのです」
「それって、もしかして湖に行く前に言ってた伝言ってやつ?」
「そうですよ。グラナードはどうも、精霊たちと意思疎通が出来るようですので」
アルバとティエラの会話にピクリとヴェガスが反応した。グラナードというのは、確かこの額に宝石がついた―――確認したわけではないが、どうも埋まっているっぽい―――黒い猫のことだったはず。
「どういうことだ?ただの猫じゃねぇのは額の宝石からしても明らかだが。懐かれたから連れてるって前に言ってたが、こいつも精霊の一種みたいなもんなのか?」
「そんなところです」
にっっっこりと有無を言わせぬような笑顔ですげなくアルバに返されて、ヴェガスは一瞬怯んだ。この不思議猫に関してのことは、隠しておきたいことらしい。そう思うと俄然気になってしまうのだが。
アルバの足許でちょこんと座っているグラナードをじっと見つめていると、その視線に気づいたのかちろりとヴェガスを見返してから猫はアルバのマントの中に隠れてしまった。
「この仔から情報を得ようとしても、ニャーとしか言いませんから無駄ですよ?」
「…いくら何でもこんなちっこい生きもんに手は出さん」
自身が大きい身体を持つからだろう、ヴェガスは基本的に小さいものには手を出さない。潰してしまいそうで怖いのだそうだ。
(グラナードの本当の姿見たら面白いことになりそうだな)
元の姿である黒い大きなライオンを脳裏に浮かべ、心の内で腹黒いことを思いつつ、アルバはトンネル内を流れる川の先を見つめた。トンネル内は暗いので魔法で作った光球を使ってもほんの数メートル先しか見えないのだが、空気の淀みは濃くなっていくように感じられる。が、穢れというにはまだ弱い。
「…ん?」
「どうした?」
アルバの怪訝な声に、ヴェガスもつられて川の先を見る。そのまま固まってしまった彼の様子を見て、ティエラとユークも川の先へと視線を投じた。
魔力で練られた光球が、懸命に照らしてくれる川の先。石造りの壁が丁度なくなるところ。完全なる闇が出迎えているのが見えるが、それよりも少し手前。
―――川が途切れている。
アルバが乾いた声でぽつりと呟いた。
「…国湖の水深って、何メートルでしたっけ」
「えぇと、十メートルから―――…まさか!?」
「ああ…マジか…そこまで考えが及ばなかったわ…」
アルバの言いたいことを察して、ユークがさぁっと青ざめ、ヴェガスがあちゃあと額に手を置いて嘆く。
底の割れ目から瘴気が溢れていたという国湖。比較的浅い場所でも十メートルはあると、資料にはあった。瘴気の出処を探るため、国湖の地下に今から行くのだ―――つまり、最低でも十メートル以上は下に降りることになる。
「…迂闊でした。街から国湖まで少し距離があるので、坂のように、多少スピードがある程度で緩やかに下へと下っていくものだとばかり…まさか街の下に隠れるようにしてあるとは…」
「え?え?どういうこと?」
三人の男の緊迫した雰囲気に狼狽え、未だ状況を掴めていないティエラが助けを求めるようにアルバを見つめた。
「我々は国湖の水深よりも深いところに行くんですよ。そして川が途中で途切れている。つまり―――」
「つまり?」
こてん、とティエラが首を傾げる。
「―――滝です」
「滝って街の中にあったやつ?それがこの先にあるの?…ん?それって」
「落ちます。舟ごと」
「ちょっとおおおおおおぉぉぉぉ!!??」
ようやく事の重大さがわかったのか、ティエラが絶叫した。ぅわん、とトンネル内にその絶叫が響いたが、川の流れは止まらない。ぐんぐんと迫っている。滝が。
滝から落ちるだけならいいが、問題は下に着いた時の衝撃だ。川下りをするだけの舟が無事で済むとは思えない。せめて何か衝撃を和らげる方法は、とアルバは周囲を飛ぶ精霊たちに聞いた。
「水の精霊たち、滝下りで我々がダメージを受けないようにすることは?」
『滝つぼに沈まないようには出来るよ~!』
『すぐ浮かべてあげる~!』
「滝つぼに突っ込むことは確定ですか。それでは沈まなくても舟が壊れる可能性がありますね!」
うん、精霊たちに頼るのは無理だ。
「アルバさん、昼間使っていた結界は!?」
「分かってて聞いてますか、ユーク?」
「いやなんか、アルバさんならどうにか出来るかと思って」
「最初から範囲が決められているものは、オレでもどうにも出来ません。あれは一人分の魔法です。舟丸ごと包むのは無理です」
あの結界は空気以外を全て遮断するという強力なものである代わりに、範囲が絶対に一人分と決定されている魔法だ。レイヴァテインを使っても、結界の強度が強まる、あるいは結界の持続時間が延びるだけで範囲を広げることは出来ないだろう。
ああ、何かちょっと滝の音が聞こえてきた…滝は目の前なのに聞こえてくる音の小ささからしてかなり下まで距離があることが察せられる―――つまり結構な高さがある。少なくとも十メートル以上は絶対的確実にある。
「なら他の魔法はないのか!?アルバ!」
「浮遊魔法はありますが時間制限がありますし、正確な高さが分からないと…下は真っ暗、見えない滝つぼまでの距離を見極めて唱えるには些か無謀かと」
「もう滝はすぐそこよ!?どうにかしてよアルバー!」
こんな所で死ぬのは嫌ー!!
アルバのマントにしがみ付いて叫ぶティエラを宥めつつ、アルバは一縷の望みをかけて傍らを飛ぶ虹色の錦鯉に問う。
「キュプリ、何か方法はありませんか?」
『えぇと、舟が壊れないようにすれば良いのでしょうか?』
「そうです、出来ますか?」
『はい、滝の落ちる方向を変えれば大丈夫かと』
ならそれでお願いします、と言いかけて、アルバははた、とキュプリの言葉を反芻する。滝の落ちる方向?変える?意味がわからない。
どういうことかと聞き返したかったが、タイムアップだ。もう舟は今まさに滝に落ちようとしていた。ええいままよ、とアルバは叫ぶ。
「キュプリ、お願いします!皆さん、舟に捕まって―――ティエラッ!!」
完全に舟が空中へ投げ出され、浮遊感がアルバ達を襲う。その一瞬一番軽いティエラが浮くのを見て、アルバが慌てて彼女を腕の中に捕らえた。そうして舟の縁に捕まったところで、舟は真っ逆さまに落下―――
しなかった。
ばしゃん!
(えっ?)
落ちたと同時に舟底が水についたような音と衝撃がし、アルバが疑問符を浮かべたのも束の間。舟は一気に加速して坂となった滝の上を奔る。
「いやあああぁぁぁぁああ!!!!!」
急加速した舟の勢いにたまらずティエラが叫ぶのを聞きながら、アルバは落ちる前に言っていたキュプリの言葉を思い出した。
滝の落ちる方向を変える。
(そういうことかー!!!)
垂直に落ちていたはずの滝の水を、斜めにして坂に変えたのだ。前世風に言うなら、つまり天然のウォータースライダー。ただしスピードは段違いに速い。
(マズい、マントが…ッ)
アルバはティエラを背後から抱きしめる形で抑え込んでいたが、風に思い切り煽られるマントが仇となってアルバ自身も浮きだした。マントを外すか否か、とアルバが逡巡した時、がしっ、と力強い手がその腰と肩を掴んで抑えつける。左右を見れば、腰をユークが、肩をヴェガスが掴んでいた。なお、グラナードはティエラとアルバの間に挟まれている。
屈強な二人の騎士に更に抑えつけられ、アルバとティエラはどうにか身を屈めて加速が生む風からは身を守ることが出来た。が、突然バゥンッ、と舟がバウンドする。そのまま何度かバウンドしているらしい衝撃に、まるで水きりのように舟が川を奔っているのだと察した。
(ということは、平らな川に辿り着いた?)
あとはスピードが弱まれば、とアルバは舟の縁から顔を上げた。途端、見えたのは剥き出しの土壁。
「―――ッッ!!」
ぶつかる、とアルバが思った時、視界がぐるんと急旋回する。突然の視界変化と重力変化についていけず、ふっと意識が暗転した。
『アルバ―!』
『目ぇ開けてー!』
『死んじゃヤダー!』
「…多分死んでませんので、どいてください…」
精霊たちが喚く声で目が覚めたアルバだったが、視界は精霊たちによって塞がれていた。そしてどいてもらったが、やはり視界は暗いまま。魔法で生み出した光球はウォータースライダーの途中で置いてきてしまったか、集中が途切れて消失してしまったか。
『明かりよ』
アルバは新たに光を生み出し、周りの様子を伺った。光に照らされて浮かび上がった光景を暫く眺めるが、辺りは静かで動くものはない。上とは比べ物にならないほどの穢れが漂っていたが、一先ず危険はないようだ。
「ティエラ、ユーク、ヴェガス隊長!」
衝撃で吹っ飛んで意識を失ってはいるものの、全員近くに転がっていた。舟も陸揚げされているが、壊れた様子はない。
アルバは四肢に力を込めてそっと身を起こす。動作に問題はなかった。あちこち打ち身のような痛みはあるが、折れてはいないらしい。
一番近くに居たティエラを、アルバは慎重に抱き起す。
「ティエラ、目を覚ましてください」
「うぅ…」
呻いてはいるが、ざっと見た限りでは大きな怪我はなさそうだ。
ティエラが目覚めるより先に、ユークとヴェガスが目を覚ましたらしい。アルバの背後で鎧が軋むような音がした。
「ユーク、ヴェガス隊長、怪我は?」
「…多分、大丈夫です…打ち身くらいですかね…あいたた」
「ああ…俺も平気だ。全員無事なのか?…何だこの場所、随分広いな」
身を起こすと同時に周りも見たらしい。光球に照らされた部分だけであるが、それだけでもこの場の広さが伝わったようだ。
地底湖、とでもいうのだろうか。多分舟が水きりのように移動したのがここだろう。少し遠くに滝の音も聞こえてくる。広いといっても、天井は低いし規模は大分小さい。
「地下というから、土が剥き出しだと思っていたが…こんな広い湖があるとはな」
「はい…それに、我々が居る場所は石畳です。こんな地下に、人の手が?」
ユークの言葉に、ヴェガスも足元を見た。そう、自分たちが居るのは、地底湖の縁に造られたらしい石造りの桟橋だ。注意深く辺りを探るまでもなく、桟橋の向こうにはぽっかりと口を開けたトンネルが見える。
彼らが周りを見渡している間に、ティエラが目を覚ました。
「うぅ…あ、いったぁ…」
「どこか痛みますか、ティエラ」
「何か、腰…?打ったっぽい…ていうか、あたし生きてるの…?」
「生きてますよ、しっかりして下さい」
アルバに支えられながら身を起こしたティエラは、己の身体を確認する。あちこち擦り傷だらけだ。それはティエラだけではない。
「う~、もうめっちゃ怖かった…二度とごめんよ、あんなの」
「同感です。ユーク、ヴェガス隊長もこちらに。まとめて回復魔法かけますから」
アルバの言葉に少し離れて周りを見ていた二人が戻って来た。アルバは手早く下級の回復魔法を唱え、全員に癒しの魔法をかける。瞬く間に傷が消えて痛みも引いた。
「この程度で済んで良かったですね。何と言うか…生きた心地がしませんでしたので」
「最後どうなったんだ?何か回転したような感覚があったんだが」
ユークがぼやき、ヴェガスが問う。何となくだが何が起こったか分かるアルバが説明した。
「多分キュプリの仕業ですね。勢いがついてそこの土壁に激突する前に、下から水を噴き上げてスピードを殺し、ここへ打ち上げたんだと思いますよ。乱暴でしたが、適切な判断だったと思います」
『アルバ様のおっしゃる通りです。皆さま揃って気絶するとは思いませんでしたが…』
ふわりとアルバの傍に現れたキュプリが、申し訳なさそうに謝罪する。助かったのだから、それに対する文句はない。むしろこちらが感謝するべきだ。
「あなたのお陰で助かりました、キュプリ。ありがとうございます。…にしても、ここは随分と穢れが酷くなってますが、精霊たちは大丈夫ですか?」
『ツライ』
『キモチワルイ』
『ニゲタイ』
先程気絶していたアルバに大泣きで縋っていた時と大違いだ。穢れに辟易して表情さえ無くし、言葉も棒読みである。キュプリも表情が読みにくいが、どことなく辛そうだ。
さもありなん、清浄な地で生まれる精霊たちにとって、穢れは大敵なのである。長く穢れに晒されていると、力を失くして消失してしまう。
「一度この場を浄化しましょう。これだけ穢れが溜まっていると、我々にも悪影響ですしね」
「うん…あたしも気持ち悪くなってきたわ」
地底湖程度の広さであれば、中級魔法で十分だろう。この先の浄化は、面倒だがその都度すればいい。アルバは桟橋の先に立ち、静かに中級の浄化呪文を唱えた。
『光の精よ…惻隠の情もて光輝の腕、千尋の総て慰撫せしめん―――浄福郷』
瞬く間に白い光が地底湖の隅々まで広がり、その場の穢れが一瞬にして消える。呼吸がしやすくなって、精霊たちにも笑顔が戻った。
その瞬間。
ザバァッ!
「アルバさん!!」
地底湖から突如飛び出してきた何かが、襲い掛かって来た。腰の剣へ手を伸ばして迎撃しようとしたものの、それよりもユークがアルバの腰を攫って避ける方が早く、思わずユークの腕にしがみ付く。流石騎士、咄嗟の瞬発力と判断が違った。
「なっ、魔物だと!?こんな地下にも居やがるのか!」
ヴェガスの言う通り、地底湖から出てきたのは水生の魔物だった。先ほどまで静かだったのに何故突然、と思ったが、恐らく穢れのせいで今まで出てこれなかったのだろう。アルバが浄化したから襲い掛かってきたのだ。
「初めて見るタイプの魔物なんだけど、どうしたらいいのっ?」
「こいつぁビボラーナだ!毒持ってるから舌と爪に気をつけろ!あと尻尾も攻撃してくる!皮膚の粘液のせいで魔法が効きづらいが、剣は通る!」
ティエラの戸惑った声に、ヴェガスが現れた魔物について説明した。ビボラーナという魔物は蛙の身体に蛇の尻尾を持っていて、なかなかに嫌悪感を煽る見た目なのだがティエラは怯まずに剣を振るう。
「アルバさんは下がっていて下さい。ヴェガス隊長が言うように、あれは魔法が効きにくい魔物です」
「分かりました、では援護に徹しますね」
アルバ自身も剣を使うが、所詮は貴族のお稽古レベル。騎士には到底敵わない。魔法が効かぬなら大人しく本職に任せ、自分は援護した方が彼らの動きの邪魔にもならないだろう。
何匹居るのか、ビボラーナはぞくぞくと地底湖から出てきた。背後にはトンネルがあるが、あちらにも何が出てくるか分からない。迂闊に飛び込んで挟み撃ちになるのも御免なので、ここは引かずにビボラーナを迎撃したほうがいいだろう。
しかし倒しても倒しても延々と湧いて出て来られると、流石に困る。幸い、ビボラーナの強さはそれほどでもないにせよ、この場を脱出した方がいいのは明らかだった。
『アルバ様、私はどうしたらいいでしょうか?』
「トンネルの先を偵察してきてください!魔物が居ないようであれば、そちらに逃げ込みます」
『承知致しました』
キュプリが水の精霊たちも連れてトンネルの先へ向かったのを見送り、アルバは陸揚げされた舟の元へ敵の動きを見つつ近寄る。この先へ向かうのであれば、借りた舟をここに捨て置いたままでおくことは出来ない。見たところ地底湖には舟が進める道もなく、であれば持っていくしかないと判断した。
アルバは腰に下げてあるウエストポーチを手にし、舟にくっつける。途端、しゅん、と舟がウエストポーチに吸い込まれた。
アルバが持つウエストポーチは魔道具であり、中身はかなり広い収納空間になっている、冒険者必須の荷物入れなのだ。ちなみにティエラが持っているナップザックも、同じ仕様の魔道具である。
(四次元ポケットがまさか異世界で発見出来るとは思わなかったよなぁ…)
某猫型ロボットを思い出しつつ、便利な魔道具を再び腰に装着した所で、ティエラの叫びが届いた。
「アルバ伏せてっ!!」
言葉の意味を理解する前に反射で伏せると、頭上を鋭く切り裂く音が響く。ボトリと、恐らくティエラの剣に切られたビボラーナの舌が、目の前に落ちてきた。グロい。
舌を切られてもなおこちらへ向かってくるビボラーナと、アルバの前に立って剣を構えるティエラの姿を見てアルバも援護のために早口で呪文を唱え出す。
魔法が効きにくくとも、種類によっては足止めになるはずだ。ついでに唱えるのは上級魔法だし、ちょっとでもダメージを与えられるだろう。
『万物触れること叶わぬ不可侵の女王、降り頻しきる涙珠の慈雨、氷肌に伝う』
唱えるのは以前にも使ったことがある氷の魔法だ。範囲も広いし、凍らせれば動きも鈍らせられるから、ティエラたちが倒しやすくなる。
『凛たる結晶の裡、空劫等しき天赦を与えよ!白魔の氷牢!!』
ビボラーナの足許に魔法陣が輝き、大小の透明な球が勢いよく溢れ出た。沢山のそれを避け切れず、触れた箇所からパキリパキリとビボラーナが凍っていく。氷の彫像になりかけていくビボラーナを、ティエラたちが次々と叩き壊した。…これも中々グロい。
ビボラーナの数が減ってきたところで、キュプリが戻って来る。
『アルバ様、トンネルの奥に扉がございました。そこまでに敵意を持つ者は見当たりません』
「そうですか、ありがとうございます、キュプリ!―――皆さん、トンネルへ!」
アルバの声に、戦っていた三人がビボラーナの隙をついて一斉にトンネルへと飛び込んだ。当然ながら残ったビボラーナも追ってきたが、トンネルに入ろうとする寸前で再び氷の上級魔法を放つ。襲い掛かろうとしたビボラーナたちが入口で凍り、後続のビボラーナがそれに邪魔されて立ち止まった。これで少しは時間が稼げるはずである。
「驚いたな、上級の氷魔法がビボラーナにこれほど効くとは」
「そうですね、新しい発見です。今後に活かせそうではありますが…上級の氷魔法を使う方がいらっしゃるかどうか」
「それな………なぁアルバ」
「お断りします」
小走りで会話していた騎士二人だが、話の矛先がこちらに向かいそうな気配を察知し、にっこりとアルバは先手を打った。騎士団に入れと、いつもの勧誘をしようとしたヴェガスの眉間に皺が寄る。
トンネルは一本道でそう長くなく、すぐにキュプリの言っていた扉へと辿り着いた。
「これは…」
「随分と立派な扉ね…?」
ティエラの言う通り、土壁が剥き出しだったトンネルにはそぐわない、白く立派な扉がある。何処となくその扉に既視感を感じ、アルバは内心で首を傾げた。見覚えがあるような気がしたのだ。
「この扉、取っ手がついてないが…どうやって開くんだ?」
ヴェガスが扉を押してみるが、びくともしない。引こうにもとっかかりがないのでどうしようもない。他に開け方があるのだろうか、と思った時、キュプリがアルバ様、と声をかけた。
『こちらに魔力を通して頂ければ、開くかと』
「―――それは…!」
扉の横、小さな窪みの中に細い台座に乗った珠がある。レーギャルン匣洞跡にあったのと同じものだ。道理で扉に見覚えがあると思った。
「もしや、この先にあるのは…」
レーギャルン匣洞跡と似たような遺跡がこの先にあるのか。メルカトゥーラの街について調べた時には、遺跡についての記述は一切なかったが―――まだ発見されていない未発掘の遺跡なのだろうか。言いようのない高揚感がぐわりと胸の裡に湧き上がる。
「おいアルバ、どういうことだ?魔力で開くのか?そんな扉があるなんて聞いたことないが」
「ヴェガス隊長、これはもしかしたら歴史的発見になるかもしれませんよ」
「は?」
何を言われたのか分からない、とヴェガスが首を傾げる。しかしその横に居たティエラは目を輝かせた。やはりティエラとは気が合う。
ティエラ、ヴェガス、ユークを順に見、アルバは不敵な笑みを浮かべて台座の珠に手を乗せた。
「この先に広がるのは、まだ誰も足を踏み入れたことのない―――未発見の遺跡かもしれないということです」
驚いた顔をする彼らを他所に、珠へと魔力を込めていく。レーギャルン匣洞跡と同じように台座から扉へと魔力が通り、開かなくなって何百年経っていたのか、ギッ、と重たい音を立てて扉が開き始めた。
途端、ぶわりと隙間から溢れ出したのは黒い靄。穢れではない、完全なる瘴気である。
「湖にあったのと同じ黒靄!?」
「ということは元凶がこの中に…」
慌てて扉から飛び退きつつも、咄嗟にティエラとアルバを背に庇う辺り流石だ。騎士の鏡である。しかしこの場で黒靄を浄化できるのは自分しかいないので、アルバは庇ってくれたユークの横から前に出た。
唱える魔法はもちろん、国湖でも使用した上級の浄化魔法である。
『無垢なる棲家にて、不浄の果てを嘆く聖なる巫女よ。その祈りによりて降りたもう光には一点の曇りもなく、斉しく数多の足許を照らす。どうか僅かな悪念も終ついには落日を迎えますように…!―――聖地降誕!』
今回は魔法を構築するイメージを少し変えて、湖の時のように中心から広がるようにするのではなく、前方へと打ち出す形にした。眩く輝く白の光が扉に向かって打ち出され、溢れ出た瘴気を包み込むように飲み込んでいく。光は止まらず、更に扉の奥へと強く流れていった。
「これが湖でぶっ放したヤツか…間近で見ると強烈だな、目が焼けそうだ」
光から目を庇いつつヴェガスが納得したような声を上げた後に、光がゆっくりと収まっていく。瘴気は消え失せ、扉は完全に開いてアルバ達を受け入れんとしていた。
アルバは一歩を踏み出し、一同に声をかける。
「さぁ未知への冒険に参りましょう!」
「いや待て。瘴気の元を絶つために来たんだろ?寄り道はしねぇからな!?」
―――はい、聞こえません。