第七章
午前十一時半、外は相も変わらず暑かった。
「お、待ったかい?」
「いえ、今来たところです」
先に到着していたのは昭裕だった。
「うふふ。初デートみたいな会話だねえ」
跡切は服を着替えてきていた。今まで見たものはどれもラフな格好ばかりだったが、今はパンツスーツ姿である。
「やめてくださいよ、そういう冗談。もうトモ姉だけでいっぱいいっぱいなんですから」
「ははは、ごめんごめん。でもさ、朋香くんの言動は果たして冗談かな」
「……駅で集合ってことは。電車に乗るんですよね。目的地はどこです?」
昭裕は強引に話題を変える。
「行くのはね、ここだよ」跡切が料金表を指さす。「料金にして七百八十円」
「けっこう遠いですね」
覚えのある駅名だが、行ったことがあるかどうかはわからない。
「うん。往復にして千五百六十円。高いよね、依頼人。そう思うよね、依頼人。必要経費だよね、依頼人」
「はいはい、出しますよ」
乗り込んだ車両は空いていた。クロスシートに斜向かいに座る。ドアが閉まり、電車が動き出すと跡切が口を開いた。
「さて、少年。君は二時間以内に藤宮理美に会うことになる。これから彼女の現住所に向かうよ」
「藤宮に!? えーと、アポイントメントは?」
「んー、アポは取ってないけどね。当たって砕けろよりかは会える可能性あるんじゃないかな。まあ、なんとかなるよ」
「……そんなもんですか?」
「そんなもんよ。――会うのが嫌?」
「……別に嫌ではないですが」
肯定することで昭裕は自分を誤魔化そうとした。本当は八年も隔たりがある人間とどんな顔をして会えばいいのかよくわからない。同窓会とは違うのだ。
「それより会う目的は何なんです?」
「現状の確認および把握ってとこかな。会うことでこれからの指針を決められるかもしれない」
「……意味がよく分かりません」
「会えば分かるはずさ」
含みのある言い方だった。昭裕は説明の続きを待ったが、跡切はそれ以上語ることなく文庫本を読み出す。
昭裕は視線を窓の外に移した。二時間後には分かるはずと自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようと通り過ぎてゆく人や看板を目で追い続ける単純作業に入る。
しかし、今度は歓喜を放っていた雨について深く考え始めていた。
あの後、自分はどう返事をしたのだろう? それがひどく気になった。
「ここからは歩きだよ」
電車に乗っていたのは一時間弱ほど。改札を出ると、きれいに整備された川が見えた。一方で複合商業施設もある。
地図を手にした跡切に昭裕は従う。二人は黙々と歩き出した。
五分、十分と静かに時が経過してゆく。
「まだ歩くんですか?」
二十分を超えたところでついに昭裕は降参した。すでに汗が出始めていた。八月は目前なのだ。
「うーん。今で中間地点ってとこかしらね」
汗が出にくい体質なのか、跡切は平気な顔をしている。
「タクシーという選択肢は考えませんでした?」
「――ませんでした。経費削減……じゃなかった。エコ活動よ、エコ活動。天然資源を使わないことで地球の環境保全にアタシたちは貢献してるのよ。現在進行形でね」
「うわーい。俺たちってスゴいなあ」
万感を込めた結果、棒読み口調になる。
やがて、二人は閑静な住宅街に入った。一般的な建売住宅の家よりも広い家が多々見え始める。
「よし、到着。ここよ」
程なくして二人が足を止めたのは、表札が二枚かけられている邸宅だ。
表札の一枚は、藤宮となっていた。
――ここに藤宮理美がいるんだ。
昭裕は漠然とそんなことを考える。跡切がその背中を押しながら小声で言った。
「さ、インターホンを鳴らしましょうか。アタシは少年を担当してる心理カウンセラーって設定、忘れないでね。あと藤宮理美がここにいるってことは小学校の同窓生から聞いたってことで」
事前に打ち合わせたのはそれぐらいだった。作戦名はケセラセラ。
深呼吸をしてから、昭裕はインターホンの呼び出しボタンに軽く人差し指を置いた。まだ押してはいない。
「どちらさま?」
先手を打たれた。麦わら帽子をかぶった老齢の女性が庭の隅にいた。花の手入れをしていたようだ。スコップを持ったまま門の方へやってくる。
「は、初めまして。伊東昭裕といいます」
少々しどろもどろになりつつも昭裕は身元を明かした。悪いことはしていないはずなのに心臓がバクバクと鳴る。幸いにも相手の女性はこちらの話を聞いてくれた。
「そう。あなたも桜見台小学校の生徒さんだったのね」
女性は藤宮理美の祖母だった。昭裕の顔をじっと見つめてくる。
「あの、理美さんにお会いできないでしょうか?」
昭裕が思い切って言うと、女性は困り顔になった。
「あの子は今、外出しています。そうですね。もうすぐ帰ってくるでしょうから、中でお待ちになってくださいな。ただ、会えるかどうかはわかりませんよ。私の娘、つまりは理美の母親次第ですので」
女性の表情が悲しさを内包するものに変わる。
「なぜですか?」
昭裕は恐る恐る尋ねた。
「詳しいことは言えないの。ごめんなさいね。私が今語れることは、理美はずっと酷い目に遭い続けている。それだけです」
女性はそれだけ言うと、扉を開いてくれた。
およそ三十分ほどの時間、かちんこちんに緊張したまま昭裕は応接間のソファーに座っていた。出された紅茶には一度も口をつけていない。
跡切はさすがに落ち着き払い、紅茶を嗜んでいた。
パタパタと足早なスリッパの音を耳にし、昭裕の縮こまっていた背筋が伸びる。
現れたのは、細身の中年女性だった。
「ようこそいらっしゃいました。理美の母の、佳枝と申します」
「お邪魔しています。桜見台小学校五年一組にいた伊東昭裕です。突然に来てしまって本当にすみません」
慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「どうぞおかけになって下さい。そちらのあなたは――?」
佳枝は少し訝しがる視線で跡切を見る。
「私は彼の心理カウンセラーです。――」
跡切が嘘八百を並べ始めた。要約すると、クラスメートを失ったというトラウマを未だに引きずる昭裕にとって一番効果的な心理療法は同じ経験をしたクラスメートたちと会話すること。そのために生き残った元クラスメートの家を一軒一軒回っている。そんな出鱈目だった。
「いいでしょう。娘と会うことを許可します。でも、あなたのお役には立てないでしょうね」
佳枝の口振りは刺々しいものだった。
「娘を連れてきますので、少々お待ちを」
佳枝がいなくなると、跡切は盛大に息を吐き出した。小声でぼやく。
「いやはや冷や汗もんだったね。住所をどうやって調べたとか聞かれなくてよかったわ。あとは会うだけね」
「はい」昭裕は生返事をする。上の空となっていた。役には立てないとは何を意味しているのだろう。
やがて再びスリッパの音がする。先程より、ゆっくり目で静かだ。
「覚悟してね」跡切が耳元で囁く。
かちゃりとドアが開き、佳枝が姿を現した。
「お待たせしました」
ドアを閉めないまま、佳枝はソファーの所にまで戻ってきた。そのままあっさりと座ってしまう。続いて入ってくる人物はいない。
(えっ?)
奇妙なその応対に昭裕は戸惑う。藤宮理美は会ってくれないのだろうか? そんな昭裕の様子を見て、佳枝は一瞬自虐的な冷笑を浮かべていた。彼が気づく前に無表情になっていたが。その後、夫人は部屋の外に顔を向けて、命令するかのようなはっきりした口調で声を発する。
「理美。応接間に入ってきなさい」
そして現れたのは、昭裕の知る『藤宮理美』の面影を残した美しい人形だった。部屋に入ったところで立ち止まっている。
夫人はその人形に第二の命令を発した。
「理美。ドアを閉めなさい」
人形がドアを閉めた。そのまま静止する。昭裕にはその背中しか見えなくなった。
「理美。反転しなさい」人形が振り返る。「ここまで歩いてきなさい」
命令と共に佳枝がソファー近くのカーペットを指し示す。
無言のまま人形が歩き出した。馬鹿みたいに規則正しい歩調だ。
「そこに座っている人たちの方に向き、頭を下げながら『こんにちは』と言いなさい」
「こんにちは」
人形が抑揚のない声を出した。
ワンピースの隙間からしっかりと胸の谷間が見えているが気にする様子はまったくない。
「頭を上げて、ここに座りなさい」
夫人が昭裕の正面のソファーを掌で叩いた。
人形が座る。
「膝を閉じなさい」
ようやく下着が見えなくなった。
「前を向きなさい」
ガラス玉のような眼球が昭裕を捕らえる。
「納得できましたでしょう。この子はあなたのお役には立てませんよ」
「……」
昭裕は言葉を発せられなかった。けれど状況は理解できている。簡単なことだ。
藤宮理美には自我がない。心が、感情がない。
分かり易く、受け入れられない現実だった。
「いつからですか? 娘さんがこうなってしまったのは」
跡切の問いに幾分激しいトーンで佳枝が返答する。
「決まってるでしょう! あの事故の後、間もなくです。せっかく無傷で帰ってきてくれたというのに。――なのに、どうして、私の娘がこんな目に遭わなくてはいけないのです。えぇ、医者は匙を投げましたわ。事故の怪我が治った後、娘の友人たちにもわざわざここに来てもらって面会させてみましたがこの子は何の反応も見せません。そこの彼に対しての反応と一緒です。……さあ、もういいでしょう。理美、立ちなさい。さようなら、と言いなさい。そして、理美の部屋に戻りなさい。そこで椅子に座っておくのです」
母は再び娘に命令を発した。
昭裕と跡切は佳枝の運転する車で駅に向かっていた。
帰る以外にできることはなかった。
車内は冷房が効き過ぎていて昭裕は寒さを覚えていたが、ひたすらに我慢していた。
結局、藤宮理美から自発的な声を聞くことはただの一度もなかった。聞いたのは、母親の嘆きだけだ。事故のために娘が壊れてしまったと母親は思っているようだ。
「あの病院――」
静かだった車内に昭裕の声が響く。覚えのある建物を見つけてしまい、思わず声を出していた。
「ええ、あそこに理美は週一回通院しています。身体機能の維持を目的として。知っていたのですか?」
「いえ、大学の知り合いが入院していて見舞いに行ったことがあるんです。六月の中旬ぐらいのことですけど」
うっかりしていたとしか言いようがない。完璧に忘れていた。昭裕より年嵩だが同学年である山田さんが入院していた病院ではないか。
「……そう。あなたはもう大学生なの……。ひょっとしたら、その見舞いの時にもあなたは理美に会っていたかもしれませんね。気づかなかったでしょうけど」
羨望と嫉妬を含んだ声に跡切が顔をしかめる。
やがて、車は十五分ほどで駅に着いた。徒歩の道のりより遠回りであったが、やはり圧倒的に快適だ。
「送っていただいてありがとうございます」
「私も愚痴を色々と言ってしまいました。ごめんなさいね」
佳枝は小さくぎこちない笑みを見せてから、去っていった。
「あの様子からして、婦人もだいぶん情緒不安定になってるわねー。ま、そうじゃなきゃ、アタシのあんな与太話信じなかっただろうし、彼女にも会えなかっただろうけどね」
跡切はそう述べ、首をコキリと鳴らす。
「フゥ。慣れないことすると疲れるわぁ」
肩をグルグルと回す。
「こういうのは探偵の十八番だと思いますが」
「あら、そうだったかしら。ま、上手くいったんだから良いじゃないの」
「やれやれっすね」
昭裕は軽口を叩いた。けれどすぐに気分は沈んでしまう。
「藤宮はずっとああなんでしょうか?」
小学生時代の同窓生があんな『意志を持たない』状態に陥っているとは思ってもいなかった。
「さて、どうなんだろうね。まあとにかくこれではっきりしたわ。少年を取り囲んでいる状況が確かにアタシの領分ってことはね。会って確信できたよ。――少年?」
喋りながら跡切は昭裕の首根っこを捕まえた。倒れ込むのがわかったからだ。
「……」昭裕からの返事はない。聞こえてきたのは、寝息だけだった。
「あちゃーだ。失敗しちゃったかな、これは。よいしょっと」
跡切は昭裕を軽々と背負い上げた。




